天国の扉

 野村さんは、臨死体験をしたことが有る。

 原因となったのは、バイクに乗っていたときにスリップ、頭を打つという事故だったという。


 幸い、後遺症が残ることもなく退院、社会復帰することが出来た。だが、さすがに無傷とはいかず、事故から三日間ほどは、意識を失っていたらしい。

 臨死体験をしたのは、その三日間のことだという。


 まず、最初に自覚したのは、自分が空中に浮かんでいることだった。場所は病室。ふわりと浮かんで、ベッドに居る……いや、ある自分の肉体を見下ろしている。

 自分の肉体はベッドに寝転んでいるのに、自分はここに浮いている……


 さすがに、これは死んだのではないか? と野村さんは思ったのだという。

 身体に戻れば、生き返れたりするのだろうか、と思ってそちらに行こうとしても、さっぱり下に降りていくことが出来ない。


 まるで見えない壁か床が有るかのようだったそうだ。

 困った、どうしよう、と思っていると、急に周りの景色が変化した。


 そこは、薄い金色がかった、ふわふわとした雲に包まれた場所になっていた。

 なんだか甘い匂いがして、心地よい感覚がある。眠りに落ちる前のような、幸せな気分。


 ああ、もしかして、ここは天国なのではないだろうか? と野村さんは思ったらしい。

 それぐらい、なんだかいい場所のように思えたのだそうだ。


 野村さんは、雲の足場を踏みながら歩いて進んだそうだ。理由はわからないが、進む方向が分かったのだ、という。

 こっちに向かって進むべきだ、という、ぼやっとした確信があったとのことだ。


 そうして歩いていくと、扉があったらしい。

 雲の上に立っている扉。野村さんの背の倍は高さが有る扉だったそうだ。

 扉は閉まっていたが、野村さんは鍵がかかっているわけではなさそうだ……と何故か思ったらしい。


 そして、このまま扉を潜ろう、とも思ったのだという。

 そこからは甘い、いい匂いがしていて、隙間からはきらきらとした光が漏れていた。

 きっとこの扉の先には素晴らしい世界が広がっていて、自分はその先に行く権利を持っている……いや、手に入れたのだ。

 そう思った野村さんは、扉に手をかけた。


 そうした瞬間に、野村さんは母親の声を聞いたのだという。

 自分の名前を呼ぶ懐かしい声に、野村さんは意識を持っていかれた。そして、意識は暗転して、また気付いたときは、ベッドの上だったという。

 野村さんは言う。


 意識を取り戻す直前、確実に、聞いたものがあったと。

 それは、舌打ちであったらしい。


 野村さんは、また言う。

 あれはきっと、天国なんかではないのだと。

 いい匂いや、綺麗な光景を使って、扉の向こうに死にかけの人間の魂を吸い込もうとしているんだと。


 まるで、食虫植物のように。

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