第5話 君が為 春の野に出でて⑤ 4月13日

 そして迎えた翌日。四月十三日の木曜日。そよ風が心地よい天気。

 宣言通り、適当に履き古したスニーカーを持ってきた。中学二年の時に買った物で、購入当初は真っ白だったそれはくすみを帯びている。そしてサイズも少し窮屈になりつつある。捨てる予定だったけど、外履きが届くまでのあと数日、最後の役目として頑張ってもらうことにした。


 「後輩は真面目だね」

 部室の三和土にてスニーカーに履き替える私を眺めながら、先輩がしげしげと呟く。

 

「真面目ならこんなところにいないですよ」

 鼻をならして口走った後で、少し失礼だったかと気まずくなる。視線をやれば、涼やかで曖昧ないつもの微笑があった。


 「確かにそうだ。後輩は思慮深いのに、時々遠慮がないね」

 「そんなこと、ないと思いますけど」

 とりあえず機嫌を損ねていないことに安堵しつつ、妙な人物評価を受けて、どうだろうと首を傾げる。

 思慮が深いというか、踏ん切りが悪いだけで。いうなればむしろ遠慮がちな方だと思うけど。突っ込みどころの塊を前にすると、つい口を衝いて文句やら皮肉やらが出てしまうのだ。つまりは先輩のせいだ。


 「でも、そこがいいところだと思うよ」

 訳の分からない流れで突然褒められると、人は感情が迷路になるらしい。嬉しいのか、知り合って数日で私の何がわかるんだという不満なのか。


 「先輩は……変な人ですね」

 色々と包括して、そんな返しに帰結した。

 「ありがとう」

 決して褒めてはいない。調子は狂う一方だけど。どうやらこの人は、私に不躾な態度を取られるのが嫌じゃないことだけは、なんとなくわかった。




 「今日は走ってみようか」

 部室を出てすぐに、先輩は手で庇をつくりながら空を仰ぐ。気まぐれな提案はこれまでで一番魅力的だった。屋外パス練習よりも、よほど運動部らしい。


 「いいですね。どれくらい走ります?」

 「んー、河川敷の辺りを適当に」

 「はーい」

 

 二つ返事で了承して、二人で校門を後にする。学校の辺り一帯の土地は旧河川の埋め立て地。平坦な道を歩いて十分もすれば遊歩道として整備された河川敷に辿り着く。一級河川を眺めながら歩けるスポットとして、県の数少ない魅力でもある。みれば、他の運動部も走っている様だった。


 「それじゃ、いこうか」

 「はい」

 川が滔々と流れる横を、緩やかなペースで二人、横並びに走り始めた。陽光を浴びて川面がきらめく。景色が流れるとともにひんやりとした風が肌を滑っていく。芝生を刈り取り、コンクリートで舗装された道をひた走る。足裏がしっかり地面を捉える感覚に、ほんのすこしの青春が視えた気がした。


 「後輩はさ」

 素直に心地よさを満喫しているところ、先輩の声に引き戻される。

 

 「なんです?」

 私を横目に走る先輩は、改めて絵になるなと思った。悔しいくらいに。川風が黒い前髪を揺らして、きらめく川をその目に宿して。ランニングのフォームも、背筋が伸びた綺麗なもので。そんな美の化身みたいな先輩は何を言うんだろう。今日何度目かの私の人物評だろうか。


 「……ううん。なんでもない」

 やけに情感たっぷりに言い淀む。いや、情感たっぷりは先輩の容姿とかに引っ張られての私見が入っているけど。

 「なんですか、それ」

 「川、綺麗だね」

 露骨に話を逸らして、ペースを少し速めて。負けじと追い付くと、さらに少しの差を付けられる。終わらないイタチごっこ。その要因は。


 「ちょ、ちょっと、待ってくださいよ!」

 この先輩、足がかなり速い。長い脚のたまものか、まだお互い本気を出していないけど、間違いなく私が本気を出したところで追いつけないのは分かる。

 数歩分の前方を行く先輩は時折僅かに顔を振り返らせて、私の顔色を窺っている。

 それは、どこまでなら怒られないかを試す子どものようで。

 

