Epilogue

20 泣かないで

 気付いたら、闇に包まれた温度のない世界に立っていた。

 一歩先も見えないのに、なぜか自分の体だけははっきりと見える。暑くも寒くも、心地良くもない。でも、体中が粟立っている。


 ここ、どこ……?


 呟いたはずの言葉は音として聞こえてこない。……ここが普通じゃない? それとも、私が普通じゃない?

 どうしてここにいるのかも、どうしてこんな風になっているのかも、全く意味が分からない。いつもみたいに、綾世先輩と汐梨ちゃんと宇治先輩と、お昼ご飯を食べていたはず。


 もしかして、先輩たちもこのよく分からない状況になっている? ついさっきまで一緒にいたんだから十分あり得る話だ。誰か、いないかな。辺りをぐるりと見回しても、あるのはどこも変わらない黒色の闇。


 ……汐梨ちゃん、宇治先輩、——綾世先輩。


 やっぱり、無音だ。音だけじゃなくて、何かに触れる感覚も空気の匂いも、感覚という感覚が消えている。

 なんで? どうしてこうなってるの? 私は、どうしたら……。


『——陽翠』


 ……綾世先輩?

 その声は耳から入ってこなかった。まるで音を処理する部分に直接語りかけられているみたいだ。思考する時、脳内で響くようなそれによく似ている。


『……陽翠』


 どうして、そんなに苦しそうなんですか? 何か、辛いことでもあったんですか……? 思い詰めるようにして私の名前を呼ぶ先輩に、いつもみたいな余裕は感じられない。


 何かを言おうとして、息を止めて、また何かを言おうとして、飲み込む。「躊躇」という言葉がぴったりだ。

 迷っていることがあるのなら私でよければ話してほしい。もしかしたら何か役に立てるかもしれない。異能の暴走から助けてくれたみたいに、私も綾世先輩を助けたいから。


 ……大丈夫、大丈夫ですからね。


 音にならない声を出す。「陽翠」とまたもや聞こえた呟きは苦しみに揺れていた。


 「泣かないで」。あの時、そう言ってくれたじゃないですか。……知ってました? 私、先輩の優しさに救われたんですよ? だから、泣かないで?


『……ごめんね』


 さっきよりもずっと苦しそうに震えている声。伸ばした手はただ闇を掴むだけ。


『陽翠』


 それにはもう、「躊躇」はなかった。

 瞬間、柘榴色に光った瞳と目が合う。そしてすぐに見えなくなった。


『きみは俺の言うことだけを聞いていればいいよ』


 ぴしりと体の自由がなくなる。


『大丈夫。きみにとっての3年前いつもみたいにすればいい』


 ……そうだよ。いつもみたいに。


『さあ、——傷つけて?』




 カッターナイフが差し出された。目の前には誰もいない。これを受け取ったら、また傷つけなければならない。痛い思いをしなければならない。


 でもきっと、そうしたら綾世先輩が笑顔になってくれる。


 だから、私はそのカッターナイフを受け取る。カチカチカチと刃を出して、左腕に滑らせる。

 傷つけないといけない。傷つけたら笑顔になってくれる。傷つけないといけない。傷つけないといけない。


『この世界から、異能者を消そう。人間から嫌われるだけの異能者を。不幸せなだけの異能者を。全部全部消して、全部全部書き換えて、異能者が好かれる世界にしようよ』


『大丈夫、細かいことは俺がやるから。きみはただ、傷つけていればいいからさ』


『……きみの「痛み」で、この異能者を嫌う世界の全部、書き換えてしまおう?』




 ——……そうしたら、綾世先輩は幸せだって笑ってくれますか?




 脈打つ心臓と共に、痛みが溢れる。さっきまで消えていたはずの感覚が戻ってくる。いや、戻ってきただけじゃない。いつもよりずっと、何倍も何倍も鋭い。


 荒い息遣い、震える両手、暴れる心臓から離れたところは冷たく、カッターナイフで傷つけた部分だけ変に熱い。濃く漂う鉄の臭い、じわりと赤く歪んでいく視界、そして何より、この痛み。


 傷つける、赤、傷つける、傷つける、生温かい、鉄の臭い、赤、傷つける、赤、赤、生暖かい、鉄の臭い、傷つける、傷つける、赤……。


 痛い、生暖かい、赤、傷つける、痛い、痛い、赤、鉄の臭い、痛い、生暖かい、傷つける、傷つける、赤、痛い、痛い、痛い……。




 ——先輩……泣いてない、かな。

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