第2話
診療士として、ユイは町の隅々まで駆け回り、人々や竜たちの治療に奔走した 。それはまるで、久留米の夏の祭りで、屋台から屋台へと駆け巡る子どものようだった 。熱に魘される幼子の額に冷たい布を当て、腕を骨折した老人の腕を丁寧に固定する 。その中で、彼女はウィンドヘイムが抱える、深く、そして陰鬱な問題を肌で感じていた 。魔物の脅威は、単に物理的な被害をもたらすだけでなく、人々の心の奥底にも、冷たい泥のように深い影を落としているのだ 。
ある日のこと、ユイが訪れた家の老婆は、青白い顔で震えながら語った 。その声は、長い冬の夜の風のように、か細く、しかし確かに響いた 。「昨夜も、幻影が出たんだよ。亡くなった息子が、『母さん、もうだめだ』って。あの魔物どもは、人の心につけこんでくるんだ。ああ、神よ、いつまでこの苦しみが続くのか……」 。その声には、深い疲弊と、未来への諦めが、黒く澱のように沈殿していた 。町の復旧作業では、この世界独特の、石と木を組み合わせた頑強な建築技術が用いられていたが、それでも追いつかないほどの被害が続いていた 。破壊された家屋から漂う焦げ臭い匂いと、微かに残る土埃が、町の傷跡を物語っていた 。
そんな中、レオンはダンジョンから持ち帰られた珍しい素材の鑑定や加工のために、ユイの診療所を訪れるようになった 。彼の足音は、いつも静かで、まるで地面に吸い込まれるかのようだった 。最初、二人の会話は業務的なものだけだった 。素材の性質、魔物の生態、そして竜の病について 。だが、竜の鱗に付着した奇妙な胞子について意見を交わした際、レオンはユイの緻密な観察眼と、竜の生態に対する深い理解に感銘を受けたようだった 。彼の瞳の奥に、ほんの微かだが、興味の光が宿るのをユイは感じ取った 。
ユイもまた、彼の錬金術に対する真摯な姿勢と、膨大な知識に触れ、少しずつ彼への警戒心を解いていった 。言葉は少なくても、彼の瞳の奥に宿る、研究者としての情熱と、人知れぬ悲しみが、ユイの心に静かに響いた 。それは、久留米の夜空に瞬く星々のように、遠くても確かな光を放っている 。彼の工房に置かれた奇妙な機械は、単なる道具ではなく、彼の内なる世界を映し出す鏡のようにも思えた 。人知れず、彼が機械に語りかけているかのような錯覚さえ覚えることもあった 。町の人々が普段使っている、魔力で動く簡易な調理器具や、水の汲み上げポンプとは、まるで異なる、異質な存在感を放っていたのだ 。それらの機械は人々の生活を便利にしていたが、どこか依存的で、時には動かなくなった時の不便さが、生活を大きく揺るがすこともあった 。レオンの機械は、そんな日常の機械とは一線を画していた 。
ある日の夕暮れ時、診療所の戸締りをしていたユイに、レオンがぽつりと語り始めた 。彼の声は、乾いた風のように寂しく、しかし確かな質量を持っていた 。それは、ウィンドヘイムを吹き抜ける風の音にも似て、どこか心に沁み入る響きがあった 。
「俺は……ダンジョンの深部で、大切な人を失った」 。
その言葉に、ユイの心臓が小さく跳ねた 。彼の寡黙さ、そしてあの奇妙な機械の数々 。全てが、その一言に繋がっているようだった 。彼は、ダンジョンから持ち帰る素材で、失われた者を取り戻そうとしているのか、それとも、二度と誰かを失わないための力を求めているのか 。彼の脳裏には、幼い頃、父に言われた言葉が蘇る 。雨上がりの庭で、泥だらけになった手で何かを修繕しながら、父は静かに、しかし確かな眼差しで彼を見つめて言ったのだ 。「レオン、お前がいれば、家は大丈夫だ」 。その言葉は、彼にとって呪縛であり、同時に、彼を突き動かす原動力でもあったのだ 。彼の行動の全てが、その一言から派生しているかのように見えた 。
レオンは、特にダンジョンの奥深くでしか手に入らない希少な鉱石や、特殊な魔草を求めていた 。ある日、彼は町の素材屋「地の恵み亭」に立ち寄った 。店の主人は、恰幅の良い中年男性で、いつも陽気な声で客を迎えるゴードンだ 。
「よお、レオン。また変なもん探しに来たのかい?」ゴードンが、壁に吊るされた乾燥ハーブの束を指しながら笑った 。ハーブの甘く土っぽい匂いが店内に満ちている 。レオンは言葉少なく、手元のメモを差し出した 。そこには、ダンジョン深層にしか生息しない「夜光苔」の学名が記されていた 。ゴードンはメモを覗き込み、一瞬、顔から笑みが消えた 。「夜光苔か……それは、先週冒険者組合の連中も探してたが、見つからなかったそうだ。ダンジョンのあの辺りは、最近特に魔物の動きが活発でな。息子が何度か探索に行ったが、すぐに引き返してきたよ。あいつ、最近めっきり気弱になっちまって……」ゴードンは語尾を濁し、遠い目をした 。彼の息子、若い冒険者のカイは、最近の魔物の被害で仲間を失って以来、ダンジョンへ向かうことに恐怖を感じていた 。その度に、ゴードンはカイの背中を見送るたびに、胸の奥でひっそりと息を殺す音が聞こえるようだった 。レオンは、ゴードンの言葉にただ耳を傾け、静かに頷いた 。彼の瞳の奥には、ゴードンと同じ、大切な者を失うことへの理解と、それでも前に進まねばならないという、密やかな決意が宿っているようだった 。店の中には、古くなった木の香りと、乾燥した肉の匂いが混じり合い、人々の生活の営みを象徴しているかのようだった 。
また別の日、ユイが診療所から一歩外に出ると、頬を撫でる風が、遠く森の奥から漂う、微かな甘い樹液の匂いを運んできた 。それは、このウィンドヘイム特有の「風樹」の香りだった 。町の人々は、その樹液を加工して、魔物除けの香炉として使っていた 。だが、最近は魔物の活動が活発になり、香炉の効果も薄れてきていると住民が嘆いていた 。ユイは、風に乗って運ばれるその香りに、どこかこの町の抱える静かな悲しみを感じ取った 。日中にもかかわらず、霧が立ち込める森の端からは、時折、魔物の不気味な遠吠えが聞こえ、町全体に常に緊張感と諦めが漂っていた 。
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