第5話
「また、振り出しに戻された……」 ユイが、力なく呟いた。彼女の目の下には、以前よりも深い隈が刻まれている。疲労は限界に達していた。久留米でのOL時代、終電で帰宅し、ソファに倒れこむような日々が思い出される。だが、あの頃と違うのは、この疲労の先に、守るべき人々がいるということだ。
「いいや、違う」 レオンが、設計図から顔を上げ、ユイの目を見据えた。彼の瞳には、燃えるような研究者の魂が宿っていた。 「完全に振り出しに戻ったわけじゃない。少なくとも、俺たちは精神干渉型の魔物に対処できるようになった。この経験は、必ず次へと繋がる」
磁力型魔物の出現は、町に新たな混乱をもたらした。人々は日常の活動すら困難になり、簡単な作業でもすぐに疲労困憊してしまう。電気的な痺れが常に体を蝕み、食欲も減退していく。町を覆うのは、これまでとは違う、重く、淀んだ空気だった。まるで、久留米の梅雨時の湿気のように、全てを鈍重に、そして不快にしていく。
ユイは、竜の力を借りて、患者の体内の魔力循環を促す治療法を模索した。彼女は竜の鱗の粉末を特殊な薬草と混ぜ合わせ、煎じた液体を患者に飲ませた。その液体からは、微かな竜の息吹と、土の匂いが混じり合った、温かい香りが漂う。しかし、その効果は一時的なものに過ぎなかった。魔物の影響が続く限り、症状はすぐに逆戻りしてしまう。竜たちもまた、その磁力の影響で、どこか動きが鈍くなっているように見えた。彼らの吐く息に、いつもより微かな金属の匂いが混じる。
レオンの工房では、新たな機械の開発が急ピッチで進められていた。彼は、ダンジョンから採取した磁力に反応する珍しい鉱石「反響石」を加工し、魔物の磁場を打ち消すための装置を試作していた。しかし、反響石の加工は極めて難しく、少しの熱や衝撃で砕けてしまう。失敗するたびに、金属が砕ける甲高い音と、石英の焼けるような匂いが工房に充満した。彼の指先には、細かな傷が絶えず、睡眠不足からくる震えが止まらない。彼の机の上には、飲みかけの薬草茶と、数日分の食事の残りが放置されていた。
ある日の午後、ウィンドヘイムの商業地区に、特に強力な磁場を発生させる魔物が現れた。その姿は目に見えないが、その影響は明確だった。商店の棚に並べられた金属製品が宙に浮き、通りを行き交う人々の身につけている装飾品が引き寄せられ、衝突して火花を散らす。久留米の商店街で、突然全ての電化製品が暴走したような、異様な光景だった。人々は混乱し、悲鳴が響き渡った。
「ユイ、あれだ!」 レオンが叫んだ。彼の腕には、完成したばかりの「磁場中和装置」が装着されていた。装置の表面からは、淡い青い光が脈動し、微かな電磁波の音が鳴っている。彼の顔には、疲労の色が濃く出ていたが、その瞳は、目標を見据える鷹のように鋭かった。
ユイは、すぐに竜を召喚し、町の人々を守るための結界を張った。竜の鱗から放たれる魔力の光が、町の人々を包み込む。だが、磁力の影響で、結界は常に揺らぎ、完全に人々を守り切ることができない。その時、ユイの口の中に、鉄の味が広がった。魔力を行使しすぎた証拠だった。全身の血が逆流するような感覚に襲われる。
「レオン、お願い!」 ユイの声に、レオンは頷いた。彼は装置の照準を合わせ、目に見えない魔物の中心へ向かって光線を放った。光線は、空間の歪みを通過し、魔物の磁場に直撃する。空間に、金属が擦れ合うような奇妙な音が響き渡り、人々の体にまとわりついていた痺れが、一瞬だけ和らいだ。
しかし、魔物はさらに磁場を強め、町中の金属製品を無差別に引き寄せ始めた。空中で金属片が衝突し、火花が散る。その音は、まるで嵐の中で雷が轟くように、町中に響き渡った。レオンの装置も限界に達し、過負荷を示す赤ランプが点滅し始める。彼の腕からは、機械の熱が服越しに伝わり、皮膚を焼くようだった。
「だめだ……まだ、出力が足りない!」 レオンが歯を食いしばる。彼の表情には、絶望の色が滲んでいた。目の前で苦しむ人々を見ながら、彼は自身の無力さを痛感していた。
その時、ユイの脳裏に、久遠の昔に語り継がれた、竜と人間の共存の歴史に関する古文書の一節が蘇った。「真の磁場を打ち消すには、魂の純粋な響きと、大地の生命力が一つとなるべし」。それは、かつて彼女が解読に苦しんだ、難解な記述だった。
「レオン! 装置の周波数を、もっと低く、大地と共鳴する周波数に合わせてみて!」 ユイが叫んだ。彼女の言葉に、レオンは一瞬、戸惑いの表情を見せたが、すぐに意図を理解した。彼は迅速に装置の設定を調整し、出力周波数を下げていく。機械の駆動音は、徐々に重く、深くなっていく。
ユイは、竜の言葉を借りて、大地の奥底に眠る生命力に語りかけ始めた。彼女の声は、祈りのように、あるいは歌のように、大地に吸い込まれていく。竜たちもまた、ユイの呼びかけに応えるように、その体に宿る魔力を大地へと流し始めた。彼らの鱗が、微かに緑色に輝き、生命の息吹が町全体に広がっていく。
