Chapter 1

01 未来のお守り

 水槽という檻の中を自由に泳ぐエイに目を奪われていたのは、さっきまでとそう変わらないくらいの綾世先輩。


 紫色の目隠しをつけた少し茶色がかった金髪の男性と、黒に白いメッシュが入った長髪を黒い紐で結んでいる男性は、小さな先輩に近づいていく。どちらも見覚えのある人だ。なんなら片方は布目先生で、もう片方は3年前に私を救ってくれた異能省の人のはず。


『おー? 綾世はエイが気になるのか?』

『あのひらひらすいーって飛んでるの、エイっていうの?』

『そうですよ。あれはエイです。尻尾に毒があります』

『まじか……毒あるのかよ』

『おや。知りませんでしたか、琥太郎?』

『こたろーお兄さん知らなかったの?』

『……綾世も知らなかっただろ。ゆきはあとで覚えてろよ?』


 千と呼ばれた長髪の男性に、布目先生は苛立ちを含んだ不自然な笑みを向ける。「わぁ怖い」と声を揃えて笑うのを見て、先生は仕返しと言わんばかりにくしゃくしゃと2人の頭を撫でた。


「千、さん」


 あの時、私を助けてくれた人。ようやく名前を知れた。


「ありがとう、ございます……」


 これは綾世先輩の記憶の中、届かないのは分かっている。でも言わずにはいられなかった。いつか、直接言えたらな。


 綾世先輩のお父さんは、柔らかな笑顔で3人に話しかけた。


『随分と仲良くなったね』


 そう言って、3つのペットボトルを差し出す。ありがとうと笑いながらそれぞれが受け取った。


 本当にこの人は亡くなってしまうのか。綾世先輩の言葉がにわかに信じがたい。……こんなにも幸せそうな日常の風景がもうすぐ終わるだなんて、信じたくない。


「……日常は、奇跡なんだよ。生きていること、不足がないこと、笑えていること、……幸せなこと。その全部が奇跡だから、いつ終わってもおかしくなんてない」

「……先輩」

「これはね、どうやっても変えられないことなんだ」


 綾世先輩は、全てを諦めたような悲しみを浮かべて笑っている。


『だって、こたろーお兄さんもゆきお兄さんも、とーさんのおしえごだからね。おれも仲良くする!』

『……もしも、もしも自分たちが先生の教え子じゃなくても、綾世くんは仲良くしてくれていましたか?』

『そんなのあたりまえだよ? ゆきお兄さんとこたろーお兄さんといるの、楽しいからね?』

『千……お前それ意地が悪くないか?』

『……つい聞いてみたくなってしまいました。いじわる言ってごめんなさいね、綾世くん』


 きょとんとした顔で、小さな綾世先輩は「いいよ」と返事をした。そのやり取りを見守っていた先輩のお父さんは、さて、と軽く手を叩く。


『少し遅くなったけど、お昼ご飯を食べに行こうか』

『もしかしてセンセイの奢りか?』

『ちょっと琥太郎? そういうのは先生の方から言い出すのを待つものですよ』

『2人とも言っていることはそんなに変わらないからね。綾世、何が食べたい?』

『うーん、……カレー食べたい! ちょっと辛いやつ』


 そんな話をしながら、4人は出口の方へと歩いていく。ちょうど通りかかった水族館のグッズを売っているお店で、小さな綾世先輩は足を止めた。


『どうかした?』

『……あの、さ』

『うん、何かな?』

『エイのぬいぐるみってあるかな……』

『もしかするとあるかもしれないね。エイが気になるのかい?』

『確かにさっきからずっとエイばっかり見てたな?』

『そうか……じゃあ、探してみようか』


 慈しみを込めた笑みを浮かべて、先輩のお父さんは言う。ぱあっと効果音が聞こえてきそうな風に、小さな綾世先輩は頷いた。

 るんるんと鼻歌を歌いながらお父さんと手を繋ぐ先輩、その後ろから、布目先生と千さんが微笑ましいものを見るようにしてついていく。


 両腕で抱える大きさから、片手に乗るものまで、エイのぬいぐるみはたくさんあった。布目先生が一番大きなものを勧めるけど、小さな先輩は、こっちがいいとストラップにもなる小さなものを離さない。


『大きい方じゃなくていいんですか?』

『うん、こっちがいいの。このくらいだったら外でも一緒にいられるから』


 千さんにそう返した先輩は、お父さんの方を向く。


『とーさん、いい……?』

『もちろんいいよ。そうしたらこれは綾世のお守りになるね』

『おまもり?』

『そうだよ。きっと綾世を守ってくれる』


 小さな綾世先輩は不思議そうな顔をしながらも、お会計が終わったばかりの小さなエイのぬいぐるみを受け取った。


「父さんにはきっと、この後の未来が見えていたんだろうね。だから俺に『お守り』をくれた」

「未来が見えていたって……異能、ですか?」

「うん。父さんの異能は、未来が見られるというもの。でもね、未来が見えてもその未来は変えられないんだ」


 ……残酷だ。分かっている結末も知っている結果も、それが、どんなに悲しくて苦しくて辛くても、何も変えられないだなんて。やっぱり異能は万能なんかじゃない。


 その上で先輩のお父さんは笑っている。


 また世界が暗転した。曇り空の下、水族館の建物に向かって、エイのぬいぐるみを持った小さな綾世先輩が歩いている。

 ……どうして一人なの? お父さんは? 布目先生は? 千さんは? 止めようと手を伸ばすけど、半透明な私に気づいてくれるわけがなかった。

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