第二話 「姉の影に私は立っている」

四月の午後は、まだ風が冷たい。

帰り道、駅に向かう坂道を一人歩きながら、私はふと空を見上げた。


青すぎて、少し苦しくなる。


春になれば、また“彼”に会うだろうと予感していた。

あの人――一ノ瀬先生は、姉が高校のときずっと好きだった国語教師。

たとえ本人が「恋」だと呼ばなかったとしても、私は気づいていた。


姉の話に、あの人の名前が出てくるとき。

あの人が書いた赤ペンのコメントを、姉が大切に切り抜いてノートに貼っていたこと。

卒業式のときに、教室の隅で長く話していた、あの時間。


全部、全部、見ていた。


そして、私は思ってしまったのだ。

――どうして私じゃなかったの?



「先生、ありがとうございました。なんとなくわかった気がします」


放課後、私は質問のふりをして話しかけた。

本当は、数学の問題のほうがずっと得意だった。

でも、わからなかったのはあの人の言葉だった。


「国語っていうのは、“不正確さ”の中にある“真実”を探す教科なんだ」


そのとき、なんとなく思った。

きっとこの人は、どんな“嘘”にも、“言い訳”にも、優しくうなずいてしまえる人なのだと。

だから姉は、好きになってしまったのだろう。


そして、私も。


「私は、まだよくわかりません。でも――」


口にした言葉を、途中で引っ込めた。

それ以上話してしまったら、先生が私を見る目が変わってしまいそうだった。


……違う。

まだ違う。

私のことを“七瀬美月の妹”としてではなく、

“七瀬結咲”という一人の人間として、見てくれるようになるまでは。


変な感情に、名前をつけたくない。

まだこれは恋じゃない。

ただ、確かめたいだけ。

あの人が、今でも姉のことを忘れていないのかどうかを。


そして、もしそうなら。

私がその記憶を、塗り替えてみせる。


教師と生徒。

そんな関係、関係ない。


「風が、頬を撫でた」


教科書の中の文章が、ふと浮かぶ。

今日、あの人が教えてくれた比喩表現。


“風は撫でない”

“でも、そう書かれた瞬間に、風は撫でたことになる”


その言葉が、ずっと胸に残っていた。


だったら、私の気持ちだって。

ちゃんと書き残せば、きっと誰かに伝わるはずだ。


たとえそれが、誤差だとしても。

先生。あなたが忘れてしまった感情を、私がもう一度証明してみせる。


この恋が、微分できないほど曖昧なものだとしても。

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