十四. 翡翠の熱(2)
ようやくたすき掛けが完成した頃、東雲がどこかを凝視して「それは、どうした?」と呟いた。
「……え?」
「左腕の裏側だ。関節辺りのところに傷が出来ている」
はて、なんの事か。全く心当たりのない水聖は自身の左腕を眺めた。確かに彼の言うとおり、関節付近は少し赤くなっていて蚯蚓脹れが出来ていた。引っ掻き傷だろうと思う。
(こんな傷いつ…………?あ、)
そういえばあの時。暴走寸前の悪霊と対峙した時、自身の腕を引っ掻いていたのだっけ。多分その時できた傷だろうと思った。
(……それにしても強く引っ掻いたもんだなぁ)
思ったよりその傷は生々しい。今の今まで気づかなかったのが不思議に思うくらいである。それくらい強く引っ掻いたというのにあの時は痛み一つ感じなかった。アドレナリンは痛みを感じにくくする、というのはどうやら本当らしい。
「……それ誰にやられた?」
傷に触れながらあの時を考えていると、東雲がそう呟き思わず彼を見る。
東雲は眉を釣り上げて、口をへの字にさせていた。その表情に「ひ、」と軽く声が漏れる。分かりやすく、怒っている人間の顔だった。咄嗟にまずいと判断した水聖は「あ、いや、、」と否定の言葉を口にする。
「これは自分で付けたんですよ」
「……自分で?」
「あ、はい……。悪霊に取り憑かれないように、自我を保つために」
その眼圧にしどろもどろに答えると眉をピクりと釣り上げた東雲が「はぁぁ、」と深いため息をついた。その様子にピクリと背筋が伸びる。
「君はあの時、何ともないと言った。怪我はないと。傷一つないと。全部嘘ではないか」
「いや。別にこのくらいの傷何とも……」
「傷は思ったより治らないんだぞ。君は俺のような仕事をしている訳ではないのだから、こんな事で傷が残ってほしくない。……やはり俺がもう少し早く行動していれば……」
悔しそうに歯を食いしばる東雲に言葉をかけようと「いやあのぅ」と手を伸ばすも、突然立ち上がった彼にその手を引っ込める。訳も分からず困惑していると東雲はズケズケと歩き出し、ソファ席の近くにある壁がけの戸棚をゴソゴソと物色し始めた。水聖の趣味全開のその戸棚には観葉植物や使わなくなったコーヒーミル、茶葉が入っていた麻袋などを飾っているのだがあまり触ることはない場所だ。そんな場所を我が物顔で物色する彼の異常性に遅れて気付き「ごらぁぁ!!」と叫んだ。
「ちょ、なにしてんだよ!人の!人の棚!」
「…………あぁ、」
「あぁ、じゃないわ!おい!離れろって!」
いつぞやにも同じような光景を見たな、なんて既視感を覚えながらも、慌てて彼の元へ走って服を掴みかかる。羽織を強く引っ張るも東雲はビクリともせず「……あったあった」と何かを取りだしていた。
「…………なんだそれ」
その手にあるのは小ぶりな木箱で、見たこともなくもちろん自分で置いた記憶もない。色合いや素材が違和感なく馴染んでいたせいで全く気づかなかなったのだろう。母さんや姉さんが置いたのだろうか、などと思っていると東雲は何の躊躇もなく箱をパカりと開けた。
「ちょ!勝手に開けるなよ!」
「……勝手にじゃない。これは俺のだ」
「…………………………はぁ!!!??」
問答無用にそう答える彼をギラりと睨みつける。そして少しの沈黙の後、その言葉の意味を理解する。
(…………っ!!この男、盗聴器だけでは飽き足らず私物まで置いてるなんて!!)
