第5話 毒と指先の囁き
焚き火の揺れる炎を見つめる君たちに、今宵もまた、黒衣の剣士の物語を語ろう。
戦乱の影が色濃い大陸の街角、霧に濡れた石畳で真実を追った男の話だ。
彼の名はアルディオ。
帝国の影、黒曜隊の元隊士にして、今はただ剣と魔法で糧を得る放浪の傭兵。剣を振るわずとも、人の心の闇を暴く彼が、密室の謎に挑んだ夜の物語。さあ、杯を手に、耳を傾けてくれ。
石畳を濡らす朝霧が、街路を白く包んでいた。帝国の内乱が遠くで響くこの街は、戦の喧騒から取り残されたように静かだった。
大通りには行商人の荷馬車が軋み、朝市へ向かう女たちの笑い声が霧に溶ける。酒場の看板が湿った風に揺れ、焼きたてのパンの香りが漂う。
そんな中、黒衣の剣士アルディオは珍しく剣を振るでもなく、路地裏の一角で立ち止まっていた。背に背負った両手剣は重く、黒革の鎧には無数の傷が刻まれている。黒曜隊時代、魔獣や敵国の魔術師を葬った男の姿は、霧の中でひときわ異質だった。
「お前に殺人事件の補佐官を頼みたい」
不愛想な声で切り出したのは、地元の捜査官だった。年の頃は四十前後、無精髭と警戒心の強い瞳が印象的な男だ。名はロドリク。革の外套に隠された短剣と、腰に提げた手帳が彼の職業を物語る。
「俺は剣士で傭兵だ。殺人の捜査なんざ畑違いだろう」
アルディオの声は低く、霧に吸い込まれるようだった。黒曜隊の過去は隠していたつもりだったが、街の役人が本気で調べれば見つかるものだ。
「黒曜隊にいたんだろう? モンスターだけじゃなく、人の闇にも詳しいって聞いてるぞ」
ロドリクの目は鋭く、しかしどこか疲れていた。アルディオは小さく息を吐いた。過去はどこまでも追いかけてくる。
「……報酬は?」
「街からの正式依頼だ。宿代に困らない程度、銀貨二十枚と食事を保証する。どうだ?」
「断らない理由もないな」
アルディオは短く答え、霧の中をロドリクと並んで歩き出した。石畳が靴底に冷たく響き、朝の街がゆっくりと目を覚ます。
事件現場は、街外れの商人の屋敷の書斎だった。煉瓦造りの屋敷は、かつての繁栄を偲ばせるが、庭の雑草や剥がれた窓枠が衰退を物語る。
屋内はひんやりと静かで、埃と古木の匂い、微かな黴の香りが漂う。壁には古い絵画や年代物の書棚が並び、真鍮の燭台には短くなった蝋燭が残されている。
床は磨かれた木だが、足を踏みしめるたびに軋む。書斎の机には書きかけの手紙、食べかけのケーキ、空の茶器が散乱していた。霧が窓の外で揺れ、室内に薄暗い光を投げかける。
死んだのはこの部屋の主、交易商人セルヴァ。
発見したのは使用人で、書斎は内側から鍵がかかっていた。
「密室殺人ってやつだな」
アルディオは机に近づき、死者の姿を観察した。セルヴァの顔は苦痛で歪み、口元には血の泡。手紙には文字の乱れと血痕。毒殺だと一目でわかった。
黒曜隊時代、毒を使った暗殺任務を何度もこなした彼の目は、細部を見逃さない。
「茶とケーキは検査済みだが、毒は出なかった」
とロドリクが言った。手帳を手に、眉間に皺を寄せる。
「なら毒を盛る経路は他にあるはずだな……」
アルディオは机の上の品々を改めた。ガラス製の筆置きに置かれたガラスペン、その脇に小瓶に入った滑り止めの粉。
指先で瓶を手に取り、匂いを嗅ぐ。微かな苦味。普通なら気づかぬほどの異臭だ。
「これだな……」
「滑り止めの粉? 商人が書き物をする時はいつも使ってたやつだな」
ロドリクは訝しげに言った。
「それはつまり、指先に触れるということだ。そして――」
アルディオは机の下に目を向けた。ケーキの皿に残る指の跡、わずかにべたつく表面。
「こいつ、ケーキは手づかみで食べてる癖があったんだな?」
ロドリクは目を見張った。
「確かに……使用人の証言でも、指先をぺろっと舐めるって話があった」
「なら滑り止めの粉に毒を混ぜれば、ペンを握る → ケーキをつかむ → 指を舐める、で毒が口に入る。密室も関係ないし、毒は見つからない。合理的だ」
