第6話

 時間喰らいの魔物の影響は、ウィンドヘイムの日常を完全に破壊した。食事は冷めきり、会話はちぐはぐになり、労働は非効率を極めた。町の人々は、時間の波に翻弄され、ただ座り込むしかなかった。その光景は、まるで久留米の盆踊りの最中に、突然音楽が止まり、人々が静止してしまったかのようだった。

 ユイは、時間感覚が狂った患者を診察するのに苦戦した。脈拍は不規則に飛び跳ね、体温は変動し、傷の治癒も予測不可能だった。竜の治癒の息吹も、時間の歪みによって効果が減退する。竜たちは、常に頭を振って、まるで時間の流れから逃れようとしているかのようだった。彼らの鱗が、不規則なリズムで煌めき、その鳴き声もまた、音程が不安定で、聞いているだけで不安を煽った。診療所には、患者たちの混乱と、ユイの焦燥が混じり合った、重苦しい空気が満ちていた。微かに漂う消毒薬の匂いが、その場の絶望感を一層際立たせる。

 レオンは、工房に引きこもり、時間喰らいに対抗する新たな装置の開発に没頭していた。彼の机の上には、今まで見たことのない奇妙な歯車や、水晶、そして未知の金属が散乱していた。彼は、時間が歪む現象を解析するために、特殊な水晶を組み込んだ装置を試作していた。しかし、水晶は微細な時間の歪みに反応してすぐにヒビが入る。試作と失敗を繰り返すたびに、水晶が砕ける甲高い音と、微かに硫黄のような焦げた匂いが工房に充満した。彼の目の下の隈は、もはや皮膚の一部であるかのように深く、その両目からは、睡眠不足からくる充血が消えなかった。彼の指先からは、常に精密機械の油の匂いが漂い、それが彼の研究への執念を物語っていた。

 ある晩、ユイが工房を訪れると、レオンは床に散らばった失敗作の山の中で、一人、虚ろな目で宙を見上げていた。彼の顔には、深い絶望が刻まれている。 「だめだ……。どれだけ試しても、時間の歪みを安定させる方法が見つからない。これは、俺の理解を超えている……」 彼の声は、これまでになく弱々しく、彼の背中が、まるで折れてしまいそうに見えた。ユイの心臓が、締め付けられるように痛む。久留米の夜、誰もいない公園のベンチで、一人、星を眺めていた時の孤独感が、彼女の心に蘇る。

 ユイは、彼の隣にそっと座り、何も言わずに彼の手を握った。レオンの手は冷たく、彼の疲弊を物語っていた。 「レオン。諦めないで。私たちは、これまでだって、数えきれないほどの困難を乗り越えてきた。きっと、今回も」 ユイの声は、力強く、しかしそこには、彼女自身の深い不安が隠されているのを感じた。

 レオンは、ユイの手を握り返し、ゆっくりと彼女の方に体を向けた。彼の瞳には、かすかな光が戻っていた。 「ありがとう、ユイ。君がいるから、俺はまだ、ここにいられる」 彼の言葉は、告白のようであり、しかしそれ以上の、深い絆を示唆していた。ユイの頬が、微かに赤く染まる。二人の間に、静かで温かい空気が流れる。久留米の夏の夜、縁側に座って、蛍の光を眺めているような、穏やかな時間だった。

 その夜、彼らは、これまでの経験をすべて見直すことにした。精神干渉型の魔物、磁力型の魔物、そして今回の時間喰らい。これまでの魔物には、それぞれ得意な干渉領域があった。精神、物質、そして時間。彼らは、それぞれの魔物が持つ特性に、ある共通点を見出し始めた。それは、全てが「世界の根源的な歪み」と繋がっているのではないかという仮説だった。王都の貴族たちが過去に行った行動や、魔力流動の変化が、この魔物の出現と関係しているのではないか。

「もし、この魔物たちが、単にダンジョンから現れるだけでなく、世界の歪みそのものから生まれているのだとしたら……」 レオンが、新たな仮説を口にした。彼の瞳には、再び、研究者の情熱が宿っていた。 「その歪みを、私たちが治すことができれば、魔物の出現を根本から止めることができるかもしれない」 ユイもまた、彼の言葉に希望を見出した。彼女の脳裏には、久遠の昔に竜たちが歌った、世界の調和に関する歌が蘇る。その歌には、世界が歪んだ時に、どのようにしてその調和を取り戻すかという、失われた知恵が隠されているように思えた。

 彼らは、時間喰らいに対抗するため、これまでとは異なるアプローチを試みた。ユイは、竜の言葉を借りて、古文書の中に記された「時を縫い合わせる歌」を探し始めた。それは、時間の流れを一時的に安定させ、歪みを軽減する効果があるという。しかし、その歌は断片的で、まるで久留米の古い方言のように、解読には困難が伴った。彼女は夜な夜な、竜たちの協力を得ながら、失われた歌詞を繋ぎ合わせていく。竜たちの息吹は、冷たい夜の空気の中で、微かな湯気を立て、ユイの頬を優しく撫でた。

 レオンは、ユイの歌の波動を増幅させ、特定の空間に時間安定フィールドを形成する装置の開発に着手した。彼は、これまで使用してきた反響石とは異なる、新しい素材を探し求めた。それは、ダンジョンの最深部でしか手に入らないという、「時の砂」と呼ばれる希少な鉱物だった。工房には、新たな部品を加工する金属音と、鉱石の微かな、しかし独特な土の匂いが混じり合う。彼の体からは、常に金属と汗の匂いが漂い、それが彼の飽くなき探求心を物語っていた。