怒髪天を衝く、とはまさにこのこと。どういう神経をしていたらそんな事を平気な顔して出来るのだろう。ここはお前の家ではない。好き勝手にいろいろなものを置いていい場所ではない。そんなこと言われなくても分かるだろう。
煮えたぎる怒りを露わにしても東雲は平然とした顔をしていた。「そこに座ってくれ」と言った。
「何でだよ!ていうかそれなんだよ!」
「これか?これは簡単な救急箱だ。本当に簡単なものしか入っていないが……」
「何でうちに置いてあるんだよ!」
「だってもしもの時のために必要だろ?そのための救急箱なんだから……」
「私の家に勝手に置くなって言ってんだよ!」
「いいから、座ってくれ」
一向に譲らない水聖に東雲は腕を掴んで優しく、でも無理やりにソファに座らせた。ドスっという衝撃に思わず目をつぶった水聖は、文句を言おうと目を開けた瞬間、顔を歪めた。
「何してるんすか」
「何って、薬を塗るんだよ」
しゃがみこんで立て膝をついていた東雲は、当たり前のように水聖の左手をとっていた。まるでどこかの国のプロポーズで使われるような体制に水聖は羞恥を通り越して絶句の表情を浮かべる。
(……気付いていないんだろうなぁ)
自分の体制もどんな状況なのかも、きっと彼は気付いていない。この男のなんでもない行動一つ一つに大した意味はない。だからいちいち反応していても仕方ない。
逃げないよう拘束する意味もあるのだろう左腕を離すことなく、彼は救急箱の中から紫色の軟膏容器を取り出した。そしてその蓋を片手で器用に開けると指で中身をすくい上げた。透明のそれは傷に効く軟膏なのだろう。
「少し染みるかもしれない。我慢してくれ」
「……」
そう前置きをしてから軟膏のついた指を傷口に滑らせた。割れ物に触れるような繊細な手つきである。染みるかもしれないと彼は言ったが全くそんなことはなく、むしろ冷たくて気持ちよかった。
「ここまでしていただかなくても勝手に治りますよこのくらい……」
「いいやダメだ。そういう油断が一番危ないんだ。舐めていると酷い目に遭うぞ」
「大袈裟だなぁ……」
真剣な表情で薬を塗り続ける東雲に水聖は眉を下げた。心配してくれるのはありがたいがここまでくると流石にやり過ぎである。成人はとっくに過ぎたというのに子供の頃に戻ったようなこそばゆい感覚を覚えた。
「……東雲さんって、仕事熱心ですよね」
しかしそれも全部仕事のため。”神谷水聖の身の安全の確保”という任務を全うしているだけ。だから、そのやり過ぎな優しさに触れて歓喜するのは恥ずかしいことだ。
(騙されるな騙されるな、)
心の中で念仏のように唱えていると、ピタリと東雲の動きが止まっていることに気づく。不思議に思い彼を見ると東雲は鋭い眼光でこちらを凝視していた。
「……どういう意味だ?」
呟かれたその言葉は冷淡で無情な気がした。平坦で抑揚のない声はいつも通りだが、確実に怒りを含んだような声色だった。
「あ、……えっといや、私の傍にいるのは任務のためだろうし……」
「……」
「本当に軍人さんは自由もなくて大変だなぁ……と」
突然雰囲気を変えた東雲に萎縮しながら言葉を紡ぐ。謎の緊張感に冷や汗をかいてしまった。
逃げ出してしまいたいが生憎左腕が掴まれたままなので抜け出せない。痛くはないが確実に逃げれないチカラで掴まれているのだ。軍人のそれに叶うはずもないのである。
数秒後、じっと水聖を見つめていた彼は特に何も告げることなく治療を再開させた。何だったのかまるで分からず、水聖は怪訝そうに眉を顰める。
(……不機嫌になったなぁ)
先程までとはまるで違う彼の態度に余計なことは言わないでこの場を何とかしよう、と心に決めた。それとほぼ同時に、彼が言う。
「…………仕事なら別に姿を現さなくても問題なかった」
小さな声だった。BGMを切っている今だからギリギリ聞きとれたくらいの小さな声。そんな声でさらに続ける。
「今までのように、君を生活を盗聴しつつ、問題が起きれば巡回中の部下に報告する。それで問題ないはずだった」
「は、はぁ」
突然どうしたのだろう。突拍子のない発言は相変わらずである。
薬を塗り終えたのか、次にガーゼを取りだし傷口に当てた。そして慣れた手つきでガーゼテープで固定していく。
「けれど、俺は願ってしまった」
突然、空気が変わった。彼の声が悲しげで苦しげで、それでいて優しく感じたのだ。そして彼の声しか聞こえないくらい、世界が静かに感じてしまった。時計の針の音も、鳥の鳴き声も、機材の起動音も。何も感じないくらいに。
「君の近くに在りたいと思ってしまった」
処置は終えた。けれど腕は離してくれない。今すぐにでも離れないのに、全く、離してくれない。
「だから上官に懇願したのだ。自分の任務も落ち着いてきた今なら、君の傍にいてもいいかって」
その手は少し冷たかった。冷たいけれど、温かい。彼の体温が皮膚を通してじわじわと伝わってきた。その熱が気恥ずかしくて堪らなくて手を引っ込めたいのに引っ込められなくて。
東雲の平坦で透き通った声も儚げな表情も、その全てで脳みそがいっぱいになる。
「────俺は、君のことを好いているよ。水聖」
眉を下げ、口を歪めて、耳を赤く染めて。東雲は水聖を見上げて優しく微笑んだ。交わった瞳に確かな熱を感じてしまうと、どうにかなってしまいそうに心臓が高鳴った。それなのにどうしようもなくそこから目を剃らせなくなる。
何も言葉がでない。何も考えられない。なにも、なにも。東雲はそんな様子の水聖に少しだけ笑って腕を離した。やっと自由になれると安堵したのも束の間、今度は手首を掴み、グイッと顔に近づけて─────そして───。
手の甲に、鳥が啄むような口付けをした。
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