重ねる
「かんぷかんぷをかさねてよっつ、だよ」
脳内での漢字変換にしばらくかかった。いや、正直に言えばスマートフォンの検索で理解したのだ。姦夫姦婦を重ねて四つ、現代では使わない言葉だし、使う状況にもならなそうである。だが、この言葉を発した老人はその状況にあるわけだ。
声がした席は衝立に遮られ、座っている者の姿は見えない。ただその向かい、通路に面した側の席は黒地に金のボタニカル柄のシャツを羽織った肩と、明るい茶髪がのぞいている。茶髪の男はストローで何かをすすったあと、言葉を返した。
「あー……『お金が返ってくるよ』のCMのやつっすよね?」
それは還付金だ。
「姦とはよこしまな、みだらな、という意味だ。姦夫姦婦はそういう男女という意味になる」
老人はかすれた声で注釈を入れ、こう付け加える。
「つまり、君たちのことだ」
「ええ……参ったな」
茶髪の男は悪びれた様子もなく笑う。
「この……カンプカンプ? というの、どっちが俺で、どっちが奥さんなんですか? なんかカワイイですよねカンプカンプ。ゆるキャラでいそうじゃないですか? カンプちゃんとカンプくん、みたいなの」
男のへらへらした語りは咳払いによってさえぎられた。
「ああ、まあ、悪いなあ、とは思ってるんです。先生のことはマジ、尊敬? 同情? してて、かわいそうだなー、って思ってるんすよ。でも、奥さんのことも同じくらい思ってて、かわいそうだしお世話になってるから、何でも言うこときかなきゃなって」
「妻のせいだと言いたいのか」
「まあ、そうっすねー」
すさまじく重い空気が衝立の向こうにあるが、茶髪の男は動じもせずストローをすすっている。
「奥さんも悩んだし、かわいそうっすよ。先生とは年も離れてるし、多少はしょうがないって、先生もわかってたんじゃないすか?」
「……重ねて四つ、だ」
押し殺すような声が響く。
「『重ねて四つ』の意味はわかるか?」
「ええ……わかんないす」
「お前と妻を重ねて斬る、お前たちは四つの肉片になる、という意味だ」
「……」
茶髪はさすがに黙りこんだ。氷の入ったグラスを置いた音がする。
「……でも、本当にしたのはヤバかったですよね?」
今度は衝立の向こうで沈黙が続いた。茶髪はまたストローをすすり始める。
「気持ちはマジ、わかりますよ? メチャ怒るだろうなと思ったし、俺も彼女に二股かけられたときはキレたし、でも、それはやらなかったかな……女の子に手を上げるのダサいし……奥さんだって別に、先生のことが嫌いになったわけじゃなくて、ただちょっと気分転換っていうか遊びで」
「君らは遊びで人を殺すのか」
老人の叫びに思わず周囲を見回してしまったが、私以外の客は誰も彼らに気をとめていないようだった。
「君らがしたのは、私を殺したのと同じことだ。だからやり返した。なにがいけない」
「本当に殺すのはダメだし、奥さんを刺すのはダメだったですよ」
衝立の影から苦しげな息が聞こえる。いっそ救急車を呼んだ方がいいのでは、と思えてきた。
「何度も言ってるけど、自首した方が良いですよ。先生しらばっくれられる方じゃないから。実刑だと思うけど、ずっとあそこに居るよりムショの方がマシですよ。ムショは臭くないから」
「臭いなんてひどいわ」
突然女の声が割り込んできて、私は彼らの方を向いた。茶髪の男は立ち上がり、座席の下に置いていたブランド物のクラッチバッグを手に取っていた。
「自首なんてしなくていいの。だって死刑になっちゃう。二人殺すと死刑でしょ。◼️◼️くんはあなたを死刑にしたいのよ。騙されないで」
女の声は茶髪の男がいるあたりから発せられていた。だが、その場に女の姿はない。衝立の影に女もいたのだろうか?
「騙すだなんて。俺は先生のためを思ってるんすよ。死刑になんなくても頭がおかしくなったらダメっしょ? 人間二人埋めた上に住んでたら病気にもなるだろうし」
「◼️◼️くんは根に持ってるのよ、顔をズタズタにされたこと。◼️◼️くん、自分をイケメンだと思ってるからね」
「奥さん、今さら先生に媚び売るの止めてくんないすか? そもそもは奥さんから」
「あなたを愛してるの。だから自首なんてしないで。今度はずっと一緒にいましょう」
茶髪の男の言葉に女の声が重なる。意味がわからない。老人にも二人の声が聞こえているのだろうか?
「俺もウザいんすよ。好きでこうしてるんじゃないんで。早くなんとかしてくださいね」
「楽になるなんて許さない。あなたも私を愛してるから、こんなことをしてくれたんでしょ。最後まで貫いて」
二人分の言葉を発しながら、茶髪の男は席を立ち、出口に向かう。私の背後を通る際、彼の横顔を見た。
彼はおそらく二十代の男性であったと思う。思う、というのは、その上に別の顔が重なっていたからだ。皮膚はまだらに白く、鼻は二つあった。一つは横を向いた獅子鼻で、もう一つ小さな鼻がその隣に付いていた。本来の口とは別に、頬骨の位置に唇があり、鮮やかなピンクのリップが塗られている。まぶたが厚ぼったく見えるのは、その上にもう一つの眼球があるからだ。さらにもう一つの目が耳のすぐ上にあり、茶髪に半ば隠れていた。三つの目のうち、まぶたの上と耳の上は私をじっと見ていた。
彼はカウンターで勘定を済ませて店を出ていった。店主は何も言わない。ああいう存在もちゃんと支払いはするんだ、という驚きがあった。
動悸が落ち着いてから、私は手洗いに立つふりをして衝立の影を覗いてみた。席には声と印象の変わらない、痩せて身なりのだらしない老人が縮こまっていて、冷めきった二段重ねのホットケーキを何度も、何度も、細かく細かくナイフで圧し潰していた。
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