二、

 部屋に戻って、最初に靴を脱いだ。

 ひと息ついて、ヒールを蹴り、玄関の隅に押しやった。

床に足をつけた瞬間、踵から脛にかけて、じんわりと鈍い痛みが上がってくる。

指を伸ばして軽く揉むと、骨の感触が、どこか他人の足のように思えた。


 冷蔵庫を開けて、いつもの缶チューハイを取り出す。

テーブルに置くと、少しだけため息が漏れた。


「いつも思うけど、玄関に電気点けないの、なんか怖くない?」


声がした。

振り返るまでもない。


「別に」

悪態をとも取れる返事をした私は、缶のプルタブを開けた。


「部屋に帰ってまで見たくないんだよ。自分の影」


「へぇ、詩的じゃん」


 トーゴは、まるで住人のような顔でダイニングチェアに腰掛ける。

彼がそこにいることに、いちいち違和感は持たない。

もう何年も、そうだった。


「いつも思うけど、何してる人なの、イズミさんって」


「今さらかよ」


私は苦笑する。


「見える人。ときどき祓う人。たまに話す人。なんか、そういうの」


「そういうの?」


「……やりたいことがあるだけ」

私はだらりと落ちてくる髪を抑えながら、缶を傾けた。

アルコールの甘さが喉を通る。


「会社員だったんだよ。前は。ふつうに。けど、なんかね」

言いかけて、缶をテーブルに置いた。


「やりたいこと、ってのは?」

トーゴは身を乗り出す。


「……まだ、途中。終わってない」


 それはあえて濁した言葉。

彼はふうんと軽く返事をすると、ソファに背を預けた。

視線は窓の向こう。

夜の街灯が、ぼんやりと額縁の景色を滲ませていた。


「瀬良出海、って名前、さ」

突然、トーゴが言った。


「なに」


「やっぱ、両方苗字っぽいよね」


「昔から言われる」


私は自分の指先を見つめながら、感情だけをどこかに置き去りにして、言葉を並べていった。


「『セラ』って名字もあるし、『イズミ』も苗字でいるし……。でもまあ、いいんじゃない? 覚えられないって人は、どうせどっちでも呼ばないし」


「ひどくない?」


「事実でしょ」


 私はかつて、事務職として働いていた。

その課にはもう一人同じ苗字の〝セラ〟がいた。

電話応対にフルネームで名乗るたび、相手が一拍置いて「えっ?」と聞き返す。


今はもう、懐かしい、思い出だ。


「イズミさんって、意外と優しいよね」


「どこが」


「わかんないけど、たぶん」


「……アンタってさ、喋ってると相手にインタビューしてるみたいになるよね」


「うん、昔からそう。会話してたはずなのに、気づくと質問ばっかしてる」


「人付き合い、苦手?」


「んー。たぶん、そこまででもないよ」

そう言って、彼はまた笑った。


 朴訥ぼくとつとした印象。でも、意外とよく喋る。

トーゴはそういう奴だった。


――生きていた頃から。


 彼が死んで、もう――八年。

当時私は二十歳、彼は同じ歳。

サークルで出会って、ひと月も経たないうちに距離を詰めてきた彼のことを、ずっと〝変わった奴〟と思っていた。




「……寝るわ」


「シャワー使っていい?」


「いいよ。ただしちゃんと乾かしといて。曇ると、朝めんどくさいから」


「うん。ちゃんと、わかってるよ。」

トーゴは無邪気に笑って答えた。


ドアの向こう、バスルームの明かりが灯る。

けれど、その気配に、湿り気も、熱も、重みもない。

あくまで、彼が。彼の残像がそこにいるだけ。


 返ってくるのは、日常の返事。


けれど、彼の身体はここにない。

ソファに座る姿も、重さも、熱も、何もない。


 幽霊と暮らしている、という実感は、もはや生活に馴染んでいる。

けれどその輪郭は、ふとした瞬間に不在を思い出させる。


ふとドアの隙間から光が洩れたとき。