「この……!」

 挑発に近いその行動に、思うつぼなくらい競争心は掻き立てられていた。

 今までランニングの域を越えなかった速度から、疾走に切り替えるべく。状態を軽く前傾にして、腕を大きく振ろうとして、両足に力を込めて。


 「……はあ」

 そして、止めた。

 「もう。追いつけませんってば」

 足を止めて降参を表すれば、先輩は身体を前にむけたまま器用に後退。私の横に再び並び立つ。

 「ふふ。速いでしょう、私」

 「はいはい」

 「カモシカみたい?」

 「それ、足が速いのとは別の意味ですよね」

 「正解」

 よくわからない問答をあしらう。

 そもそも何でこんなことになったのか。つい一分前に、何かを言いかけて変に誤魔化す先輩がいたのを思い出す。


 「先輩」

 「うん?」

 それを問いただそうとして。

 「――思いの外疲れました。帰りませんか?」

 それもまた、やめる。どうせ煙に巻かれるだろうし。

 

 先輩に追いつく労力、問いただす労力と得られるものを脳内で秤にかけて、放棄を選ぶ。私にとって大事なものじゃないものは追わない。

 この一年で急速に固まりつつある私の生き方。そもそも今こうしてこの部活にいるのも、その生き方に沿っての物だ。

 コスパ、タイパ重視。それが全て悪い物だとは思わない。


 「そうだね。そうしようか」

 長い睫毛を軽く伏せながら答える先輩は、どこか満足そうに見えた。

 まだ汗ひとつ掻いてないまま校舎への帰路を辿る。遥か先を走る運動部集団に追いつくことも、折り返しに遭遇することも無いままに。


 ――確かにここに青春はないな。

 先輩が初日にいっていたことを思い出して、さっき一瞬視えかけた青い春が幻視だったことを知る。



 練習としては短すぎる十分弱のランニングを終え、部室にて背中合わせで着替えを始める。


 「そういえば、雨の日はどうするんですか」

 ジャージを脱いで、ワイシャツに袖を通しながらふと浮かんだ疑問を背後に投げる。

 入学式以来晴れ続きだったけど、来週は天気予報に傘マークがちらほらと。望まずして外活動の私たちには死活問題だ。


 「そうだねえ。ここで筋トレでもしてみる?」

 「ここで、ですか」

 

 生返事をしながら、はてそんなスペースがあるだろうかと辺りを見渡す。

 六畳半程度の手狭な空間。 隅に置かれた芳香剤がやや過剰なほどに桃の香りを放っている。

 四方は無機質な灰色の壁に囲われ、床に敷かれているのは青色のカーペット。女子の部室にしては飾り気がない。

 入り口の正面に窓が一つ。窓際には扇風機やハロゲンヒーターといった冷暖房器具。左側の壁には鉄製の鍵付きロッカーが、右側には雑多に物が置かれた横長の棚がある。それだけで二畳分くらいはマイナス。

 加えて中央には無駄に大きい事務机が一つと、パイプ椅子が二脚。玄関の三和土のスペースも引けば、動けるスペースはたかが知れている。


 要するに、狭い。

 「お手本でも見せてくれるなら考えます」

 適当に話を打ち切る。どうせ本気じゃないだろうし。

 制服に着替え終わり、振り返れば机に左手を載せて窓の外を眺める先輩がいた。


 「……」

 着目すべきは、椅子に腰かけているような体制をとりつつお尻の下に何も敷かれていないことだろうか。所謂空気椅子。どうやらこれが筋トレのお手本らしい。

 私が言及しなければいつまで続くのだろうかと、敢えて無視して鞄を手に取った。


 「お先に失礼します」

 「待ちたまえ後輩」

 食い気味に呼びかけられた。

 今更ながら、先輩は私のことを『後輩』と呼ぶようになっていた。

 おかしいと思うけれど。先輩曰く、後輩が私を先輩と呼ぶのに変わりない。それに二人きりなのだから一々苗字を付ける必要もないだろう、とのことだった。マジでおかしいと思う。


