蒼真と香炉の反応
香炉の煙が、静かに空気を満たしていた。
翡翠香に似せた「回帰の香」。翠薫の手で調えられたその香は、深い静けさとほのかな甘さを含みながら、奥座敷にやわらかく漂っていた。
障子の向こうで衣擦れの音がしたのは、その香が立ちのぼってからしばらくしてのことだった。
振り返ると、蒼真が立っていた。
気配に気づかぬほど静かに、彼は奥座敷の入り口に立ち尽くしていた。目元に微かな陰を宿し、何かを探すようなまなざしで、香炉の煙を見つめている。
「……この香り……どこかで……」
その言葉と同時に、蒼真の膝が崩れ落ちた。
「蒼真さま」
翠薫が駆け寄ったとき、彼の身体は力なく傾き、畳に倒れ込んでいた。額に触れると、熱はないが、ひどく冷えていた。目はわずかに開いているものの、焦点は合っておらず、視線は虚空を彷徨っている。
香が、彼の記憶に触れたのだ。
翠薫はそっと香炉の蓋を閉じ、煙の流れを止めた。けれど、香はすでに彼の奥へと届いてしまっていた。春生――かつての記憶の残香が、蒼真の内にあった何かを呼び起こしてしまったのだ。
「……月……の庭……」
彼の唇からこぼれた言葉に、翠薫は胸の奥がかすかに震えるのを感じた。春生と一緒によく行っていた場所。
「……翠……薫…」
その名を呼ばれたとき、翠薫の呼吸は一瞬止まった。
だが、それは春生の声ではない。あの面影を宿しながらも、まったく別の存在
――今、目の前にいるのは蒼真だ。けれど、その魂の深いところに、何かが重なっている。
香の力が、過去と現在を繋ぎかけている。
翠薫は彼の手を取った。微かに動く指先が、まるで遠くの夢に触れているようだった。
そのまま、彼は静かに意識を手放し、眠りに落ちていった
翠薫は、灯を弱めたまま、彼の枕元に小さな匂い袋を置いた。
春生のときと同じように――だが、今はまだ、何も決められない。
香の余韻だけが、夜の奥座敷に静かに残っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます