第二話 「姉の影に私は立っている」
四月の午後は、まだ風が冷たい。
帰り道、駅に向かう坂道を一人歩きながら、私はふと空を見上げた。
青すぎて、少し苦しくなる。
春になれば、また“彼”に会うだろうと予感していた。
あの人――一ノ瀬先生は、姉が高校のときずっと好きだった国語教師。
たとえ本人が「恋」だと呼ばなかったとしても、私は気づいていた。
姉の話に、あの人の名前が出てくるとき。
あの人が書いた赤ペンのコメントを、姉が大切に切り抜いてノートに貼っていたこと。
卒業式のときに、教室の隅で長く話していた、あの時間。
全部、全部、見ていた。
そして、私は思ってしまったのだ。
――どうして私じゃなかったの?
*
「先生、ありがとうございました。なんとなくわかった気がします」
放課後、私は質問のふりをして話しかけた。
本当は、数学の問題のほうがずっと得意だった。
でも、わからなかったのはあの人の言葉だった。
「国語っていうのは、“不正確さ”の中にある“真実”を探す教科なんだ」
そのとき、なんとなく思った。
きっとこの人は、どんな“嘘”にも、“言い訳”にも、優しくうなずいてしまえる人なのだと。
だから姉は、好きになってしまったのだろう。
そして、私も。
「私は、まだよくわかりません。でも――」
口にした言葉を、途中で引っ込めた。
それ以上話してしまったら、先生が私を見る目が変わってしまいそうだった。
……違う。
まだ違う。
私のことを“七瀬美月の妹”としてではなく、
“七瀬結咲”という一人の人間として、見てくれるようになるまでは。
変な感情に、名前をつけたくない。
まだこれは恋じゃない。
ただ、確かめたいだけ。
あの人が、今でも姉のことを忘れていないのかどうかを。
そして、もしそうなら。
私がその記憶を、塗り替えてみせる。
教師と生徒。
そんな関係、関係ない。
「風が、頬を撫でた」
教科書の中の文章が、ふと浮かぶ。
今日、あの人が教えてくれた比喩表現。
“風は撫でない”
“でも、そう書かれた瞬間に、風は撫でたことになる”
その言葉が、ずっと胸に残っていた。
だったら、私の気持ちだって。
ちゃんと書き残せば、きっと誰かに伝わるはずだ。
たとえそれが、誤差だとしても。
先生。あなたが忘れてしまった感情を、私がもう一度証明してみせる。
この恋が、微分できないほど曖昧なものだとしても。
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