香炉で聞香
夜の帳が降りる頃、京の町は遠く祭りの音を残しつつ、ゆるやかに静けさへと沈んでいく。
翠香堂の奥座敷。障子越しに映る月影が、膳机の上に据えた香炉を淡く照らしていた。
翠薫は畳の上に膝を折り、音もなく呼吸を整える。
香を焚くという行為は、ただ香りを立てるための作業ではない。
古より受け継がれた祈りの「型」
神に捧げる儀式のように、静かで、慎重で、魂の深いところに触れる行いだった。
香炉には、整えられた灰が敷かれている。
銀製の細い香箸を取り、灰の頂に、すっと一本の線を描いた。まるで水面に絵を描くように。
炭団をひとつ、そっとその中に埋めると、再び灰をかぶせ、火窓と呼ばれる通気の穴を開ける。
最後に、雲母を薄く伸ばした銀葉を火窓の上へと置き、熱が優しく伝わる道を整えた。
先ほど調合した練香がお盆の上に置いてある
翡翠の名を持つ緑香を基調に、砕かれた香材が顔を覗かせる。
桂皮──あたたかさと刺激。乳香──祈りの残り香。沈香──深く沈む夜の静けさ。
そして、ひとひらだけ混ぜられた夜香木の花弁。過去を喚び、想いを繋ぐ、不思議な霊草。
それは、「記憶の香」の一種『回帰の香』と呼ばれる特別な香。
なくしてしまった記憶を呼び戻すもの。
香箸でその練香を銀葉の上にそっと載せた。
炭の熱にふわりと反応し、「回帰の香」の香が生きもののように立ちのぼる。
香りはひんやりと透きとおっていたが、その奥にはかすかな甘みが潜んでいた。
まるで忘れていた懐かしさに頬を撫でられるような、優しく切ない香り。
翠薫は、静かに呼吸を整えた。
左の手のひらに香炉をそっと迎える。その温もりがじんわりと伝わり、四指は自然と胴を優しく包み込んだ。親指は縁に、慈しむように添えられる。
右の掌は、まるで招き入れるかのように、香炉の口元へと静かにかざされる。親指と人差し指が織りなす微かな隙間は、香の魂が昇り詰める細き道。
その香炉を静かに三度、時計回りに巡らせた。それはただの作法ではない。香炉が持つ歴史と、今灯された香の命への、深い敬意。
そして、ゆっくりと顔を近づける。
──香を嗅ぐのではない。香に、耳を澄ませるのだ。
指と指の間から昇る香を、心で「聞く」。
ひと息、またひと息。ゆっくり三度。
吐くときは、息が香炉にかからぬよう、横に顔をそらして。
静寂のなか、香だけが揺れている。
翠薫の全身が、そのわずかな香りに呼吸を合わせていた。
それは、ただの儀礼ではない。
過去と、香と、そしてまだ名もなき感情と、対話するための、深い沈黙の儀式だった。
翠薫は静かに目を閉じた。肺の奥まで香を取りこみ、意識を内へと沈めてゆく。
──春生。
名を思い出したら、胸の奥が締めつけられた。
遠い昔のはずなのに、香の中では、昨日のことのように彼が息づいていた。
この香炉は、もとは春生が贈ってくれたものだった。
彼女が香の調合にのめりこみはじめた頃、月香一族の古い家屋にこもって、香と向き合い続けていたあの季節。
春生はまだ十七。翳りのない笑みを浮かべて、彼女にこの香炉を手渡した。
「おまえなら、この器の声を聞けると思ったんだ」
その言葉だけが、煙の中ではっきりと蘇った。
香炉は、ただの器ではない。彼との時間、想い、別れの記憶すら閉じこめた、小さな記憶の器。
香がたなびく。月の光に揺れて、あたりの空気まで緩やかに変わっていく。
香の力が、過去へと扉を開こうとしていた。
翠薫は身じろぎもせず、その記憶の波に、ただ静かに身をゆだねた。
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