第11話 よし、今日は探索だ
朝。携帯のアラームが鳴るより先に、俺は目を覚ました。
まだ陽は完全に昇りきっておらず、窓の外には淡い青のグラデーションが広がっている。
昨日は遅くまで作業していた割に、体に重さは残っていなかった。
むしろ、不思議と頭は冴えていて……それが、かえって嫌な予感を呼び起こす。
(……夢中になりすぎてるな、俺)
階下へ降りると、ちょうど母が朝食の準備を終えたところだった。食卓には味噌汁と焼き魚、それに昨夜の残り物らしい煮物が並んでいる。
「おはよう」
「おはよう、陽斗。ちゃんとご飯は食べていきなさいよ」
「うん」
いつも通りの朝。けれど、その“いつも通り”が、どこか現実感に欠けていた。
食事を済ませて身支度を整え、家を出る。玄関を閉める音が妙に乾いて聞こえたのは、気のせいじゃないだろう。
登校途中、同じ通学路を使う数人のクラスメイトとすれ違いながら、俺は自然と歩調を速めた。
学校に着くと、始業前のざわめきが、容赦なく現実へと引き戻してくる。
1限、2限は無難にこなし、3限目の数学では、隣の席の三谷が教科書を忘れたらしく、俺にノートを覗かせてくれと小声で頼んできた。
「……なんで今日に限って持ってきてないんだよ」
「悪い、寝坊したんだ。マジで助かる」
4限の現代社会では、例によって先生の雑談が半分を占めていた。
俺は適当に相槌を打ちながら、手元のノートの端に、無意識のうちに“今日の探索”を考える。
(ダメだな、完全に頭がダンジョンにある)
昼休み。学食は相変わらず混んでいたが、なんとか焼きそばパンを確保して教室へ戻る。そこで、ようやく一息つけた気がした。
(……学校が終われば、また一歩進める)
午後の授業は英語と物理。どちらも特に気の入る科目ではなかったが、今日は妙に静かに時間が流れた。
気づけば、放課後のチャイムが鳴っていた。
階段を降り、物置の奥──“ダンジョン”の空間に足を踏み入れた瞬間。
いつもの、ひんやりと湿った空気が、肌に絡みつく。
扉を閉め、足元の石を一歩ずつ踏みしめながら進んでいくと、広間の奥──
整地したエリアの中央に、“あいつ”はいた。
「……よお、種馬。調子はどうだ?」
声をかけると、種馬──飼育ゴブリンは、ぴたりと動きを止め、俺のほうを振り返った。
腰に下げた剣ナタに軽く手を添える仕草は、すでに風格すら漂わせている。
繁殖室の奥には、ゴブリンの♀たち。
それぞれ、腹部が膨らみ始めた個体や、幼体を抱え込むように座っている個体まで──
すっかり、ひとつの“群れ”が形成されていた。
俺は、アイテムボックスから一本のスコップを取り出す。
金属製で、柄は短いが掘削には十分。昨日、資材屋で手に入れたものだ。
「お前にこれを預ける。──狭くなったら、繁殖エリアの拡張だ」
種馬はスコップを受け取ると、ひとつうなずき、振り返って壁のほうを見る。
すでに目をつけていた場所があるのだろう。
「今日の拡張作業はお前に任せる。──どんどん広くしてくれ。俺は新しい♀を探してきてやるからな。」
飼育されたゴブリンの中でも、知能が高いこの個体なら──命令の意図をすぐに察する。
ぷにゅり──と、どこかから跳ねる音がした。
視線を向けると、プニが壁の影から顔を出し、嬉しそうに揺れている。
「お前は俺と一緒に来るぞ。……今日は探索だ」
プニはひときわ大きく跳ねた。
その透明な体が、石の床にぽよんと弾み、また跳ね上がる。
どこか子犬のような、純粋な好奇心に満ちた反応だ。
「種馬、あの子たちはお前の“家族”みたいなもんだろ。作業が終わったらちゃんと見てやれよ──頼んだぞ」
再び無言で頷いた種馬は、スコップを手に壁際へと向かうと、躊躇なく先端を岩肌に突き立てた。
ザク、ザクッと規則正しい音が、静かなダンジョンに響く。動きに迷いはない。
すでに“作業”を理解しているのだろう。
──人語は通じなくても、やるべきことは伝わっている。
たったそれだけのことが、妙に心強く思えた。
俺は一度だけ後ろを振り返り、作業を始めた種馬たちの姿を目に焼き付けた。
「……じゃあ、行こうか。プニ」
俺はダンジョンの未踏通路へと、足を踏み出す。
スライムの柔らかな音が、背後から静かについてくる。
次に何が待っているのか──少しだけ、期待と不安が入り混じっていた。
種馬と別れて俺は、プニとともにダンジョンの未踏区画へと歩を進める。
壁の角度、分岐の数、通路の幅。すべてをスマホの画面上に記録しながら、俺たちは慎重に奥へと進んでいった。
目印代わりに、分岐ごとにフラッシュを焚いて撮影を残しておく。
そんなふうにして──探索は始まった。
最初の通路を抜けてから、すでに数十分が経過していた。
スマホのメモにもこのあたりの記録はない。──つまり、ここから先は完全な未踏エリアってことだな。
「よし、本番はここからだ。」
歩を進めるたび、石壁に浮かぶ水滴がライトに反射して揺らめく。足元に気を配りながら、俺は慎重に進んでいく。
そのときだった。
ギャギャッ!
