移ろいに糺す
蒼
一、
やっぱり、ヒールは、嫌いだ。
足が痛いというより、背骨がぎこちなくなる。
姿勢が変わるせいか、歩き方が普段とズレて、まるで自分の身体じゃないみたいだった。
骨の角度がずれ、呼吸のテンポまで狂う。
皮膚の表面が、どこか別の誰かのもののような気がしてくる。
大学時代の友人が、結婚するという話を聞いたのは、ほんの一週間ほど前だった。
式というほどのものではないが、ささやかなパーティーがあるというので、懐かしい顔ぶれが呼ばれていた。
大学のサークル仲間と、彼女の地元の友人、それに職場の同僚たちが入り混じって、こぢんまりとしたホールにちらちらと笑い声が舞っていた。
私は終始、端のテーブルでグラスを持っていた。
中身は何だったか覚えていない。
炭酸の泡が少し舌を刺したから、たぶんカクテルだったと思う。
会話に混じることもなく、笑いに頷くこともなく、ただそこにいた。
場違いとまでは思わなかったけれど、どうにも、時間の流れから外れているような心地がしていた。
全員が順当に人生の階段を昇っているような顔で、私だけが踊り場に立ち尽くしているような。そんな夜だった。
帰り道は、銀杏並木のある通りを選んだ。
理由はなかった。ただ、黄色く染まった木々の下で、〝秋〟を感じたくなった。
ヒールの音が、コツ、コツと乾いた歩道に響く。季節の真っただ中。
ひとつ息を吸い込むと、葉の匂いが鼻の奥に届いた。
少しだけ、胸が痛くなった。
風が吹いた。
ざわ、と木々が揺れて、枝から剥がれた葉が舞い落ちる。
乾いた葉が足元にひっついて、ついでに感傷までくっつけてくる。
今夜は、気温が少し高い。
冷たい風ではなく、やけに湿った、どこか生ぬるい風だった。
「イズミさん、お疲れ様」
背後から声がして、私はコートのポケットに手を入れたまま、少しだけ振り返る。
「ああ」
気怠い声が出た。返事のつもりだった。
コイツは、東郷凍斗(とうごう・れいと)。
〝今どき〟の名前だが、本人は 〝トーゴー〟のほうをけっこう気に入っていた。
私はいつも『トーゴ』と呼んでいた。
その方が、口にしやすかったし、なにより、曖昧な距離感のままでいられる気がした。
「マトリックス、今でも好きなんだ?」
「は?」
「そのコート」
「うるさいな」
私は、マオカラーのロングコートの前を指でつまんだ。
裾が、風に揺れる。
お気に入りの一着だったけれど、たしかに昔、「ネオみたい」とからかわれたことがある。あれ以来、前を開けて着るようになった。
黒っぽい服ばかりなのも、パンツスタイルが多いのも、昔からの癖。
こんな夜くらいは、ヒールでキメておくべきだと自分に言い聞かせていたけれど、今はもう後悔している。
「パーティー、つまらなかったでしょ」
「うんざりだ」
「なんで行ったの?」
「…自分でも、よくわかんない」
トーゴは私の隣を歩く。
身長は私より頭一つ分ほど高い。
ユニクロで全身を揃えたような格好に、VANSのスニーカー。肩にはカルディのトートバッグがかかっていた。
いつもと変わらない、『人畜無害』が『人畜無害』を着て歩いているようだった
コイツは、私のことを何でも知っているらしい。
けれど、助かっていることも多い。
たとえば今日、誰よりも早くパーティー会場を出た私を、トーゴは迷いもなく見つけ出して、何も言わずに隣に並んだ。
それだけで、歩くことの億劫さがほんの少し、和らいだ。
ふと、銀杏の幹の陰に視線をやる。
そこに、小さな男の子が立っていた。
俯いて、肩をすぼめて、じっとその場に立ち尽くしている。
思わず口から声が漏れた。
あの感じ、自分の記憶にもある。
迷子だ。
発見して、気付いてしまった。
そして、その私の様子に気付いた隣のトーゴが言う。
「助けなくていいの?」
ため息が漏れた。
トーゴが言うと、何でも面倒くさく感じるのは、不思議だ。
仕方なく私は、気持ちの切り替えに、つま先に力を入れなおすと、男の子に近寄った。
「迷子?」
一言だけ問いかける。
男の子は、俯いた顔をさらに深く下に向けて、小さく頷いた。
セーターの袖を握る指が赤くなっていた。
冷えたのか、それとも緊張しているのか。
「名前、言える?」
「ケンタ……」
わずかに震えた声。
涙をこぼさない工夫をしているのだろう。
子どもらしい仕草で時折、真上を見上げる。
なかなか目が合わない。
私は、慣れないヒールのまま、膝を抱えてしゃがみ込み、そっと顔の高さを合わせた。
「家はどこ?」
「……」
黙ったまま、ケンタは私の足元を見ていた。
何かを考えているようでも、何かを諦めているようでもあった。
「……ついてきて」
そう言って、彼はくるりと踵を返した。
銀杏の葉が、風に乗って舞う。
冷えてきた空気が、黄色を乗せて、ふわりと柔らかくなる。
私は思わず、そのあとを追った。
トーゴも、無言でついてくる。
辿り着いたのは、――小さな墓地だった。
夜の空気が、少しだけ肌寒くなった気がした。
石畳の小径を抜けた先、ぽつりと灯った灯籠の明かりが、足元を照らしていた。
ケンタはそのひとつの墓の前で立ち止まり、こちらに振り返ると、深く、一礼をした。
そして、そのまま、消えた。
何も言わなかった。
泣きもしなかった。
けれど私は知っていた。
あれが、彼の〝帰るべき場所〟だったのだ。
「もう、迷子になるなよ」
ぽつりと呟いた私に、トーゴが笑いかけた。
「やっぱり、そういうとこだよね、イズミさん」
ひとつだけ溜め息をつき、返事はしなかった。
――私は、霊が視える。そして、話せる。
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