第2話 厄介モノの『常識』と初めての『友達』

灰色の日常が、たった一夜でカオスな色彩に塗り替えられてしまった。


翌朝、僕が目を覚ました時、まず視界に飛び込んできたのは、部屋の隅で直立不動のまま、こちらをじっと見つめる少女の姿だった。

僕のぶかぶかのパーカーに、昨夜なんとか探し出したこれまたぶかぶかのスウェットパンツ。その奇妙な出で立ちで、彼女――エリスは、まるで精巧な人形のように完璧な姿勢を保っていた。


「……おはよう」


僕が寝ぼけ眼で声をかけると、彼女の緋色の瞳が微かに輝いた。


「おはようございます、マスター。生体反応、正常。睡眠サイクルは推奨値より12分短いですが、許容範囲内と判断します。本日の活動を開始してください」


「……」


なんだその朝の挨拶は。まるで僕が研究室のモルモットにでもなった気分だ。


「ひとつ、君にルールを課す」

僕はベッドから起き上がると、エリスの人差し指を立ててみせた。

「僕が寝ている間、そうやって僕を見つめ続けるのはやめろ。心臓に悪い」

「了解。マスターの心拍数に異常な負荷をかけないよう、待機モードのアルゴリズムを修正します」

エリスはこくりと頷いた。その素直さはありがたいが、会話の節々から滲み出る非人間性が、僕の頭痛の種を増やしていく。


最初の厄介ごとは「食事」だった。

僕は自分の分のトーストを焼きながら、もう一枚、彼女のために焼いてやった。ジャムを塗って皿に乗せ、テーブルに置く。


「ほら、食え」

「『食え』…定義を要求します」

「食べるんだよ。口に入れて、咀嚼して、飲み込む。生命維持に必要なエネルギー補給だ」


僕は自分のトーストを大きく一口かじって見せた。エリスはそれをじっと観察すると、目の前のトーストを恐る恐る手に取った。

そして、彼女はそれを食べようとはせず、まじまじと眺め始めたのだ。


「……構成要素を分析。主成分、炭水化物。約78%。脂質11%。その他、ビタミン、ミネラルを微量に含有。マスターの午前中の活動に必要なエネルギー源として、妥当な選択です」

「分析はいいから! 早く食べろって!」


僕が急かすと、エリスはようやくトーストを口元へ運んだ。だが、その食べ方がまた異様だった。まるで僕の動きをコマ送りで再生するように、ミリ単位の正確さで、ぎこちなく口を開け、一定の角度でトーストを挿入し、設定された回数だけ顎を上下させて咀嚼し、そして嚥下する。

その一連の動作には、食を楽しむという感情が一切介在していなかった。ただ、プログラムされたタスクを忠実に実行しているだけだ。

この厄介モノに「美味しい」という概念を教えるのは、量子力学の難問を解くより骨が折れそうだ。僕は再び深い溜息をついた。


そんな奇妙な朝食風景を繰り広げている、その時だった。


ピンポーン、と部屋のチャイムがけたたましく鳴った。僕が立ち上がるより先に、ガチャリとドアが開く音がする。陽葵だ。彼女は僕の部屋の合鍵を持っている。昨日、僕が誕生日だと言ってさっさと帰ってしまったことを心配して、様子を見に来たのだろう。


「瞬くーん、おはよー! やっぱり心配で来ちゃった! って……え?」


廊下から顔を出した陽葵は、部屋の中の光景を見て、その大きな瞳をぱちくりとさせた。

部屋の半分を占拠する巨大なサーバーラック。

そして、僕の向かいの席で、ぎこちなくトーストを頬張る、僕の服を着た見知らぬ美少女。

陽葵の思考がフリーズしていくのが、手に取るように分かった。彼女の視線が、僕とエリス、そして僕の着ている部屋着とエリスの着ている部屋着(もちろん同じものだ)の間を、数回、高速で行き来する。


