第5話 付与の対価と最初の夜
魔力によって刻み込まれた術式は、刻んでいる瞬間だけうっすらと光り、すぐに素材に馴染んで見えなくなる。オーレリアはしっかりと付与されていることを確認したあと、フライパンの取っ手を布で包んで樽の底に置いた。
「このフライパンは素手で触ると冷たすぎて指を怪我するかもしれませんし、触れた食材が凍って張り付く可能性もあるので、フライパンの上に板か厚めに布を被せておいたほうがいいです。あとは樽の蓋をすれば、普通に冷えると思います」
樽全体への付与ではなく底のフライパンが冷えているので、下に置かれたものほどよく冷えて凍り付き、上の食材は程よく冷蔵状態になるはずだと説明すると、スーザンはぱっと表情を明るくした。
「ああ、もうひんやりしてるね!」
冷気は本来上から下に下がっていくので、冷却源は一番上に置いてその下に食材を置く方が効率は良いだろうけれど、元が樽なのでこればかりは仕方がない。
「あとは、使っているうちに底の方に霜が張ってくると思うので、たまにフライパンを取り出して霜を溶かしてください。金属は比較的付与が抜けにくいので、これで十年は使えると思います」
「そんなにかい!? いやあ、すごいもんだねぇ、明日から買い出しがすごく助かるよ!」
付与の対象が魔石ならば二十年は普通に使えるだろうけれど、錆びついたフライパンではそれくらいが限界である。
それでも、こんなに喜んでもらえるなら誇らしいことだ。
「あんた、すごい付与術師じゃないか! お礼に一ケ月くらいここに住みな! 食事も出すからさ!」
「えっ、そんな、申し訳ないです」
「温」と「冷」の付与は、オーレリアがこれまで散々やってきたものだ。一度付与したくらいで一ケ月も食と住居を提供してもらうのは、いわゆるぼったくりではないかと気が引ける。
だがスーザンは、遠慮したオーレリアにあっはっはと笑って、背中を軽く叩いた。
「とりあえずお茶でも淹れようか。今日はもう客はこないだろうからさ」
いつの間にか食堂にいた少ない客も部屋に戻ったらしく、スーザンはてきぱきと残された食器を片付け、テーブルを拭くとお茶を淹れてくれた。
華やかな香りのするお茶で、蜂蜜を入れてあるのだろう、ほんのりと甘い。カウンターではなくテーブルで、スーザンと向かい合ってしばし甘くていい香りのするお茶を堪能していると、改まってスーザンはあのね、と言った。
「飲食店に保冷樽があるのとないのとでは、その日の仕入れの量も出せる食事の種類も変わってくるんだよ。これから夏は本番だし、肉や魚はどうしたって足が早い。その日出るかどうかわからない量を買うことはできないだろう? 数日分の仕入れを一日でできればその分原価が安くなるし、真夏でも注文が入っただけのフィッシュアンドチップスを出せれば、エールの売れ行きもよくなる。こっちは儲けしかないんだよ」
その説明は、確かに理解できる。
一度にたくさん仕入れができれば単価は下がるけれど、二十五人ほどが入ればいっぱいの食堂は、ピーク時にどれだけ繁盛していても一日の利用客としては百人いるかどうかだろう。大量に仕入れをするのは難しいはずだ。
夕飯がシチューだったのも大鍋で作れて生鮮食品より傷みにくいという理由だろうし、生肉や生魚だけでなく、ハムや乳製品なども、冷える場所で保存したほうが食中毒などのリスクを下げることができる。
「それにね、保存樽は新しく買おうとすると金貨一枚以上するのもザラなのさ。あんたに一ケ月いてもらっても、うちに損はないんだよ」
「保存樽って、そんなにするんですか」
金貨一枚は、前世の感覚だと大体二十万前後だ。宿代が半銀貨一枚、つまり五千円程度といえる。
食事が半銅貨一枚、五百円程度なので、朝と晩出してもらえるなら、金貨一枚にはぎりぎり届かないくらいの金額になる。
とはいえ、オーレリアは中古の保冷樽を直した形だ。つまり樽の原価はかかっていないし、今のオーレリアはどこかの商会に勤めているわけでも、紹介人を挟んでいるわけでもない、野良の付与術師である。
適当な仕事をして明日には冷えなくなっている可能性だってゼロじゃない。スーザンにもそれは分かっているだろう。
――多分、私が気を遣わないように、わざとそう言ってくれたのよね。
この申し出は、初対面の宿泊客であるにも関わらず、娼館にいくならやめておけと言ってくれた親切心の延長にあると感じる。
保冷樽の謝礼代わりというのも嘘ではないのだろうけれど、はるばる王都までやってきたのに突然婚約を白紙に戻されて、お金も行く当てもないオーレリアが仕事先を見つけるまで、安心して過ごせるようにというスーザンの心遣いを感じる。
「こんだけ腕のいい付与術師なら、仕事に困ることもないだろうしさ、しばらくここにいて、お金が貯まったら改めて、自分の部屋を借りればいいじゃないか」
ほんの数時間前まで、行く当てもなく知らない街で呆然としていたオーレリアにとって、その優しさは胸がじんと痺れるくらい、温かなものだった。
「ありがとうございます、スーザンさん。――ご迷惑とは思いますが、お世話になります」
深々と頭を下げると、スーザンは面食らったように目をぱちぱちとさせた。
「あんた、ほんとに丁寧な子なんだねえ。ふふ、あたしもオーレリアって呼んでいいかい?」
「はい!」
朝食は外からの客はほとんどいないから、いつでも降りておいでと言われ、おやすみの挨拶を交わして部屋に戻る。
十日滞在できるかどうかと思っていた部屋も、一ケ月はいてもいいと思うと、部屋を出たときよりもずっと温かくオーレリアを迎えてくれた気がした。
色々とあった一日に疲れていたのだろう。ベッドに潜り込むと、一気に眠気が襲ってくる。
明かりを消した室内は真っ暗で、目を閉じるとほっと息が漏れた。
王都に到着したその日に婚約破棄を言い渡されて途方に暮れていたのに、その日の夜にはこんな縁に巡りあえたりする。
人生も運命も分からないことばかりだけれど、案外悪いものではないかもしれない。
王都の最初の一日の終わりにそう思えたことは、とても幸運だ。
そんなことを思いながら、オーレリアは眠りの中に落ちていった。
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