言っていることはごくふつうなんである。
『擬音』とか、『「言った」頻出問題』とか、それこそ何十冊もの文章読本で繰り返し言われているように(あ、『異世界ジャガイモシャワー』は毛色が違うけど)。
これまで多少なりとも“小説”を読んできて、じゃあひとつ自分でも書いてみようかと思い立つような人間なら、どこかで目にしたことのある内容だと思う。それとも、誰か/何か から教わる前に、自然と学んでいる事柄かもしれない。
だから、正直、今更何を言うことがあるのと思っていた。
屋上屋を架すだけではないか、と。
読んだものから吸収するのは、見て学ぶのは、モノ書きにとって息をするようなものだと。
〈こういうふうに書いている〉を知ったのは偶然の出会いだったけれど、しかし、他のところで、
「段落の冒頭は一字下げろ」だの
「“」〔閉じかっこ〕”の前に“。〔句点〕”は打つな」
「“・〔なかぐろ〕”でも“、〔読点〕”3つでもなく“……〔三点リーダー2つ〕”を使え」だの、もっと言うと
「主語は述語で受けろ」レベルの創作論が交わされているのを見るにつけ、「私が当たり前だと思っていたことの方が当たり前ではなかったのかもしれない……」とカルチャーショックを受けるに至った(少なくとも「段落冒頭一字下げ」は小学校の作文で習ったはずだけど)。
つまり、基本を繰り返し言うことには意味があるのだ。それがいかに当たり前であるかということを。
そして、当たり前のことができている、あるいは常にそれに気を配っている人の書いたものは、ストレスなく読むことができるのだと。