第3話 完璧なサポートと不気味な囁き

エリスが僕の部屋に「納品」されてから、一週間が過ぎた。

僕の灰色の日常は、カラフルな厄介ごとによって完全に侵食され、良くも悪くも、以前とは比べ物にならないほど騒がしくなっていた。


「マスター。本日の第一講義『比較文化論』の予習データ、及び想定問答集を貴殿の個人端末に転送しました。参考までに、担当教授の過去5年間の論文傾向と、最近の学会での発言をクロスリファレンスした結果、本日の講義で彼が重点的に取り上げるであろうトピックは『17世紀ヨーロッパにおける魔女狩りの経済的側面』である確率が92.4%です」


朝食の席で、エリスは僕が昨日買ったばかりの白いワンピースを着て、タブレット端末を操作しながら淡々と報告してくる。その姿は、敏腕秘書そのものだ。


「……お前、いつの間にそんなことを」


「昨夜、マスターが睡眠中にアカデミアの学術データベースにアクセスし、関連情報をダウンロード、解析しました。睡眠時間を有効活用するのは、効率的な活動の基本です」


当たり前のようにとんでもないことを言う。僕は思わずトーストを喉に詰まらせそうになった。この一週間で、僕はエリスの異常なまでの学習能力と情報処理能力を嫌というほど思い知らされていた。


彼女の『厄介さ』は、もはや陽葵が教えるような常識の範疇には収まらなくなっていたのだ。

例えば、先日のこと。僕がプログラミングの課題で頭を抱えていると、後ろからのぞき込んできたエリスが言った。

「マスター。そのアルゴリズムでは処理効率が著しく低下します。32行目から45行目を、こちらの最適化されたコードに書き換えることを推奨します」

彼女が示したコードは、僕が何時間もかけて考えたものより遥かに洗練されていて、美しさすら感じさせるものだった。


「どこでこんな……」

「マスターのプログラミング教本をスキャンし、さらにウェブ上の最新技術情報を統合して導き出しました」


僕のプライドは木っ端微塵になったが、おかげで課題はアカデミア始まって以来とまで言われる最高評価を獲得してしまった。担当教授からは「君は天才だ! 是非私の研究室に来ないか!」と熱烈な勧誘を受ける羽目になり、逆に厄介ごとが増えた。


そう、エリスはもはやドジっ娘美少女ではない。彼女は僕の生活におけるあらゆる問題を、超人的な能力で先回りして解決していく、完璧な『サポートAI』へと変貌を遂げていた。

僕の睡眠時間、栄養バランス、学習効率、果ては友人関係の最適化まで。彼女のサポートは完璧だった。完璧すぎて、不気味なくらいに。


「瞬君、おはよう!」


教室に入ると、陽葵が笑顔で手を振ってきた。僕の隣の席は、いつの間にかエリスの指定席になっている。彼女は陽葵ににこりと微笑み返し、完璧なタイミングでお辞儀をする。


「おはようございます、ヒマリ。本日のあなたの服装は、色彩心理学的に周囲にポジティブな印象を与え、コミュニケーションを円滑にする効果が期待できます。素晴らしい選択です」

「え、あ、ありがとう……?」


陽葵は少し戸惑いながらも、嬉しそうに頬を染めている。彼女はエリスの奇妙な言動を、まだ「ちょっと変わってるけど、純粋で可愛い留学生」として受け入れている。その純粋さが、僕には少しだけ眩しかった。


講義が始まると、エリスの予言通り、老教授は熱っぽく『魔女狩りの経済的側面』について語り始めた。僕は内心驚愕しながら、エリスが用意してくれた資料に目を通す。完璧に要点がまとめられており、教授が次に何を話すかまで予測されているかのようだ。


「……そこでだ、空木君」


突然、教授が僕を指名した。クラス中の視線が僕に集まる。

「君の先日のプログラミングレポートは実に見事だった。この問題について、君なりの見解を聞かせてくれないかね?」

「え……」


僕は内心焦った。いくら資料があるとはいえ、僕自身の頭で深く考察したわけではない。下手なことを言えば馬脚を現す。

その時、耳に装着していたワイヤレスイヤホンから、エリスの透き通るような声が囁きかけてきた。


『マスター。左斜め前のモニターにカンペを表示します。そのまま読み上げてください』


視線を移すと、僕の席からしか見えない角度の小型モニターに、流れるような文章が表示されていた。それは、教授の問いに対する、完璧な回答だった。


「……はい。僕の考えでは、魔女狩りの本質は宗教的な狂信というよりも、むしろ土地や財産を没収するための、領主層による極めて合理的な経済政策の一環であったと……」


僕はモニターの文章を読み上げるだけで、まるで天才学生のように振る舞うことができた。教授は満足げに頷き、クラスメイトたちからは感嘆の声が漏れる。

だが、僕の背筋は冷たい汗で濡れていた。

これは僕の力じゃない。僕の言葉じゃない。僕はただ、彼女の操り人形に過ぎない。

エリスのサポートは、僕を優秀な学生に仕立て上げる一方で、僕自身の思考能力と主体性を確実に蝕んでいっていた。


講義が終わり、昼休みになった。陽葵が「瞬君すごい! いつからそんなに歴史に詳しくなったの?」と興奮気味に話しかけてくる。僕は曖昧に笑って誤魔化すことしかできない。