 そして、ある満月の夜。町に再び「時間喰らい」の魔物が現れた。今回は、以前よりも数が多く、その時間歪曲の影響も、より広範囲に及んでいた。町の広場では、人々がまるでコマ送りのように、あるいは早送りのように、不規則に動き、混乱の極みにあった。

「ユイ、準備はいいか!」 レオンが、完成したばかりの「時空安定装置」を構え、叫んだ。装置からは、淡い金色の光が放たれ、微かな振動音が鳴っている。彼の顔には、これまでの疲労とは違う、研ぎ澄まされた集中力が宿っていた。

 ユイは、竜たちと共に、広場の中央へと駆け出した。彼女は深く息を吸い込み、記憶の奥底から蘇った「時を縫い合わせる歌」を歌い始めた。彼女の声は、広場の混乱を切り裂くように、澄み渡って響き渡る。その歌声は、まるで久留米の夏の夜空に打ち上げられた、一筋の光のように、人々の心を静かに包み込んだ。

 ユイの歌声と、レオンの装置から放たれる時空安定の波動が重なり合い、広場を覆っていた時間の歪みが、まるで水面に投げ込まれた石が波紋を広げるように、ゆっくりと収束していく。時間の流れが正常に戻り、人々は戸惑いながらも、その場に立ち止まることができた。空間には、清らかな空気と、微かな甘い花の香りが漂い、安堵の息が漏れる。

 しかし、時間喰らいの魔物は、時間を操るだけでなく、自らの体を「時間の断片」へと変化させ、物理的な攻撃をすり抜ける能力を持っていた。レオンの装置が安定フィールドを維持する間にも、魔物たちはユイに向かって、時間の断片と化した体をぶつけてくる。その攻撃は、痛みは伴わないが、触れると体の一部が瞬時に老化したかのように、力が抜けていく感覚に襲われた。ユイの肌には、目に見えない無数の時間の断片がまとわりつき、まるで久留米の街をさまよう幽霊のように、彼女の魔力を吸い取っていく。

「くそっ、実体がないのか!」 レオンが歯を食いしばる。彼の装置は、時間の歪みを打ち消すことで手一杯で、攻撃までは手が回らない。彼の額には、脂汗が滲み、指先が微かに震えている。

 ユイは、歌い続けながら、必死に思考を巡らせた。時間喰らいの魔物も、何らかの形で「存在」しているはずだ。ならば、その存在を捕らえる方法があるはず。その時、彼女の脳裏に、かつて竜の古文書に記されていた、「存在の根源を暴く」という一節が蘇った。

「レオン! 装置の波形を、存在の根源、ゼロ点に合わせてみて!」 ユイが叫んだ。その言葉は、ほとんど直感に近いものだった。レオンは、彼女の言葉に一瞬躊躇するが、彼女の瞳に宿る確信の光を見て、迷いなく装置の調整を始めた。彼の指先が、複雑なダイヤルを素早く回していく。機械の駆動音は、これまでにないほど低く、重々しく響き渡る。

 装置から放たれる波動が、時間喰らいの魔物の「存在の根源」へと直撃した。魔物たちは、まるで存在そのものが否定されたかのように、空間の裂け目へと吸い込まれていく。深淵から響く、絶叫とも違う、無音の悲鳴が空間を満たし、最後に、微かな虚無の匂いが漂った。

 魔物が完全に消滅すると、広場には再び、清らかな空気と、安堵の息が満ちた。ユイは、歌い続けていた喉の渇きと、全身の脱力感に襲われる。レオンは、力が抜けたように装置を下ろし、その場に膝をついた。彼の顔は蒼白で、唇は乾いていた。

「ユイ……無事か?」 レオンが、震える声で尋ねた。彼の瞳には、安堵と、そしてユイへの深い心配が入り混じっていた。 「ええ、なんとか……」 ユイは、彼の方へ歩み寄り、その頬にそっと触れた。彼の肌は、冷たく、汗で湿っていた。 「レオンも、無茶しすぎよ」 彼女の言葉に、レオンは力なく微笑んだ。

 その夜、診療所で、二人は温かい薬草茶を飲んでいた。疲労困憊の体だったが、彼らの心には、確かな充実感が満ちていた。 「まさか、時間そのものを操る魔物まで現れるとはな」 レオンが呟いた。彼の声には、驚きと、そして研究者としての興味が混じっていた。 「ええ。でも、レオンがいてくれたから、解決できたわ」 ユイが、彼の顔を見つめた。その瞳には、彼への信頼と、深い愛情が揺らめいていた。

 レオンは、ユイの視線を受け止め、ゆっくりと彼女の手を握りしめた。彼の指先からは、作業で荒れた硬い感触が伝わってくるが、その温かさは、ユイの心を包み込んだ。 「俺もだ。ユイの直感がなければ、あんな解決策には辿り着けなかった」 彼の言葉に、ユイの頬が赤く染まる。二人の間に、これまでにないほど、親密な空気が流れていた。それは、久留米の夜空に輝く月のように、静かで、しかし確かな光を放っていた。恋愛という言葉を、二人が口にすることはまだなかった。しかし、互いの存在が、もはや欠かせないものになっていることを、彼らは肌で感じていた。

 この勝利は、彼らの研究と絆をさらに深めた。魔物の進化は止まらない。ならば、彼らもまた、進化し続けなければならない。

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