レオンの装置から放たれる波動と、大地から湧き上がる生命力、そしてユイの竜の歌が一つに重なり合った瞬間、町全体を覆っていた磁場が、まるで堰を切ったかのように霧散した。空間に、清らかな鈴の音が響き渡り、人々の体にまとわりついていた痺れが完全に消え去った。宙に浮いていた金属製品が、カラン、コロンと音を立てて地面に落ちる。町に、安堵の息と、かすかな歓声が響き渡った。
「やった……!」 ユイが、喜びの声を漏らした。彼女の顔には、疲労の色は残っていたが、その瞳は、勝利の光に満ちていた。 レオンは、力が抜けたように装置を下ろし、ユイの方を振り向いた。彼の顔には、安堵と、そして今まで見たことのないような、柔らかな微笑みが浮かんでいた。 「まさか、大地の生命力と共鳴させるとは……。ユイ、君の発想には、いつも驚かされる」 彼の言葉には、心からの賛辞と、深い尊敬が込められていた。彼の視線が、ユイの瞳に絡みつく。互いの顔が、ほんの少しだけ近づく。その距離は、まるで久留米の星空の下、二つの星が静かに瞬き合っているようだった。
その夜、診療所に戻った二人の間に、これまでにない穏やかな空気が流れていた。レオンは、ユイのために温かいスープを作っていた。香ばしい野菜と、肉の匂いが診療所を満たす。ユイは、それを口に運びながら、心から安らいでいるのを感じた。
「あの時、本当に怖かった……」 ユイが、ぽつりと呟いた。彼女の脳裏には、少女が希望を失い、森へと向かっていた時の光景が蘇る。 「ああ。俺もだ」 レオンが静かに答えた。彼の声には、戦闘中の緊迫感とは違う、人間的な弱さが滲んでいた。 「でも、レオンがいてくれたから、諦めずに済んだ」 ユイが、彼の顔を見上げた。その瞳には、感謝と、そしてそれ以上の、深い感情が揺らめいていた。 レオンは、ユイの視線を受け止め、ゆっくりと、しかし確実に、彼女の頬に触れた。彼の指先は、作業で荒れていたが、その触れる感覚は、温かく、柔らかかった。ユイの心臓が、トクンと音を立てる。まるで、久留米の春の風が、桜の花びらを優しく撫でるような、繊細な触れ合いだった。
「ユイ……」 レオンの声が、吐息のように彼女の耳元で囁かれる。その声は、これまで聞いたことのないほど優しく、そして切なかった。 互いの顔が、さらに近づく。静かな夜に、二人の呼吸だけが響き渡る。その瞬間、ウィンドヘイムの町を覆っていた重苦しい霧が、まるで魔法のように晴れ渡り、満点の星空が広がった。久留米の夜空よりも、遥かに多くの星が瞬いていた。その星の一つ一つが、二人の間に芽生え始めた、新たな感情を祝福しているかのようだった。
しかし、彼らの穏やかな時間は長くは続かなかった。翌日、ダンジョンから現れたのは、これまでの魔物とは一線を画す、新たな脅威だった。それは、「時間喰らい」――あらゆる生命の時間感覚を狂わせ、周囲の時間を歪める魔物だった。町の時計は狂い、人々の動きは不規則になった。ある者は異常に速く動き出し、ある者はまるでスローモーションのように動きが鈍くなる。町の広場では、時間がバラバラに流れることで、人々が互いに衝突し、混乱が広がっていた。空間には、時間が歪むことで生じる、奇妙な摩擦音と、甘く腐敗したような匂いが漂っていた。まるで、久留米の時計台の時間が、一斉に狂ってしまったかのようだった。
ユイは、患者の治療にあたろうとするが、時間感覚が狂うことで、適切な処置ができない。薬を調合するにも、薬草をすり潰す速度が安定しない。竜たちも、時間の歪みに苦しめられ、その動きがぎこちなくなっていた。彼らの体から放たれる魔力の波動が、不規則に乱れる。
レオンは、時間喰らいの魔物の解析に乗り出すが、その時間歪曲のメカニズムは複雑で、これまでの物理法則が通用しない。「これは……時間そのものを操っている。俺の知る科学では、説明できない……」彼の顔には、これまで以上の困惑と、深い絶望が滲んでいた。工房の機械は、時間の歪みの影響を受け、不規則な音を立てていた。測定器の針は、まるで狂ったように揺れ動き、正確な数値を読み取ることができない。彼の指先は、もはや細かな作業ができないほどに震えていた。
「もう……限界かもしれない」 ユイが、レオンの隣で力なく呟いた。彼女の瞳には、久留米に降る、冷たい雨のような悲しみが宿っていた。これまでの戦いで、彼女の精神力はすり減り、希望の光が見えなくなりつつあった。
レオンは、その言葉に何も答えず、ただ静かにユイの肩を抱き寄せた。彼の腕の温もりが、ユイの震える体を包み込む。彼の体から伝わる、油と埃の混じり合った匂いが、ユイの心に微かな安堵をもたらした。彼らの間に流れる時間は、歪んだ町の時間とは異なり、ゆっくりと、しかし確かに流れていた。
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