ホワイトリリィの咲く頃に

神田(Kanda)

純潔に汚される私とわたし


――ずっと一緒にいれたらいいな


 時刻は深夜の12時。私はようやく、この場所にたどり着いた。廃墟と化したこの校舎は、10年前、私が通っていた高校だった。今でも、鮮明に思い出すことができる当時の記憶と照らし合わせてみると、ここは、まさに時間が止まったままのように思えた。

 静寂の中、私の足音と、の鼻歌が聞こえる。それは、懐かしいメロディだった。いつもあの子が歌っていた、あの曲。あの子のお気に入りのクラシック。

 私は、少しだけ錆び付いてガタガタになったドアを、力で無理やりこじ開ける。


 教室の中。窓側、一番後ろの席。あの子の席。私の一つ後ろの席。


「久しぶり」


 鼻歌を終えて、ゆっくりと、その子はそう言った。満面の笑みで、10年ぶりに再会することを心の底から嬉しそうに。


「うん......久しぶり、唯夏ゆいか

「少し、身長伸びた?」

「そうかも。唯夏は?」

「私は全然。あの頃と同じ、ちっちゃいままよ」


 そんな軽口を交わしながら、私は唯夏の座っている席の元まで歩いていった。


「ほら、座って。いつもみたいに」

「あの頃みたいに、の間違いでしょ」


 なんて言いつつも、私はその席に座った。座って後ろを振り返り、唯夏の机に片腕を乗っけて、唯夏の顔を見て.........


「どうしたの?」


 そこには、あの時の何ら変わらない風景があった。あの頃、毎日のように見ていた唯夏の顔。それと全く同じものが、今、目の前にあった。懐かしさと、失われた悲しさが、私を襲った。


「んーん、別に、何でも」

「ふふっ、そう」


 こういう時に、唯夏は無理に聞き出そうとしたりしない。ただそれは、相手のことを思ってとか、そういう綺麗な理由じゃなくて、他人のことは結局理解できないし、自分自身ですら、自分のことなんて分からないでしょ? という現実的な思考の結果なのだけれど。


「はぁ......ねぇ、小夏こなつちゃん。わたし、失敗しちゃった」

「.........そりゃあそうだよ。国を相手に一人で立ち向かうテロリストなんて聞いたことないもん」

「んー、やっぱりそうだよねぇ......流石にむちゃだったかなぁ......」

「そもそも、テロリズムそれ自体が結構むちゃなことだと思うけど」


 目の前にいるこの可憐な女性。見た目は少女だけれど。この人は、たった一人で、正確には薬品によって洗脳した仲間がたくさんいたけれど。でもまあ、ある意味一人で、この国のあらゆる施設でバイオテロを引き起こした。目的、要求はこの国を差し出すこと。それが望んでいることなのだとしたら、アホらしいにもほどがある。だけれど、私は、私だけは......


「ねぇ、唯夏、いくつか質問していい?」

「うん、もちろんいいよ。小夏ちゃんになら、なんだって教えちゃう」


 唯夏はうっとりとした目で私を見つめていた。まさに、恋人へ向けるような視線で。


「......どうして、あらゆるバイオテロの現場の中で、たった一つだけ、普通の会社を狙ったの?」

「ふふっ、普通の会社じゃないよ。結構な大企業だもん」

「んーん、違う。私にとっても、唯夏にとっても。そんなことは大した問題じゃないでしょう?」

「うん、確かに」

「じゃあ、言い方を変えるね。どうして......どうして、私のが働いてる、あの場所を狙ったの」


 私は、声を荒げることはなく、あくまでも淡々と、そう質問した。唯夏の目をまっすぐ見つめながら。ああ、やっぱり唯夏の目は綺麗だなぁと思いながら。


「嫌だったから」

「......嫌だった?」

「うん、私の小夏ちゃんなのに。小夏ちゃんの恋人だなんてのたまう人間がいることが許せなかったから」

「それ......だけの、理由で?」

「うん」


 唯夏は表情一つ変えなかった。いや、むしろニコニコと温かな笑みを浮かべて、褒めて褒めてといわんばかりの顔をしている。

 なんで......どうして......


「ねぇ、小夏ちゃんは今の話を聞いて、私のことをひどい人間だと思ったでしょ?」

「そっ...それは......そうでしょ」

「ふぅん、でも、それを言うなら小夏ちゃんだってひどいことしてるよね?」

「.........して......ない」

「アハハッ」


 唯夏は、可愛らしく、どこか狂った人のように笑った。久しぶりに聞く、唯夏の笑い声。やっぱりあの頃と変わっていない。


「もう、相変わらずね。笑っちゃうほどに」

「私......は......」

「何も悪いことはしてない? うん、確かに。そう捉えることも出来るだろうね。でも、貴女は私の小夏ちゃん。だから私はよく知っている。貴女が自身の行為に何も思わない筈がない」

「.........」

「ね、小夏ちゃん」

「......うん」

「あの子は、貴女の恋人さんは、私の代わりだったんでしょ?」


 胸が、ドクンと高鳴る。それは、二つの意味で。一つ目は、ずっと目を瞑っていたその事実を突きつけられたという意味で。二つ目は、そう言う唯夏の妖艶なその顔が綺麗で、ずっと私が欲していたもので、私はこの子に恋人を殺されたというのに、なのに、どうしようもなく、この子に惹かれているという意味で。


