九献め:深夜の刺客と、守るための背中

政宗様にいただいた《珊瑚さんご》のかんざしは、今やあたしの一番の宝物になった。毎朝、千代乃さんに髪を結ってもらう時、最後にこれを挿してもらうのが、一日のはじまりのささやかな楽しみだ。


「まあ、小春様。かんざしがお似合いで、ますますお美しくなられて」

「やだ、千代乃さん、からかわないでよ」


二人でくすくす笑い合っていると、廊下の向こうから十郎様が難しい顔でやってくるのが見えた。


「十郎様、どうかしましたか? また殿が何か?」

「いえ、殿はご無事ですが……。小春様、少し、よからぬ噂が城下で流れておりまして」


十郎様の話によると、あたしのことを「殿に呪いをかけた魔女ではないか」と囁く者たちがいるらしい。あたしが来てから殿の呪いが弱まったのは事実だが、それを逆手に取って、「あの女こそが呪いの元凶だ」と吹聴ふいちょうしているやからがいるというのだ。


「一体誰がそんな……」

「おそらく、殿の失脚を狙う者たちの仕業かと。小春様、くれぐれもお気をつけください。決して、お一人で城の外へは出ぬように」


真剣な顔で釘を刺す十郎様に、あたしはこくりと頷いた。だけど、心の中では(魔女だなんて、あたしがそんな大層なものになれるわけないじゃない)と、どこか他人事のように思っていた。だって、あたしはただの食いしん坊なのだから。


その夜、あたしはその呑気な考えを、心の底から後悔することになる。



いつものように、厨房の後片付けを手伝って自室に戻ったのは、もう夜も更けた頃だった。千代乃さんには先に休んでもらい、あたしは一人、明日のおむすびの具は何にしようか、なんて考えながら、文机に向かっていた。


その時だった。


カサリ、と部屋の天井裏から、衣擦きぬずれのような小さな音がした。


(……気のせい? ねずみかな?)


そう思った瞬間、背筋にぞくりと冷たいものが走った。野生の勘、とでも言うのだろうか。山で熊に出くわした時と同じ、命の危険を知らせる嫌な気配。

あたしは息を殺して、そっと立ち上がった。


次の瞬間、音もなくあたしの背後の障子が開いた。振り返る間もなく、黒い影が二つ、部屋の中へと滑り込んできた。覆面で顔を隠し、その手には鈍く光る刃が握られている。


「ひっ……!」


刺客――!


頭が真っ白になる。声を出そうにも、喉が恐怖でひきつって音にならない。


「騒ぐな、娘」


刺客の一人が、低い声で囁きながら、じり、と間合いを詰めてくる。あたしは後ずさるが、すぐに背中が壁にぶつかった。もう逃げ場はない。

男が刃を振り上げた。銀色の光が、行燈あんどんの明かりに反射してきらめく。


(あたし、ここで……死ぬんだ)


目をぎゅっと閉じた、その時だった。


「――俺の女に、指一本触れるな」


部屋全体が震えるような、地響きのごとき低い声。

それまであたしの背後にあったはずの壁が、轟音と共に内側から弾け飛んだ。


「なっ!?」


刺客たちが驚愕に目を見開く。土埃と木片が舞う中、そこに立っていたのは、寝間着姿のまま、けれどその身から凄まじいほどの怒気を放つ、鬼大名・黒瀧政宗様、その人だった。

壁を素手でぶち破ってきたらしい。常人のなせる技ではない。


「な、何奴なにやつ!」

「面白いことを聞く。……この城で、俺を知らぬ者がいるのか?」


政宗様は、脇に置いてあった己の刀を静かに手に取ると、ゆっくりとあたしの前に歩み出た。そして、まるで傷ついた雛鳥を守るかのように、あたしを背中にかばう。


その背中は、あたしが今まで見たどんな山よりも、どんな城壁よりも、大きく、そして頼もしかった。


「……殺せ」


刺客の一人が叫ぶ。二つの黒い影が、同時に政宗様へと襲いかかった。

けれど、勝負は一瞬だった。

政宗様は、常人には捉えられないほどの速さで刀を抜くと、一度、ひらりと身をかわしただけ。それだけで、二人の刺客は苦悶の声を上げることもなく、床に崩れ落ちていた。


刀の切っ先からは、一滴の血も滴っていない。見事な、峰打ちだった。


しん、と静まり返った部屋。

政宗様は、倒れた刺客たちを氷のように冷たい目で見下ろすと、一言、吐き捨てた。


「……十郎、こいつらを地下牢へ。誰の差し金か、朝までに吐かせるぞ」

「はっ!」


いつの間にか現れていた十郎様と護衛たちが、手際よく刺客たちを運び出していく。


あたしは、目の前で起きたことが信じられず、ただ震えながらその場に座り込んでいた。

すべてが片付いた後、政宗様がゆっくりとこちらに振り返る。その顔には、もう先程までの鬼のような怒気はなかった。ただ、深い安堵と、あたしを案じる真剣な眼差しがあるだけ。


彼は何も言わず、あたしへとそっと手を差し伸べた。


「……行くぞ」


その不器用な一言が、どんな慰めの言葉よりも、あたしの心に深く、温かく響いた。

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