 結局二人で部室を出て校門まで向かう。日は傾き始めて、校舎を薄茜色に染めていた。

 遠くの方から迫る群青色が空を覆うまでにはまだ時間があるだろう。他の部活に比べてだいぶ早い下校時間。


 「今日も頑張ったねぇ」

 「そうですかねぇ」


 隣で両腕をめいっぱい天に伸ばして充足感に浸る先輩。

 素直に賛同できないのが私。全然疲れていないのは事実で、汗すら殆どかいていない。しかし私が入部しなければこの最低限の練習すらなかったのか。


 「先輩、よくあんなに動けますよね」

 半ば独り言のように賞賛を投げかける。最低限の練習ながら、先輩の身のこなしには目を見張るものがある。この緩い部に身を置きながら、よくその運動レベルを維持できるものだと。

 「この四日間、沢山頑張ったからかな」

 「他の部活の人たちからぶっ飛ばされますよ」

 「多勢に無勢だね。二対多数か……頑張ろうね」

 「勝手に頭数に入れるの、やめてもらっていいですか?」


 まだ入部するのも確定じゃないし。

 くだらないやり取りに終始している内に校門に辿り着き、袂を分かつ。先輩の家は比較的近辺の様で自転車通学。部室棟とは反対側に位置する自転車置き場へと向かう。

 私はバス通学の為、緩やかに手を振る先輩に軽く会釈をしてそのまま学校を後にする。



 まだ出会って四日間の浅い付き合い。 その中で輪郭が見えてきた先輩の人物像。

 

 どこか浮世離れした儚く美しい容姿の割に、案外言動は俗っぽいことは分かってきた。話し言葉はどこか硬いのに口調は絹のように軽く滑らかで、重みというものを全く感じさせない。話す内容も表面を掠るような、身もふたもないものばかり。掴みどころがないというか、無いようにしているというか。


 初日こそ鬼気迫る姿に慄いたけど、今や夢だったかの如く。適当にあしらうつもりでいればそれなりに接しやすい。

 あとは、先ほどの会話の通り、運動神経が高い。パス練習ひとつとっても、身のこなしが俊敏且つ柔軟で。先輩がバレー経験者であったとしても上手いと言わざるを得ないし、経験者でないのなら恐ろしい。


 とにかく至極もったいない。こんなところで何故才能を持て余しているのだろうと疑問を抱く。 男女ともに惹きつける見た目もあって、少しでもその気になれば付いてくる生徒も多いだろう。でも、そうせずにいる。

 その理由を今度直接聞いてみようかと考えるも、またしてもすぐに思い直す。


 私には関係の無いことだし、どうせもう少しで関係も終わるしと。


 地区大会は四月末の土日。二十九日と三十日になる。

 トーナメント形式で、勝ち進んだチームは二日目に上位決定戦。

 私たちはどんなに足掻いても……ていうか全く足掻いてないので一回戦負けは必至。


 放課後に二人きりで練習をするのは精々あと二週間弱。部員全員で練習する期間を合わせても三週間ほどの付き合い。

 私が先輩との練習を渋々引き受けた理由でもある。三週間くらいなら、まぁいいやと。


 六月上旬には夏のインターハイに繋がる県大会もあるけれど、それまで放課後を共に過ごす契約を更新することもないだろう。

 そこで三年生は引退。

 そしてバレー部という繋がりを無くした先も交流が続くことは全く想像できない。

 人に深入りするなら相応の摩擦が生じるし、どちらかといえばそれを面倒と思う性分で。

 それならば取り留めのない会話を生産するくらいの間柄で丁度良いやと思うのは、薄情とはまた違うものであって欲しい。

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