アルディオの声は冷静で、まるで戦術を説明するようだった。
ロドリクはうなずき、手帳にメモを走らせた。
「じゃあ犯人は……」
「滑り止めの粉を扱える人間だろうな」
アルディオの目は、書斎の扉へと向いた。
容疑者は三人いた。給仕役の侍女、執事、厨房の菓子職人。ロドリクは屋敷の応接間に三人を呼び、アルディオは彼らの顔をじっと観察した。
執事は老齢で、落ち着いた物腰だが目が神経質に揺れる。菓子職人は汗と小麦粉にまみれ、どこか怯えた様子。
だが、アルディオの視線を長く引きつけたのは、年若い侍女だった。名はリア。俯き加減で、しかし瞳の奥に決意の色が宿る。彼女の小さな手はスカートの裾を握りしめ、わずかに震えていた。
「滑り止めの粉に触れる機会があったのは誰だ?」
アルディオの声は静かだが、鋭く響いた。
「……私です」
リアが小さく答えた。声は震え、しかしどこか固い。
「なぜ?」
「いつも書斎を掃除するとき、粉の瓶を布で拭いていました」
彼女の目は床を見つめ、しかし決して逸らさない。
アルディオは少し沈黙し、声を低くした。
「何でやった?」
リアは震えた。屋敷の空気が凍りつく。執事と料理職人が息を呑み、ロドリクが手帳を握る手が止まる。リアは唇を噛み、ゆっくり顔を上げた。
「……あの人は……私の両親を殺したからです」
「詳しく話せ」
アルディオの声は冷たく、しかしどこか優しかった。
リアの声は震えながらも、言葉を紡ぎ始めた。幼い頃、彼女の両親は小さな商人だった。旅の途中で交易を営み、家族三人で慎ましく暮らしていた。だが、ある夜、盗賊に襲われ、両親は殺され、財産は奪われた。リアは生き延び、孤児としてこの街に流れ着いた。長年、記憶は薄れかけていた。だが、先日、屋敷に金を無心しに来た盗賊とセルヴァの会話を偶然聞いてしまった。盗賊を雇い、両親を殺させたのはセルヴァ自身だった。競合する商人を排除するため、冷酷な計画を立てたのだ。
「私は思い出してしまったんです……父の笑顔、母の歌。あの人のせいで全て失ったと」
リアの瞳には憎悪と悲しみが燃えていた。声は小さく、しかし炎のように熱い。
「だから滑り止めの粉に毒を混ぜました。父と母の仇を討つために」
「セルヴァが指示した証拠はあるのか?」
ロドリクが割り込んだ。手帳を握る手が震える。
「証拠は盗み聞きした会話だけです」
リアは首を振った。
アルディオはゆっくりと目を閉じた。黒曜隊時代、彼は無数の命を奪った。
命令に従い、敵を葬る。そこに正義も復讐もなかった。だが、リアの言葉は彼の心に小さな波紋を広げた。彼女の復讐は、かつての自分が失った何か――純粋な感情、生きる理由――を思い出させた。
事件は解決した。ロドリクはリアを連行し、淡々と報告書を書き始めた。屋敷の応接間は静まり返り、執事と菓子職人は顔を見合わせ、言葉を失っていた。アルディオは書斎に戻り、滑り止めの粉の瓶を手に取った。微かな苦味の匂い。毒は巧妙に隠され、完璧な犯罪だった。だが、真実はいつも救いをもたらすわけではない。
屋敷を出て、通りに出ると、霧は晴れ、日は傾いていた。街は影の中に沈み、遠くで馬車の車輪が軋む。アルディオは小さく呟いた。
「どうしても正義というやつは、救えないものを残すな……」
黒曜隊の記憶がちらつく。血と鉄の戦場、裏切りと死。リアの復讐は正しかったのか、間違っていたのか。
彼には答えられなかった。ただ、夜風に黒衣を揺らし、石畳を歩き出す。次の仕事、次の旅路。それだけが彼の現実だった。
かくして、黒衣のアルディオは剣を振るわず、密室の謎を解き、闇の中の真実を斬り裂いた。されど真実はいつも、人の心を救うわけではない。
それもまた、旅の途上で出会う哀しき真理のひとつにすぎぬ。次に彼がどこを歩くのか、それを知る者は誰もいない。
さあ、旅人よ、杯を空にしてくれ。次の物語は、また別の夜に語ろう。
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