第2話 調査
午後は美術コース二年生の授業で、デザイン・油絵・日本画と分かれている。波瑠の担当する油絵は、油彩用の部屋がある。中央にフルーツと壺と立方体を配置した静物を囲んで、イーゼルを広げた生徒たちの後方に立つ。二学期も後半に入っており、課題をこなす段階だ。
他の美術教室にもいえることだが、通常の教室と違って空間が広く取られているため、エアコンが効きづらく、夏は暑くて冬は寒い。また、油絵は基本的に汚れることが前提なので、制服や体操着の上に作業着を着ている。その上で、マフラーをしていたり作業着の中にセーターを着たり、それぞれで対策をしている。
かくいう波瑠も、セーターの上に作業着を着こんでいるが、ホッカイロを内側に貼っている。こういう風景は、美術教科特有だなと改めて波瑠は眺めた。
波瑠はこの高校の美術コース卒業生だ。北八王子高校はコース制を取っているのが特徴で、他にも音楽コース、特進コースなど偏差値や将来の希望によって受験時に選択する。
波瑠が美術を選んだのは、絵を描くことが好きだったことと、勉強をあまりしなくていいと思っていたからだった。だから北八王子高校の三年間はそれなりに楽しく過ごした。
大学進学は、美大ではなく総合大学の芸術学部美術学科を選んだ。絵だけでは食べていけないため、教員になるつもりはなかったが、保険のつもりで教職を取ったことが、今役に立っている。美術系ではない仕事に就きつつ趣味で油絵を描いていたが、前任の
益田は一つ上の先輩で、在学中にはずいぶんと世話になっていた。コース制を取っていることで三年間クラス替えなく過ごすため、クラス内だけではなく上下の繋がりも強かった。益田は人当たりもよく朗らかながら芯がしっかりしていて、上下問わず人が集まるタイプだった。
「波瑠ちゃんはさ、人をよく観察しているから、案外先生向いてると思うよ」
学校の臨時講師に誘われた時に、益田はそう告げた。教職を取っただけで先生などなる気はなかった波瑠は、一度断っていたが、話だけでもとランチに誘われた。
食後のコーヒーを飲んでいた時に切り出されて、波瑠は顔をしかめる。
「……よく観察してるって、褒めてる文脈ですか?」
「褒めてるよ。集団の中にいても周りに気を配ってるっていうか。一見取っ付きにくそうに見えて面倒見もいいし」
「そんなこと、初めて言われました」
波瑠は学生時代から友達が多いほうではないと自覚している。大人数でわいわい盛り上がるノリは苦手で、できるだけ避けていた。とはいえ、美術系の人間というのは、いわゆる『陽キャ』『パリピ』などという人種は少ない。高校時代はその点、ずいぶん友人関係が楽だった。
「合同授業とかあったじゃない?作品の紹介パネル作ったり発表したり。リーダーじゃなかったけれど、最後には場を上手くまとめてて、後輩の子もすごく懐いていたの覚えてるよ」
「そんなこともありましたね」
「後任を探そうと思ったときに考えたんだけど、もちろん教職を持っているとか、実績があるかも大事だけれど、人をよく見られるかが大切だよなって思って。波瑠ちゃんが浮かんだんだよね」
そう言うと益田はにっこり笑った。
「先生、やってみない?」
結局、言いくるめられてしまった形ではあったが、やってみたら教職にそれほど違和感がなかった。しかし、《掲示板係》まで引き継ぐことになったのは、完全にしてやられた。こういう風に抜け目なく人を誘導しつつ、でも憎めないのが益田らしい。
――それにしても、《アカシアの雨》とは。
波瑠の在学中の十年前、《アカシアの雨》は、恋愛成就のおまじないに使う言葉だった。
内容はこの学校特有の七不思議に纏わるものだ。
相手に関係する写真に《アカシアの雨》と書き、掲示板に貼る。波瑠自身は全く興味がなかったが、クラスの男子宛のおまじないが貼られているのを見たことがある。写真は彼が描いたデッサンで、後輩の女の子が行ったおまじないだった。たしか、結局付き合ったのだったか。どうして目立つように貼るようになったかは不明だが、いわゆるチェーンメールが流行った時代だったため、何かと混在したのかもしれない。大体が、わざわざ目立たせて貼るということは公開ラブレターのようなもので、恥ずかしさなどを考えたら成立しないのだ。
貼り方にもルールがある。左右ある掲示板のうち、恋愛に関するものは『必ず右側の掲示板に貼ること』。
この学校のシンボルであるヤマユリとイチョウの花言葉は、ヤマユリが「飾らない愛」「純潔」、イチョウが「長寿」「鎮魂」。その花言葉にあやかって、右側に恋の成就を願ったおまじないを貼るようになったのだろう。左側だと恋の成就には似つかわしくない言葉だから。
そんな学校特有の微笑ましいおまじないも、いつしか忘れ去られてしまった。前任者の益田は、担当していた数年で右側にそんな掲示がないことを、少し残念そうに話していたのだ。私たちの学生時代では、結構楽しそうだと思ったのに、と。
波瑠は、掲示板に貼られた紙を思い出す。あのポスターは回収した後、教官室の鍵のかかる自席の引き出しにしまったが、ちゃんと調べてみなくては。すでにSNSに拡散しているというのも厄介だ。こちらも後で覗いてみよう。
「水城先生、聞いてます?」
いつの間にか休憩に入っていた。波瑠は慌てて意識を戻す。
「――ごめんなさい。何?」
「だからー、ポスターどうなったんですか?」
好奇心むき出しで、先ほど掲示板の前にいた多嶋が訊いてきた。いつの間にか生徒に取り囲まれている。
「私が回収して保管することになったよ。でも、もう学校SNSに投稿されているみたいだから、意味ないと思うけど」
肩をすくめながら答える。
「――そういえば、あのポスターを最初に投稿したアカウント、誰か知らない?」
多嶋は近くの子と顔を見合わせて首をかしげた。
「私は知らないです。アカウントは多分女子だと思うんですけど、早朝に投稿されていて、初めに気がついたのは朝早く部活している子たちだったみたいで。私は、別クラスの友達から教えてもらって見たから」
「別クラスって?」
「陸上部の子と選択学科の現国が一緒で、よくやり取りしてて。私は普通に学校来る途中にメッセで教えてもらいました。その子も知らないアカウントみたいでしたけど……」
波瑠は眉をひそめた。生徒たちの交友関係と情報のまわり方は、網の目のようでなかなかたどるのは難しいかもしれない。しかし、思わぬところで繋がる可能性も捨てきれない。
「……投稿した子がわかったら、誰か教えてって友達に訊いてみてくれる? 大事になる前に教えてもらえれば私が何とかできるかもしれないし。――あと、あのイチョウの木がどこのものか、わかる人がいたら教えて」
「水城先生、何か調べてるの? オッケー、面白そうですね」
波瑠が曖昧に濁して、まあねと言うと、多嶋は楽しそうに早速スマホを取り出して拡散した。他の子たちも次々と後に続く。
生徒の力を借りた方が、波瑠が動くよりスムーズに情報拡散される。これで多少は《掲示板係》の波瑠に情報が集まりやすくなるだろう。副校長に任された手前、できる限り手を打っておきたい。
――それにしても、あの《左側に貼られた紙》は、何を意味するのだろうか。
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