「黒髪、ボブヘア、背がちっちゃくて、明るい雰囲気の女の子......どう考えても私よね?」

「......違う。たまたま、そうだったというだけ」


 ううん、それこそ違う。嘘、真っ赤な嘘。本当は分かっている。あの子が唯夏の代わりだったことなんて。

 ただ、それでも。あの子のことを何とも思っていなかったわけじゃない。好きといえば、好きだった......筈だ。多分、おそらく、少しは。だから、まるであの子の存在の全てを唯夏の代わりと言うことには、少し抵抗があった。


「ふぅん......じゃあ聞くけど、あの子に体を委ねたの?」

「それ...は......」

「あ、もちろん、キスとかエッチしたのかって意味ね」

「.........キスは、したけど」

「......え、そうなの......?」

「うん」


 唯夏は目を大きく見開いて、ポカンとした表情を浮かべた。そうとう驚いているようだった。


「......結構、嫌な気持ちになるわね、これ。でもまあいいや、それで、その子とキスをする時、結局、誰を想いながらキスしたの?」


 唯夏は驚きの表情をすぐにやめて、いつもの余裕そうで、どこか楽しそうな笑みに戻った。そこには、どこか納得しているような感情も混ざっているようだった。


「......そんなの、言わなくても、分かってるんでしょ」

「うん、もちろん」


 ニヒヒッというような笑顔を浮かべてから、唯夏は椅子から立ち上がって、背伸びの動作をした。


「んー、でもまあ良かった。浮気されちゃったのは悲しかったけれど、あの子はあくまで遊びだったようだから、許してあげる。わたしの『言いつけ』は守ってくれてたみたいだし」


 言いつけ――それは粘膜に刻まれた思い出。結局、私が精一杯反抗しても、忘れようとしても、身体中のあらゆる皮膚は、粘膜は、真の意味では、唯夏のものだった。あの頃も、そして今も。


「浮気......か。前置き......というか、いや前置きっていう言い方には少し問題があるけれど、本題、私が一番聞きたかったこと。聞いていい?」


 私は立ち上がって、窓に背中を預けて立っている唯夏の隣に並んだ。


「うん、いいよ」


 身長差によって、私を上目遣いで見上げるように見ている唯夏。私の隣に、いる。


「どうして、いなくなっちゃったの」


 急に、私の声は震えた。それは、この問いの答えを聞く恐怖からだろうか。


✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳


 それは放課後、屋上でのこと。唯夏は私に言った。何気ない会話の中で、ふと思い出したかのように。


「ね、わたし、小夏ちゃんのことが好きだよ」

「え、え、え......?」

「ふふっ、急にごめんね。でも、好きなの」


 唯夏は私に跨がって、私の膝の上に乗っかった。そして、体をより密着させて私の両頬を華奢な手で包み込んだ。


「もちろん、恋愛的な意味でね」

「う、うん......」

「ね、小夏ちゃん」

「......うん」

「わたしのこと、好き?」


 いつもよりもほんの少し紅色に染まった唯夏の顔は、今にもキスしたくなるような顔で、私はただひたすらに心を奪われていた。


「うん、好きだよ。私も」


 私も、唯夏が私にしているのと同じように唯夏の両頬を手で包み込んだ。


「嬉しい、同じ気持ちで」


 そうして、私と唯夏は初めてのキスをした。


 それから一か月。私と唯夏は毎日のようにデートをしたり、時には学校をサボって遊びに行ったりした。生きていることがつらくて、悲しくて、毎日が希死念慮で塗りつぶされているような私たちにとって、学校なんて行っている場合ではなかった。私と唯夏は、生と死の狭間にいたのだから。

 一か月の記念日、一人暮らしの唯夏の家に私は泊まった。いわゆる、お泊まり会だ。そこで私は、唯夏と初めて性的な行為に及んだ。お互いをただひたすらに求め合う行為をした。何度も何度も何度も。次の日の朝には、お互いの体がベトベトになっていて、思わず笑い合った。そうして、一緒にお風呂に入って、穏やかな時を過ごした。


 そんな日々を送っていく中で、私たちの頭の中からは、うっすらとこの悲しい世界のことが抜け落ちそうになりかけていた。でも、それでも、やっぱり私たちはこんな悲しい世界にいたくなかった。この世界は毎日いくらでも、自殺するに足りうる動機を提供してくれる。

 ああ、そうだ。私たちだけが幸せでいていいはずがない。幸せも不幸も、所詮は人間という生命体の脳内での反応に過ぎないけれど、でも私たちは、痛みに執着してしまう、そんなどうしようもない人間なのだ。

 それにもし、もしも仮に、唯夏が誰かに、何かに、この世界に奪われてしまったら。

 それが、幼稚でどうしようもない考えだというのは分かっている。だが、その痛みを前にして、私は、私たちはその観念から逃げられなかった。


 だから、だから、だから.........


 そうして、それから少しの時が経ち、私と唯夏、二人で一緒に心中しようとした。けれど、死ねなかった。いや、死に至る過程の第一歩を踏み出すことができなかった。学校の屋上で、私は、唯夏の隣で泣き崩れた。


「ごめん......怖い......死ねない......」


 その時の唯夏の顔は、初めて見た顔だった。私の脳裏にトラウマとして刻まれている顔。私という人間に驚いた顔。ようやく死ねるのに、という期待を裏切られたかのような顔。でも、同時に私のことを心配してくれて、気をつかってくれている顔。

 唯夏は、そんな私にひどい言葉をかけるなんてことはもちろんせず、優しく慰めてくれた。そして、私はそれに甘え続けた。

 それが、いけなかったのか、何がいけなかったのか、分からない。


 ただ、ある日突然、唯夏は行方不明になった。


✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳

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