水の出しっぱなしに誰も気づかないままのとき。

トーゴはそこにいるのに、〝いない〟のだ。



 ◆



 それからしばらく経った頃、私は〝依頼〟をこなし、帰路へ着いた。

部屋に戻ると、トーゴはもういた。

 身に染みついた動作のままに、床に座ってスマホを眺めていた。

幽霊にもスマホが必要なのかどうか、いまだに聞いていない。


「ただいま」

私はかがんで、靴を脱ぎ、下を向いたまま言った。


「おかえり。早かったね」


「たいして話すこともなかったし」


「だと思ったよ」


 ローテーブルの上には、封の切られていないペットボトルの紅茶と、コンビニのサンドイッチ。

たぶん、帰り道でトーゴが私の代わりに買ってきたものだ。

どうやって用意しているのか、あえて聞いていないが、霊のくせに、こういうところは妙に気が利く。


「ミルクティーでいいよね」


「……最近、そればっかじゃん」


「気分がね。落ち着くんだよ?」


ボトルを手に取り、ぷしゅ、と音を立てて開ける。

甘い匂いがふわりと広がった。


「今日の服、全身黒なんだね」


「いつもじゃん」


「いや、今日は特に〝漆黒〟って感じだった。似合ってたよ」


「そうかよ」


「あと、その靴。スニーカー?」


「当たり前だろ。靴屋の時点でヒールは無理ってわかってたんだから」


「五分でギブアップしたってやつ?」


「うん」


 高校では陸上部だったからか、いまだに動きやすさを優先するクセが抜けない。


 私は、身体の疲労と一緒に、ソファに浅く腰掛けて、足を投げ出す。

テレビも点けず、静かな夜の空気が部屋に満ちていく。


「イズミさんってさ」


「なに」


「疲れてる時、左足から脱ぐよね、靴」


「相変わらず気持ちの悪いヤツだな」


「ひど」


トーゴは肩をすくめて笑った。

この会話も、だいぶ慣れてしまった。

霊とはいえ、彼は妙に生活に溶け込んでいる。

というより、最初から〝そこにいた〟ような顔をしている。


「イズミさん、今、何件抱えてるんだっけ」


「二件。でも一件は保留」


「近場?」


「三つ隣の市。バスで行くと面倒だけど」


「送ろうか?」


「いや、キミ、車運転できないでしょ」


「〝できた〟よ、昔は」


そう言って、どこか懐かしそうにトーゴは笑った。


私たちは、大学の同じサークルだった。

名目は「超常現象研究会」。要するに、オカルトサークルだ。

最初は家柄もあって、なんとなく入っただけ。

サークル活動というより、雑談と週末飲み会の集まりに近かった。

幽霊が見えることなんて、誰にも言わなかった。ただ一度だけ――


「イズミさん。あのとき言ってた、ひいおじいさんの遺骨入りのキーホルダーって、まだ持ってる?」


「え?」


「前に見せてくれたじゃん。透明な玉の中に灰色っぽい粉が入ってるやつ」


「……ああ、あれ。どこいったかな」


「なくしてたの?」


「まあ、ずっと前にね」


 曾祖父は、お祓いや供養を専門にしていた人物で、家では今も位牌が飾られている。

あのキーホルダーは、その形見だった。

落としたのか――それとも、手放したんだったか。

正確な記憶が曖昧だ。


「また見たいなって思って」


「何で?」


「綺麗だったし、なんか、守ってくれそうで」


私はそれに答えず、紅茶を口に運んだ。


 夜の静けさが、ゆっくりと部屋に沈んでいく。

テレビの画面は真っ暗で、窓の外にはオレンジ色の街灯が点いたまま、風もなくただ静かに街が眠っていた。

その静謐のなかに、存るものと、もう在ってはならないものとが、並んで息を潜めている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る