無邪気と無垢に挟まれて

「どうして、いなくなっちゃったのか、か。」


 唯夏ゆいかはクルリと体を半回転させて、窓の外を見ていた。月明かりに照らされた唯夏の横顔は、今すぐにでも消えてしまいそうな儚さと、力と生命力に満ち溢れた強さを見事なバランスで共存させていた。


「分からない?」

「うん......分からない」

「貴女のためだよ、小夏ちゃん」

「私の......ため?」

「うん、あの日の続きをするため」

「あの日......」


 すると唯夏は、ね、行こ? と言いながら、私の手を掴んだ。いや、繋いだと言うべきだろうか。お互いの指と指を絡めて、あの頃を思い出させる恋人としての繋ぎ方。


✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳


 屋上はやっぱりあの頃と何にも変わっていなかった。

 わたしは唯夏に誘われるままに、いつも座っていた場所に、あの頃と同じように座った。手は繋いだまま。


「あの日、小夏ちゃんは死んじゃうことを恐れていた、そうだよね?」


 前置きも何もなく、唯夏は話し始めた。


「......うん、そう。怖くて、飛び降りれないって思った」

「だからね.........って、どうしたの?」

「え......?」


 あ、と声が出た。目から涙がこぼれ始めていることに気づいたからだ。それが、何の涙なのか。唯夏のいない世界のつらさを思い出したものなのか。あの時の死の恐怖が思い出されたからなのか。いや、理由なんて山ほどあるだろう。ひとつに決めることなんて、それこそ出来ない。


「いや......これ......は......」


 うまく、言葉を話せなかった。自分でも何で泣いているのか分からないから、余計に混乱していた。

 すると、涙を拭こうとする私の両手はいきなり掴まれて、いつの間にか私の上に乗っていた唯夏が、私に抱きついた。


「え......何して......」

「何ってハグよ、ハグ。抱きしめてるの」

「なんで......」

「ん? だって、大好きで大切な恋人が隣で泣いてるのよ? それはもう抱きしめずにはいられないわ」

「......どういうことなの......?」

「どういうこと......っていうのは?」


 唯夏は優しい声音で、聞いてくれていた。それに対して、私の声は泣きじゃくった声になっていて、嗚咽も混じったものになっていた。


「......私のこと、もう嫌いになっちゃったんじゃないの......?」


 ああ......そうだ。結局、これだったのだ。この問いだったのだ。ずっと、ずっとこの言葉を言おうとしていた。だけど......もしもの可能性が邪魔をして言うことが出来なかった。

 私が自殺に挫折した日、そして、唯夏に甘え続けたあの日々を経て、唯夏は私に失望したのではないか? 私のことなんて、もう好きじゃないんじゃないのか?

 そして、もしその問いを紡いで、私のことが......


「ふふっ、まさか」


 唯夏は、いつかの時と同じように、私の両頬を両手で包み込んで、そして、私の顔を上にあげると同時に、私にキスをした。


「ひゃ......!?」

「ん、どうしたの? 私、何か変なことしたかしら?」

「なんで......キス......」

「好きだから」

「......私は、あの日、死ぬのが怖くて、あの日以降も、ずっと唯夏に甘え続けて......」

「うん」

「それで......私に、失望しなかったの......?」

「うん、してないよ」

「そう......なの?」


 唯夏は、私にもう一度キスをした。甘い甘い香りがする。私の大好きな香り。


「だって、私も同じだし」

「え?」


 唯夏は私に抱きついた。私の左肩に唯夏の額が乗っかかっている。両手は私の背中へと回されて、温かな体温が体に伝わってくる。それは、やっぱりあの頃と同じだった。


「私は、小夏ちゃんが居てくれたから、貴女という素敵な人に出会えたから、貴女と一緒なら、死ねると思ったの」


 私の左耳に、囁くように唯夏は話した。


「私だって、死ぬのは怖いの。だってすっごく痛そうだし。だからね、一人で死ねるのなら、とっくに死んでるの」


 唯夏は起き上がって、私のことを真正面から見つめた。


「私は貴女が、小夏ちゃんがいてくれないと死ねない。私だって弱い人間なのよ。だからね、死ぬのが怖いっていう気持ちは、痛いほど分かるから」

「そっか......そっかぁ......」


 安堵、その気持ちを私は確かに感じていた。そう、。私は結局、唯夏のことしか......


