第10話

氷のように凍りついた生徒会室。

 俺は、鈴音を守るように立ち、目の前の高橋先輩を睨みつけている。背後からは、鈴音の怯えた呼吸が伝わってくる。

 一触即発。花恋も、春香も、言葉を失って事の成り行きを見守っている。

 この、張り詰めた糸を断ち切ったのは、今までで一番低い、地の底から響くような声だった。


「――全員、いい加減にしろッ!!」


 生徒会長、長瀬海斗の咆哮だった。それはもはや怒声というより、限界を超えた獣の叫びに近かった。


「ここは神聖なる生徒会室だ! 私闘も、痴話喧$('.').addClass('prettyprint');"喧嘩も、これ以上は断じて認めん! 高橋ッ! お前は部外者だ、とっとと失せろ! 他の者もだ! 今日のところは全員解散! 頭を冷やして出直してこい!」


 有無を言わさぬ、まさに鶴の一声。いや、獅子の一吼。

 さすがの高橋先輩も、一瞬だけ眉をひそめ、忌々しそうに舌打ちをした。


「……いいでしょう、生徒会長。今日のところは、あなたの顔を立ててあげるわ。でも、覚えておきなさい? この戦い、私は絶対に降りないから」


 彼女は俺に勝ち誇ったような視線を送ると、優雅に踵を返し、取り巻きと共に去っていった。

 花恋と春香も、海斗の気迫に押されたのか、あるいは一度仕切り直すべきだと判断したのか、静かに部屋を出ていく。


 嵐が去った生徒会室に、俺と、震えが止まらない鈴音、そして疲れ果てた海斗だけが残された。


「竜也……お前も、今日はもう帰れ。鈴音を、ちゃんと見ててやれ」


 海斗はそう言うと、深くため息をつき、ソファに崩れ落ちた。


 生徒会室を出ると、夕日が差し込む廊下で、鈴音は立ち尽くしていた。その姿は、まるで迷子の子どものように、ひどく心細く見えた。


「……帰るぞ、鈴音」


 俺が声をかけると、鈴音はビクリと肩を揺らし、おずおずと俺の方を向いた。そして、次の瞬間、彼女は吸い寄せられるように俺の隣に来ると、俺の制服の袖を、ぎゅっと弱々しく掴んだ。


 その指先が、かすかに震えている。


 俺は、何も言えなかった。罪悪感で、その手を振り払うことも、握り返すこともできない。ただ、袖を伝わってくる彼女の震えと、必死な想いを受け止めることしかできなかった。


 二人で歩く帰り道は、ひどく静かだった。

 鈴音は、俺の袖を掴んだまま、一言も話さない。


(竜也だ……本物の、竜也だ……)


 鈴音は、竜也の少し後ろを歩きながら、その大きな背中だけを見つめていた。

 さっき、膝をついて、私に謝ってくれた。あの瞳は、昔、私が転んですりむいた膝を、自分のことみたいに痛そうに見てくれた時と、同じ瞳だった。


(私が嘘をついたから、竜也を傷つけたのに。私のせいなのに……)


 彼との間にあった、冷たくて分厚い氷の壁が、ようやく溶けたような気がしていた。その安堵と、彼への愛おしさで、胸がいっぱいになる。もう、この手を離したくない。この温もりが、また夢みたいに消えてしまうのが、何よりも怖かった。高橋先輩のことも、争奪戦のことも、今はどうでもいい。ただ、竜也が、私の隣にいてくれる。その事実だけが、私の世界の全てだった。


 結局、俺たちは、家の近くの分かれ道まで、そのままだった。


「……じゃあ、また」


 俺が言うと、鈴音は名残惜しそうに、ゆっくりと袖を離した。その指先が離れる瞬間、彼女の瞳が不安に揺れる。


「……うん。……また、明日、会えるよね?」


 確認するように尋ねる彼女に、俺は力なく頷いた。


「ああ、もちろんだ。……じゃあな」


 走り去っていく鈴音の背中を見送り、俺は長く、深いため息をついた。

 あいつの、あの必死な目。俺は、彼女の想いの重さに、どう応えればいいのか分からない。


「……これから、どうすりゃいいんだよ」


 一人ごちた、その時だった。


「――偶然ですね、副会長」


 背後から、何の気配もなく、静かな声がした。

 振り返ると、いつからそこにいたのか、書記の山田亮が立っていた。


「……山田か。何か用か?」


「いえ。ただ、高橋先輩は、理事のご令嬢だそうですよ」


 山田は、まるで天気の話でもするかのような、平坦な口調で言った。


「権力を持つ人間を敵に回すのは、あまり賢い選択とは言えません。面倒なことにならなければいいですが」


 その目は、俺を心配しているようにも、面白がっているようにも見えた。彼の真意が、全く読めない。


「……どういう意味だ」


 俺が問いただそうとすると、山田は小さく肩をすくめた。


「さあ。ただの噂話ですよ」


 彼はそう言うと、俺に一礼し、音もなく闇に溶けるように去っていった。

 ただ、不気味な事実の断片だけを残して。


 俺は、スマホを握りしめたまま、その場に立ち尽くした。

 自分が足を踏み入れたのが、ただの泥沼なんかじゃない。

 もっと巨大で、厄介で、権力まで絡んだ、底なしの沼の入り口だったことを、俺は、ようやく知ったのだった。

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