通路の先から、甲高い鳴き声とともに、影が飛び出してきた。
「来たか──!」
俺は即座にバッドを構え、プニが反応して前に跳ね出る。
ゴブリンの雄だ。一体、また一体と、暗がりから現れてくる。合計三体──だが、焦る必要はない。
こいつらの動きはもう見慣れた。焦らず、確実に捌いていけばいい。
──そう思った、その時だった。
「──え、プニっ……!?」
視界の隅で跳ね上がる青い影。俺の声を待つまでもなく、プニは敵の側面へと滑り込んでいた。
柔らかな体がぐにゃりと歪み、透明な粘液を纏って──そのまま、襲いかかる。
(……マジかよ、お前、そんな戦い方……)
驚きと、ほんの少しの安心が、心の奥に同時に浮かぶ。
ぶしゅっ!
粘液が、敵の顔面めがけて一直線に飛ぶ!
「……え、溶けたっ!?」
思わず声が漏れた。
その粘液に触れたゴブリンの皮膚が、ジリジリと音を立てて溶け始めている。
「すげぇな……」
これが──プニの新たな攻撃手段、“酸性粘液”か。
だが感心している暇はない。残りの2体は健在だ。
バッドを構え直し、俺は接近してくるゴブリンの一体を真正面から迎え撃つ。
──ドゴッ!
脇腹を狙って叩きつけた一撃に、ゴブリンが呻いて後退。
そこをプニが粘液で牽制し、再び俺が踏み込んで打ち倒す。
──この流れを、繰り返すだけだ。
数分の戦闘を終え、通路には三体のゴブリンの死骸が転がっていた。
倒れた位置を確認しつつ、俺はそれぞれの腹部付近を確認し──指先で慎重に魔石を取り外す。
ゴブリンたちとの短い戦闘のあと、通路には三体の死骸が転がっていた。
俺は軽く息を整えつつ、背後を振り返る。
「……プニ、魔石は残して、吸収してくれ」
その一言に、プニは小さく跳ねて応じると、ぬるぬるとした体を地面に沿わせ、最初の死骸へと向かっていった。
透明な身体を広げながら、慎重に腹部を避け、まるで繊細な職人のように──魔石には一切触れず、死体だけを包み込み、吸収していく。
一体、また一体と、魔石だけをぽつんと残して、死骸が跡形もなく消えていく様は、何度見ても不思議な感覚を覚える。
処理が終わったあと、俺は静かに膝を折り、残された三つの魔石を拾い上げた。
どれも表面はざらつき、ほんのり温かい。だが、その内側に秘められた魔力だけは、確かに“生きて”いる。
「──よし、回収完了」
小声でつぶやきながら、それらをアイテムボックスへと収める。
これでまた、いくらか金になる。戦利品としては、悪くない成果だ。
プニは何事もなかったように、すっと体を戻して再び跳ねた。
「よし、次に行こう」
その後も、俺とプニは何度も雄ゴブリンと遭遇した。
戦闘は十数回に及び、そのたびに小さな魔石を手に入れていく。
その合間、運よく雌の個体にも数体、遭遇することができた。
「よし、逃がすかよ……!」
暴れ回る個体にロープをかけ、後ろ手に縛り上げる。脚も動きを封じ、捕獲完了だ。
捕獲した♀はその場で拘束し、通路の壁際に拘束する。探索を終えたあと、まとめて回収すればいい──今は、とにかく先へ進むのみだ。
戦闘の連続だったが、最終的に24個の魔石を確保し、♀も3体捕獲したところで、探索はひと区切りとなった。
俺はプニと共に、通路の奥──まだ確認していなかった分岐の先を軽く偵察しておこうと歩を進めた。
──そして、通路の先端でふと、足を止める。石畳が途切れ、ぽっかりと口を開けた黒い穴。
そこから、岩を削って造られたような階段が、下方へと続いていた。
「……これが、“次”か」
わずかに湿った空気が、階段の奥から吹き上がってくる。気温が微かに下がり、肌にまとわりつくような気配が漂っていた。
俺はしばらくその場から動かず、スマホのライトをかざしながら、階段の先を見つめた。その暗がりの奥に、何が待っているのかはわからない。
けれど──今は、まだ行くべきじゃない。
