俺のパンチは哲学を超えた

うしP

第1話 この痛みだけがリアルだ!ドンッ!!!

哲学の授業には色々な地雷原があるんだけど、俺的に最悪なのが「認識論」だ。


「諸君、我々が見ているこの世界は、本当に在るのだろうか?」

いや、知らんがな。


教授がメガネの奥からねっとりした視線を送りながら言うわけ。「我々がリンゴの『赤さ』や『丸さ』を認識できたとしても、リンゴそのもの、つまり『物自体』を認識することは永遠にできないのです」と。


もうね、「はぁ」としか言えない。そんなこと言われても、こっちは腹が減るし、眠くもなる。目の前にあるリンゴが俺の脳内で再構成された幻だろうが、物自体だろうが、かじればシャクっと音がして、甘酸っぱい味がする。それでよくない? ダメなの?


その日も、教授の「認識論催眠術」は絶好調だった。俺の周りでは、意識を失った同期たちの屍が累々と横たわっている。俺は必死に抵抗していた。だが、教授が「つまり、世界は我々の主観から逃れられない…」と言った瞬間、俺の中で何かがブチ切れた。


主観? 認識? 違うだろ。


気づいたら俺、立ち上がってた。例によって、まただ。俺の体は、どうも俺の脳みそより先に答えを出すクセがあるらしい。


俺はまっすぐ教壇に向かうと、静かに右の拳を置いた。


「先生。あんたの言うことは分かった。でもな、どう認識したって腹は減る! どう解釈したって、殴られりゃ痛え! この痛みだけがリアルだ!」


ドンッ!!


高らかに宣言し、教卓に渾身の右ストレートを叩き込んだ。ズキィッ!と脳天まで突き抜ける、純度120%の痛み。これだよ、これ。これが「物自体」からの返事じゃなくて、なんなんだ!


「……拳くん」


教授は、驚きも怒りも通り越して、なんだか憐れむような目で俺を見ていた。そして、伝家の宝刀を抜いた。


「君の感じるその痛みもまた、君の脳が作り出した主観的な感覚、つまり『現象』に過ぎんよ」


出たーーー! それ! 哲学界の「それってあなたの感想ですよね?」だ!

何を言っても「それも現象」「それも主観」で返されたら、もう会話にならない。こっちは血が出るほど痛いのに、「ふーん、君はそう『認識』したんだね」で終わらされるこの不毛さ。


「うるせえ! じゃああんたも殴られて、同じ『現象』を体験してみるか!?」

と、言いかけたところで「出ていきたまえ!」と一喝された。はい、物理的に排除。議論を放棄したのは、果たしてどっちだったのか。


まあ、そんなわけで、俺はまた廊下に放り出されたわけだ。

ジンジンする拳をさすりながら、「俺の哲学、初手から詰んでないか…?」と黄昏ていたら、そこにいたんだよ。氷の彫刻みたいに美しい、ラスボスが。


知花 理(ちばな さとり)。

壁に寄りかかって、カントの『純粋理性批判』を読んでやがった。マジかよ。ラスボスのくせに、ちゃんと攻略本(?)読んで対策してくるタイプかよ。


彼女は俺の拳をチラリと見て、温度のない声で言った。

「世界の不確かさこそが、哲学の出発点。あなたはただ、その問いから目を背けて暴れているだけよ」


ぐっ……!

ド正論! あまりにクリティカルヒットすぎて、逆に笑えてくる。


「うるせえ! 行動しなきゃ、世界は1ミリも変わらねえんだよ!」

俺は、もうヤケクソで叫んだ。


すると彼女は、心底不思議そうな顔で、こう首を傾げた。

「なぜ『変える』必要があるの? まずは『正しく認識する』ことが先決でしょう?」


ダメだ、こりゃ。

言語が、OSが、根本的に違う。


こうして、俺の「パンチで世界を変える哲学」は、開始早々、「そもそも、なんで変える必要あるの?」という最強の問いを持つ氷の女王とエンカウントしてしまったのである。


セーブポイントは、まだどこにも見当たらない。

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