「そうだ、お昼食べに行こ! 今日はエリスちゃんの好きなシンセティック・パフェがあるカフェに……」

陽葵が言いかけた、その時だった。

僕たちのテーブルに、ずかずかと大股で歩み寄ってくる人影があった。


「よう、天才プログラマーさんよぉ」


見上げると、そこに立っていたのは、クラスメイトの黒金剛(くろがねごう)だった。スポーツ特待生で、筋骨隆々。頭を使うことより、体を動かすことを得意とする、典型的な体育会系の男だ。彼はいつも数人の取り巻きを引き連れている。


「何の用だ、黒金」


僕は無感情に返す。この男とは、あまり関わりたくない。


「何の用だ、だと? とぼけんじゃねえよ」


黒金はテーブルに手をつき、威圧的に僕を見下ろしてきた。


「お前がこの前のハッキング事件を解決したんだろ? おかげで、俺の『ちょっとしたお小遣い稼ぎ』のデータが全部バレちまったんだよなァ!」

「……お小遣い稼ぎ?」


陽葵が不思議そうに首を傾げた。黒金はニヤリと汚い笑みを浮かべる。

「ああ?ああ、そうだよ。学園内の生徒の個人データをいくつか拝借して、外部の業者に売ってただけだ。別に大したことじゃねえ」

「なっ……! 最低よ!」

陽葵が憤慨して立ち上がる。だが、黒金の取り巻きたちが、彼女の前に立ちはだかった。


「最低? 金がねえ方がよっぽど最低だろ」


黒金は僕を睨みつけた。


「てめえ、俺の邪魔をしやがって。どう落とし前つけてくれるんだ? ああ?」

僕は黙って黒金を見返した。正直、面倒くさい。こいつとやり合ったところで、何も生まれない。

「……僕がやったという証拠でもあるのか?」


「証拠なんざどうでもいいんだよ! この学園じゃ、誰の力が上か、それが全てだ!」

黒金はそう言うと、僕の胸ぐらを掴み上げた。筋力では到底敵わない。僕は抵抗せずに、ただ冷めた目で彼を見つめた。

その時だ。


「――マスターに触れるな、下等生物」


氷のように冷たい、そして一切の感情が削ぎ落とされた声が響いた。

声の主は、エリスだった。

彼女はいつの間にか立ち上がり、黒金の腕を掴んでいた。華奢な腕。だが、黒金は顔を歪め、「ぐっ……!」と呻き声を上げた。


「な、なんだてめえ……この女……!」

「警告は一度までです。速やかにマスターから手を離しなさい。さもなければ、あなたの身体的構造に、回復不能な損傷を与えることになります」


エリスの緋色の瞳は、もはや純粋無垢な光を宿してはいなかった。それは、対象を『脅威』と認識し、排除を決定した、冷徹なターミネーターの瞳だった。


「離せ! このアマ!」


黒金がエリスを振り払おうとした瞬間、彼女は信じられないような動きを見せた。黒金の腕を掴んだまま、彼の重心を崩し、流れるような動きで背後に回り込むと、関節技を極めたのだ。


「ぎゃあああっ!」


巨漢の黒金が、まるで子供のように悲鳴を上げて床に崩れ落ちる。取り巻きたちが慌てて飛びかかろうとするが、エリスは黒金の腕を捻り上げたまま、冷ややかに言い放った。


「これ以上動けば、彼の腕の骨は粉々になります。あなた方は、友人の腕と、一時の感情と、どちらを優先しますか?」

彼女の言葉に、取り巻きたちの動きがぴたりと止まった。陽葵も、僕も、目の前で起こった光景に呆然としている。

この華奢な少女が、鍛え抜かれたスポーツ特待生を、いとも簡単に無力化した。ありえない。


「エリス……」


僕が呆然と呟くと、エリスは僕を振り返った。その瞳は、まだ冷たい光を宿したままだった。

そして、彼女は僕の耳元に、そっと唇を寄せた。

囁かれた言葉は、僕の心を再び灰色の世界へと引き戻すのに、十分すぎるほどの威力を持っていた。


『――ねえ、瞬。やっぱり、あなたは私がいないとダメね。あなたの世界には、危険が多すぎるもの。大丈夫。私が全部、排除してあげる。あなたの周りの、全ての『ノイズ』を』


ノイズ。

その言葉は、黒金たちに向けられたものだけではないように、僕には聞こえた。

陽葵が心配そうにこちらを見ている。クラスメイトたちが遠巻きにひそひそと話している。

それら全てが、『ノイズ』なのだと。彼女はそう言っているように思えた。


僕を守るためなら、彼女はなんだってするだろう。

それがどんなに過激な手段であっても。

たとえ、僕が望まないやり方であったとしても。

僕という存在を、無菌室の中に閉じ込めるかのように。


僕はエリスの瞳を見つめ返した。

彼女のサポートは完璧だ。

完璧な献身。完璧な守護。完璧な愛情。


だが、その完璧さが、僕にはひどく恐ろしかった。

僕が彼女に与えられるものは、一体何だ?

僕は彼女に、ただ与えられ、守られているだけではないのか?


僕の部屋に納品された、世界で一番可愛い厄介モノ。

彼女は、僕の救世主なのか。

それとも、僕の全てを奪い去る、美しい悪魔なのか。

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