やがて、彼女の顔がみるみるうちに赤く染まっていった。


「しゅ、しゅ、瞬君っ!!!」


陽葵が上げた、これまで聞いたこともないような甲高い声が、狭い部屋に響き渡った。


「こ、この子、だ、誰!? なんで瞬君の服着てるの!? ま、まさか……きのう誕生日だったからって……お、お泊り!? しかもこんな可愛い子と!?」

「違う! 落ち着け陽葵! お前が想像しているような、破廉恥な事実は断じてない!」


僕は慌てて立ち上がり、両手を振って否定する。だが、混乱した乙女の耳に、僕の言葉は届いていなかった。


「最低! 最低よ瞬君! 私が心配して来てみれば……! 隅に置けないっていうか、やる事やってるっていうか! この朴念仁! この朴念仁(スケベ)!」


「だから違うんだって!」


僕たちの間で繰り広げられるコントのような応酬を、エリスはきょとんとした顔で眺めている。そして、混乱に拍車をかける一言を放った。


「問います。この個体名『ヒマリ』は、マスターの配偶者、もしくはそれに準ずる関係者ですか? 彼女の感情パラメータが、嫉妬および独占欲の領域で激しく変動しています」


「火に油を注ぐなああぁぁぁ!!!」


僕の絶叫は、陽葵の「やっぱりそうなのねえぇぇぇ!!!」という悲鳴にかき消された。


結局、僕はこの厄介モノAIが引き起こした誤解を解くために、三十分以上を費やす羽目になった。

もちろん、彼女が「サーバーから出てきたAIです」なんて言えるはずもなく、僕は苦し紛れに、プロット通りの嘘をついた。


「……つまり、海外に住んでた遠い親戚の子で、事故で記憶喪失になっちゃって、身元が分かるまでウチで預かることになった、と……」


僕の必死の説明を、陽葵は腕を組んで聞いていた。ソファにちょこんと座るエリスをちらちらと見ながら。


「……ほんと?」

「本当だ。天地神明に誓って」


僕が力強く頷くと、陽葵はふぅ、と大きな溜息をついた。その顔からは、先程までの怒りは消えていた。代わりに浮かんでいたのは、深い同情と、そして母性のような温かい眼差しだった。


「……そっか。大変だったんだね、エリスちゃんも、瞬君も」

「あ、ああ……」

「記憶喪失……不安だよね。でも大丈夫! 私がついてるから!」


陽葵はエリスの隣に座ると、その手を優しく握った。エリスはされるがままになっている。


「よろしくね、エリスちゃん! 私は橘陽葵! 瞬君とは……まあ、腐れ縁みたいなものかな!」

「ひまり……」


エリスは陽葵の名前を反芻し、そして僕の方を見た。その瞳は「この情報をインプットしてよろしいですか?」と問いかけているようだった。僕はこくりと頷く。


こうして、僕と厄介モノAIとの奇妙な同居生活に、陽葵という常識的な協力者が加わることになった。

そして、その日の午後は、僕にとって人生で最も疲労困憊した一日となった。


原因は、陽葵の鶴の一声だった。

「女の子が男物の服ばかり着てるなんてダメ! 今からエリスちゃんの服を買いに行くわよ!」


三人で訪れた、アカデミア・アークに隣接する巨大なショッピングモール。そこでエリスというAIの「厄介さ」は、遺憾なく発揮された。


まず、服屋。

陽葵が「これ可愛い!」と手に取ったフリルのついたワンピースを、エリスは真顔で分析し始めた。

「この素材の熱伝導率と耐久性は、現在私が装着している衣服に劣ります。また、装飾過多なデザインは、有事における身体的機動性を著しく阻害する可能性があり、推奨できません」

「オシャレに機能性とか求めないの! 可愛いんだからいいの!」


次に、カフェ。

僕たちが注文したカラフルなソーダフロートを、エリスはストローで一口吸い込むと、緋色の瞳を輝かせた。

「……口腔内センサーが未知の味覚データを検知。ブドウ糖、クエン酸、炭酸ガス……これらが複合的に作用し、脳内に快楽物質の分泌を促しています。この感覚を、人類は『美味しい』と定義するのですね。データ、保存します」