「ふふっ、必死に抑えようとしているようだけれど、すっごく顔に出てるよ?」

「え......?」

「ニコニコしてて、可愛いね、本当に」


 唯夏は、私に再びキスしようとしていた。私は、それを急いで防いだ。


「だめ......!やめて......これ以上は......だめ.....」

「ん、どうして?」


 唯夏は妖艶な表情で私を見つめる。私はそれを視界に映らないように視線を外した。

 忘れては、いけない。目の前にいるこの子は、大量殺人、人権侵害、あらゆる罪を重ねた大罪人で、今、この国のほとんど全ての人々から、恨まれている、最悪のテロリストなのだ。


「唯夏......貴女は、人殺し。悪人なのだから。だから、だから、だから.........」

「うん、だから? 私にどうして欲しいの?」

「.........」

「ふふふっ、分からないの?」

「.........分かんない......分かんないよ......」


 目の前にいる、ずっと会えなかった大好きな人は、最悪のテロリスト、人殺しになってしまった。こんな状況で、私はどうしたらいいのか。


「分からない、その時点で、やっぱり貴女は貴女なのよ」

「......どういう......こと?」

「いい? 小夏ちゃん。私は人殺し、人を殺したの。これは決して許されない罪よ。倫理という絶対的な領域が、私を許さない。人が許しても、神が許しても、倫理が決して許さない。だからね、こんな私を前にしてやるべきことは、その決して償えない罪を背負わせることよ? でも、小夏ちゃんには、その選択肢が最初から存在してない。そうでしょ?」

「............」

「小夏ちゃんは、私以外の人間なんて、1ミリも気にしていない。そもそもちゃんと認識すらしていない。貴女の頭は私のことでいっぱい。倫理という、最上にして、神をも凌ぐ絶対領域を、小夏ちゃんは私で埋め尽くしてしまったの」


 私はその時、脳内の無意識の領域にあるはずの言語構造に明らかな変化を感じた。そんなもの、感じるはずがないのに。

 もう、私には分かっていた。現実にそぐわないものを認めないということ。私にはもう、それをすることが出来ない。私は、現実を認めないといけない。


「.........はぁ......そうかも、ね。いや、ううん。そだね。そう、その通り。唯夏の言う通り。結局、私は唯夏が人殺しになろうが、どれだけ倫理反する人間であろうが、関係ないみたい」


 本当は分かっていた。そう考えれば、ピタッと全てのピースがはまるということを。だけど、それでも、最後までギリギリのところで耐えて残っていた唯夏以外の倫理の領域が、最後の抵抗をしていた。でも、この子の前では、唯夏の前では、私の愛しているこの人の前では、そんなものは、ほとんど無意味だった。

 痛みや不幸が身体に刻まれるように、それらが明確に存在しているのと同じように、永遠に身体に刻まれるほどの強い幸福などという観念が、存在する。存在してしまっているのだ。きっとそれは、人の体を崩壊させるほどの、強い化学反応。


「あー、そっか。そういうことか......」

「お、小夏ちゃん。もしかして、分かった?」

「うん、分かったよ。唯夏」


 私は、今度は自分から、唯夏を抱きしめた。


「わ、びっくり」

「ん、ダメだった?」

「んーん、ダメじゃないよ」


 ゆったりとハグできる姿勢になってから、あの頃、毎日していた時と同じような体勢になってから、私は言葉を紡いだ。


「唯夏は、いっぱい人を殺して、いっぱい人に迷惑をかけて、多くの人に恨まれている。だから、そんな人間たちに奪われる前に、私に殺して欲しかったんでしょ?」

「ふふふっ」

「私は、唯夏にひどいことをしたくない。だから、唯夏を殺すなんてもちろん出来ない。だけど、一緒に死ぬのなら。あの日、出来なかったことをもう一度するのなら......」

「うん、そう。大正解。流石はわたしの小夏ちゃん」

「ん、もぅ......」

「ふふっ、照れてるのかわいい」

「あーもう、はいはい」


 すると、唯夏は私の肩に顔を埋めて、私をより強く抱きしめた。


「あのね......小夏ちゃん」

「うん、なあに?」

「実を言うとね、ホントはちょっと怖かったの」

「怖かった?」

「うん、もしも小夏ちゃんが、私に今すぐ自首しなさいとか、私をすぐに殺そうとしたりしたら......って、考えちゃったりして、怖かったの」

「ふふっ、そうだったんだ。まぁ......結局のところ、私の時間はあの時のままで、ずっと止まったままだったから」

「......そっか、なるほどね」

「というか、それを言うならだけど、私が唯夏のことを嫌いになってる可能性とか考えなかったの?」

「え、うん。だって小夏ちゃんの住んでるマンションの部屋、私の写真でいっぱいじゃない」

「.........なんで知ってるの?」

「ちなみに言うと、毎朝私の写真に話しかけてるのも知ってるよ」

「.........もうこれ以上は聞かないでおくことにする」


 唯夏は顔を上げて、私のことを真正面から見ていた。私も唯夏と同じようにその顔を見つめる。整った顔立ち、綺麗な黒髪。そこにいるのは、平面上の唯夏ではない。空間上にいる本物の、生身の唯夏だ。


「......ねぇ、いつ......するの?」


 私は唯夏に尋ねた。


「うーん、まあ、いつでもいいと言えばいつでもいいんだけど、おそらく、明日にはこの場所に私がいることはバレちゃうだろうから、まあ、そうだね、今日の朝までっていう感じかな」


 いつかの記憶がよみがえる。唯夏が私に言った言葉の中でも、特に印象に残っている言葉。

――退廃的な行為は快晴の下でやるべきよ。

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