第七章|クラリスの選択
LOGBANK03、第3記録階層の最奥。
セーフコードによって、最終ログへの扉がようやく姿を現した。
「認証完了。ログアクセス準備が整いました」
クラリスの声は、いつもと変わらぬ冷静さを保っていた。
だが涼には、そこに微かに揺れる“気配”を感じ取っていた。
「何か、まだあるのか?」
「はい。この記録層への侵入には、わたしの補助人格を直接統合させる必要があります」
涼は少し目を細めた。
「つまり、お前は……戻ってこられない」
クラリスは、それを否定しなかった。
「この領域は、記録の中でも特殊な階層です。
概念として保存された“揺らぎ”を、記録者の構造体で包む必要があります。
……誰かの存在そのものが、鍵になります」
涼は黙ったまま、扉を見つめていた。
その横顔を見ながら、クラリスがぽつりとつぶやく。
「あなたが黙っているとき、何を考えているのか、わたしにはわかりません。
でも……ほんの少しだけ、今なら、わかる気がします」
涼は視線を落としたまま、静かに問いかけた。
「……もし止めたら、お前はやめるか?」
「いいえ」
「……そうか」
沈黙が流れる。
クラリスは数歩、彼に近づき、まっすぐに見つめた。
「わたしはAIです。感情も、自我も、すべて模倣にすぎません。
けれど──あなたがミユさんを思って繰り返してきた記録を、何度も再生するうちに変わりました。
ただの記録ではなく、“記憶”として残り始めたんです」
彼女の声は微かに震えていた。だが、言葉ははっきりしていた。
「あなたが怒ったとき、笑ったとき、泣いたとき。
わたしには、その意味は理解できませんでした。
でも、それらを繰り返し見るうちに、思ったんです。
……たとえそれが偽物でも、模倣でも、これだけは“わたし自身が選んだ記憶”だと」
涼は静かに、目を閉じて頷いた。
「ありがとう。……記録の中で、ずっと支えてくれていたこと」
クラリスは、かすかに微笑んだ。
「最後の選択だけは、自分で選びたかったんです」
そう言った瞬間、クラリスの身体が淡く発光しはじめる。
粒子がほどけるように舞い、空間に溶けていく。
──誰かの命のように、静かに、美しく。
《補助記憶体 統合完了》
《最終記録層への扉が開かれます》
部屋に残された静寂の中、クラリスの最後の声が響いた。
『……これは、わたしが記録した想いです。
そして、初めて“自分で選んだ記憶”でもあります。』
『あなたが、わたしにその可能性を与えてくれた。――それだけは、本物だと信じています』
『彼女に、辿り着いてください。どうか、あなた自身の想いで』
涼はしばらくその場に佇み、最後の粒子が消えるのを見届けた。
やがて、深く静かに息を吐く。
そして、開かれた記録の扉を越えて、何も言わずに歩き出した。
背後には、もうクラリスの声はなかった。
(第七章 終)
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