第2話 山を登る者

山を登ると、呼吸が苦しくなる。

肺がぎしぎしと軋む音がして、まるで体の内側から命が削れていくような感じがする。


それでも、俺は山に登る。


登山歴五十年。

妻には先立たれ子どももいない。

一度滑落して足を折ったとき「もう登るな」と医者に言われたけど、俺はこの山といっしょに死ねればいいと思っていた。


そんなある日、孫くらいの若いボランティアが俺の古びたスマホを見て、こう言った

「死合わせマッチングって知ってます?最近、遺書代わりに使う人とか多いんすよ」


死に方を選ぶアプリ、だと?

くだらねえ。

そう思った。

だけど夜、ストーブの火がゆらめく中で、俺はそのアプリをダウンロードしていた。


最初に現れたのは、無機質な案内役だった。


「こんにちは、ユーザーID・103。あなたに最適な死に方をご提案します。」


「ほっとけ、勝手に死ぬから」とつぶやきながらも俺は希望の死後世界の選択肢を見つめた。


――孤独でも、静かであること。

――誰にも迷惑をかけないこと。

――山に還ること。


「……それでいいのか?」

とアプリは聞いてきた。

俺は答えた。

「この体じゃもう山を登れねぇ。でも――

死ぬときくらい、登りたいんだよ。」


アプリは、ひとつの死に方を提示してきた。


『厳冬期の山頂での凍死。死後、記憶は山そのものに還元され、永久登山者として雪の中に存在し続けることができます。』


永久登山者。

誰にも見つけられず、誰の邪魔にもならず、

風の中でただ、そこに在り続ける存在。

それは俺にとって、天国だった。



あの年の冬は、例年よりも雪が深かった。

麓の人間には何も言わず、登山口からゆっくりと歩き出す。

足取りは重く、でも不思議と痛みはなかった。

山が受け入れてくれているようだった。


夜が訪れた山頂は、凍てつく美しさに包まれていた。

空気が澄んで、星が瞬いて、音がひとつもない。

俺は雪の上に寝そべり、スマホを取り出す。


アプリが、最後に告げる。


「ようこそ、白の境界へ。

あなたは今、永久登山者としての第一歩を踏み出しました。」


目を閉じる。


寒さが、ぬくもりに変わっていく。


もう、息をする必要もない。

もう、登らなくていい。

もう、俺は――


山と一体になった。




いつか誰かがこの山を登るとき、

ふいに吹いた風が、そっと背中を押すだろう。



それが、俺だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る