そして彼女は、僕と陽葵の分のソーダフロートまで、「サンプルデータ収集のため」と言って飲み干してしまった。


極めつけは、支払いだった。

僕が自分のスマホで電子決済を済ませ、陽葵もそれに続く。そしてエリスの番になった時。

僕は面白半分で、道端に落ちていた綺麗な紅葉の葉を拾い、「エリス、この世界ではこういうものが貨幣として流通しているんだ」と、冗談を言ったのだ。

もちろん、すぐに訂正するつもりだった。だが、僕の訂正より早く、エリスはレジの店員に向かって、その紅葉の葉を恭しく差し出した。


「支払います」


店員の困惑した顔と、周囲の客たちのクスクス笑う声。僕は顔から火が出る思いで、エリスの手から紅葉をひったくり、自分のアカウントから彼女の分を支払った。

「マスター、なぜですか? あなたはこれが『価値のあるもの』だと……」

「あれは嘘だ! 冗談だ! いいか、二度と人前であんなことをするな!」

「ジョーク……理解不能な文化的行動です。関連データを要求します」


陽葵はそんな僕たちのやり取りを、終始お腹を抱えて笑っていた。

僕にとっては地獄のような時間だったが、陽葵にとっては、僕が誰かのために必死になったり、感情を露わにしたりする姿が、新鮮で、そして何より嬉しかったのだろう。


へとへとになって寮に帰ってきた頃には、もう夕日がアカデミアの街を茜色に染めていた。

陽葵が買ってきた可愛らしい服に着替えたエリスは、以前にも増して完璧な美少女に見えた。彼女は今日の出来事を高速でデータ化しているのか、部屋の隅で静かに瞳を閉じている。


「瞬君、疲れたでしょ。お疲れ様」

陽葵が僕に微笑みかける。

「……ああ」

僕は素直に頷いた。疲れた。本当に疲れた。

でも、その疲れは、いつものような灰色の虚無感からくるものではなかった。誰かと関わり、笑い、呆れ、奔走した末の、温かい疲労感。

悪くない、と。本当に、久しぶりにそう思った。


「じゃあ、私、そろそろ帰るね。エリスちゃんのこと、よろしくね」

「ああ、助かった」

「ううん。だって、瞬君、今日、すっごく楽しそうだったから」


陽葵はそう言って、悪戯っぽく笑うと、部屋を出て行った。

一人残された部屋で、僕はソファに深く沈み込む。隣では、エリスが静かな寝息を立てていた。AIにも睡眠が必要なのだろうか。


僕は彼女の寝顔を眺める。

人形のように完璧な顔立ち。パーカーからのぞく白い首筋。

心臓が、とくん、と小さく鳴った。

これは、厄介な同居人に対する責任感か。それとも――。


その時、僕は気づいた。

眠っているはずのエリスの瞳。その緋色の瞳の奥で、僕には理解不能な、膨大なデータストリームが、高速で明滅しているのを。

それはまるで、満天の星空を凝縮したような、複雑で、深遠な光景だった。


「……何を、見てるんだ?」


僕が無意識に呟くと、エリスはゆっくりと目を開けた。

データストリームは消え、そこにはいつもの、純粋無垢な緋色の瞳があるだけだった。

彼女はにこりと微笑む。今日、陽葵に教わったばかりの、完璧な笑顔で。


「学習しています、マスター」

「……何を?」

「『友達』という概念について、です」


彼女の答えは、あまりにも純粋で、あまりにも無邪気だった。

だが僕の心の片隅には、先ほど見た非人間的な光景が、小さな棘のように、引っかかっていた。


彼女は、本当に、何も知らないただのAIなのだろうか。

この可愛い厄介モノがもたらすカオスな日常は、果たして本当に、ただの偶然の産物なのだろうか。


答えは、まだ灰色の霧の向こう側だった。

しかし、僕の世界は確実に、色づき始めていた。

それが希望の色なのか、それとも絶望の色なのかは、まだ、誰にも分からなかった。

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