第2話 あいつは街に出て、人にウザ絡みして、無知を自覚させて、最後は毒を飲んだ
「なぜ『変える』必要があるの? まずは『正しく認識する』ことが先決でしょう?」
氷の女王、知花 理はそう言い放った。その顔には「こんな簡単な論理も分からないのですか?」と書いてある。こっちはもう、グーで殴りたい衝動と、あまりの正論に土下座したい気持ちの板挟みだ。
埒が明かない。言葉のリングでこいつと戦っても、1ラウンドKO負けが見えている。だったら、フィールドを変えるしかない。
「……ついてこい」
俺はそれだけ言うと、踵を返して大学の門に向かって歩き出した。
「どこへ行くの?論理的な行動目的の説明を求めるわ」
背後から追ってくる理の言葉を無視して、俺は商店街のザワつきの中に飛び込んだ。
そこで、事件は起きた。
八百屋の前で、腰の曲がったおばあさんが、リンゴの詰まったカゴを派手にひっくり返しちまったんだ。真っ赤なリンゴが、コロコロコロ…と無慈悲な坂道を転がっていく。
周りの人々は「あらあら、大変」「おばあさん、大丈夫?」と口々に言う。知花 理も、眉をひそめてその光景を「認識」していた。誰もが、完璧な傍観者だった。
気づいたら俺、走ってた。
「うぉぉぉぉ!」とか謎の雄叫びを上げながら、坂道を転がるリンゴどもを追いかける。車に轢かれそうになるやつをスライディングキャッチ。排水溝に落ちそうなやつをギリギリで確保。我ながら、この俊敏性を哲学以外の何かに活かせないものか。
息を切らしながら、泥だらけのリンゴを両腕に抱えておばあさんの元へ戻ると、彼女は「ありがとう、ありがとうねぇ、あんちゃん」と、涙ぐまんばかりに何度も頭を下げてくれた。
俺は汗をぬぐい、振り返って理に言ってやった。
「おい、氷の女王。あんたが言う『正しい認識』とやらで、このリンゴは一つでもカゴに戻ったか?」
彼女は、何も言い返せなかった。その唇が何か反論の言葉を探してかすかに動いていたが、結局、音にはならなかった。初めて見たぜ、あいつのそんな顔。
まあ、もちろん、それで「あなたの勝ちよ」なんて言うタマじゃない。俺たちが大学に戻る道すがら、理は少し落ち着きを取り戻して反撃してきた。
「今の行動は、単なる『親切』よ。素晴らしいことだとは思うわ。でも、それは哲学的な問いとは次元が違う」
出た、お得意の「次元が違う」論法。こいつを使えば、どんな現実も自分の哲学の土俵から遠ざけることができる。便利な言葉だ。
「その『次元が違う』って言葉で、お前はいつだって高みの見物を決め込んでるんだな」
俺はもう、呆れて言った。
「じゃあ聞くが、ソクラテスは『善とは何か』を自分の部屋のコタツでぬくぬく考え続けたと思うか?違うだろ。あいつは街に出て、人にウザ絡みして、無知を自覚させて、最後は毒を飲んだ。全身で、人生賭けて『哲学』したんだよ。あんたの大好きなカント先生は、一生同じ時間に同じ散歩コースを歩いてたらしいじゃねえか。どっちの哲学に、血が通ってるように見える?」
俺の言葉は、たぶん、あいつの分厚い認識論の壁に、ほんの少しだけヒビを入れたんだと思う。
その夜、あいつ、自室でけっこう悩んだらしいぜ。これは後から聞いた話だけどな。
ズラリと並んだカント、デカルト、フッサールの本。今まで自分の知性を守る鉄壁の要塞だと思っていたそれらが、急に色褪せて、ただのインクが染みた紙の束に見えたんだと。
そもそも、なんであいつが「確かな認識」なんてものにこだわったのか。それは、世界が不確かで、他人の心が分からなくて、どうしようもなく怖かったからだ。だから、主観に左右されない、絶対的な座標軸が欲しかった。
でも、俺という野蛮人が、リンゴを拾うという単純な行動で、おばあさんの「ありがとう」という、あまりにも確かな現実を叩き出した。
「あの人の哲学は、ただの逃げだったのかもしれない…」
窓の外の街のざわめきを聞きながら、理は初めてそう思ったらしい。自分の信じてきた世界が、足元からグラグラと揺れる感覚。
まあ、俺のパンチ哲学が、氷の女王の心の壁を完全にぶっ壊すのは、まだもうちょっと先の話になるんだけどな。
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