「……やめとこう。今日はこれ以上、踏み込まない」
プニの反応、そして捕獲した♀たちのことを考えれば、ここで一度戻るのが正解だ。
俺は階段から一歩、身を引いた。軽く息を吐いて、プニのほうを見る。
「よし、帰るぞ」
プニはぴょんと跳ねて応じた。薄暗い通路を振り返り、俺たちは静かに、来た道を引き返していく。
♀ゴブリン達を拘束している通路まで引き返しながら、俺は歩調を少しだけ緩めた。
足元に響く乾いた足音と、ぷにゅ、ぷにゅ、と後方で跳ねるスライムの音だけが、静まり返ったダンジョンに広がっていく。
「……よし、ちゃんとそのまま大人しくしてるな」
捕らえた♀ゴブリンたち──全部で三体。いずれも、目隠しこそしていないが、簡易の拘束具で手足を縛って壁に固定してある。
逃げ出す素振りもなく、俺の足音に怯えたように身体を丸めていた。
数時間の探索と戦闘をこなしてきた身体は、さすがに疲労を訴えている。俺は壁際の少し広いスペースに腰を下ろした。
「──ちょっと休憩しようか、プニ」
そう言ってアイテムボックスを操作し、昼に食べ損ねた焼きそばパンを取り出す。
(この調子なら、次の階層に進むのもそう遠くはないか……)
そんなことを考えていると、近くに拘束していた♀ゴブリンの存在を思い出す。壁際に固定した拘束具のあたりに、縮こまるようにして座る小柄な影が目に入った。
包装のビニール越しに、かすかに温もりが残っていた。一口かじったところで──
じっとこちらを見ているその目には、さっきまでの敵意は感じられなかった。
「……食うか?」
俺は焼きそばパンを裂き、警戒されないようゆっくりと手を伸ばす。
♀ゴブリンは、わずかに首を傾げてから、もぐもぐと咀嚼を始め──
数秒の沈黙。
♀ゴブリンは、ごく小さく首を傾け──おそるおそる、俺の指先からパンを口にした。
ひと噛み、ふた噛み。
ごくんと喉が動くと──
突然、俺の視界の端に光が差す。
《スキル《飼育(魔物)》が発動しました》
《対象個体:ゴブリン♀》
《成長促進により繁殖が可能となりました》
鼓動がひとつ、跳ねた気がした。実際に音が聞こえたわけじゃない。けれど、確かに“つながった”という実感があった。
今までただの“敵”だった存在が、わずかに、こちらに近づいた──そんな確かな変化。
(……“飼育スキル”、発動……した?)
ひと息ついた俺は、パンの包装を丁寧に開き、残った分を三つに分けた。
ゴブリンの数は、あと二体。さっきと同じ手順──いや、それ以上に慎重に行かなくては。
「……お前も、腹減ってるだろ?」
声をかけながら、俺は膝を折り、小さく千切ったパンをそっと差し出す。
♀ゴブリンは初め、ぎゅっと身体を強張らせたが──すぐに、前の個体が無事だったのを思い出したのか、鼻をひくつかせた。
数秒後──おずおずと口を開き、俺の手からパンを受け取る。
咀嚼。そして、飲み込んだ瞬間──
《スキル《飼育(魔物)》が発動しました》
《対象個体:ゴブリン♀》
《成長促進により繁殖が可能となりました》
(……よし、二体目も)
気を抜かず、最後の一体へと視線を向ける。
こちらは、やや年若いような個体だった。まだ成体とは言えない、小柄な印象。
俺は、最後のひとかけらを静かに差し出す。
ゴブリンは戸惑いながらも、ためらうように俺の指先へ顔を近づけ──ちょん、と舌先で触れる。
それだけで、またあの反応が起きた。
《スキル《飼育(魔物)》が発動しました》
《対象個体:ゴブリン♀(幼体)》
《成長促進により繁殖が可能となりました》
ふ、と力が抜けた。
これで三体──全員、俺の“管理下”に入った。
拘束を解くのはまだ先だ。けれど、少なくとも、これで今後の扱いが格段に楽になる。
そう確信できるだけの、変化があった。
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