第一話 「変曲点はまだ見えない」
四月の教室は、新しい風とともにざわめいていた。
春休みを経て、少しだけ成長した生徒たちの声が響く中、俺――一ノ瀬透は、新しく受け持つことになった2年C組の名簿を手に、教壇に立っていた。
その中に、ひときわ目を引く名前があった。
七瀬結咲(ななせ ゆさ)
その名前を目にした瞬間、脳裏に浮かんだのは、かつて教え子だった彼女の姉――七瀬美月の面影だった。
明るく、まっすぐで、国語の授業が好きだと笑っていた美月。
教師である自分が、心を寄せてしまった唯一の生徒。
もちろん、何もなかった。
何も起こさなかった。
それが正しかったと、今でも思っている。
だが、今日。
妹である結咲が、俺の前に現れた。
まるで、封じ込めた過去の残像が、目の前に形を持って立っているように。
「七瀬……結咲さん、ですね」
初めて点呼で彼女の名を呼んだとき、彼女は小さくうなずき、無言でこちらを見た。
その目は、姉とはまるで違っていた。
静かで、冷たくもなく、ただ「距離」を置いた瞳。
理系の生徒らしい、合理性と慎重さを湛えた表情だった。
けれど、どこかで気づいていた。
その無表情の奥に、感情の火種が隠れていることに。
──放課後。
「先生、ちょっといいですか」
結咲が声をかけてきた。
無駄な言葉を挟まず、まっすぐに。
「この文章題の“主観”と“客観”の違い、よくわかりません。
物理の実験じゃないので、いまいち感覚が掴めなくて……」
「なるほど。じゃあ……たとえばこの一文、“風が優しく頬を撫でた”という表現。これって客観的? 主観的?」
「……主観、ですね。風は撫でないから」
「そう。国語っていうのは、そういう“不正確さ”の中にある“真実”を探す教科なんだ。答えが決まってるわけじゃないから、理系の人にはちょっともどかしいかもしれないけどね」
俺が説明すると、結咲は小さくうなずいた。
それだけで、ほんの少し空気が和らぐ。
「……姉から聞いたことがあります。先生のこと」
唐突に出てきた名前に、心臓が跳ねた。
「“変わってるけど、ちゃんと話を聞いてくれる人”って言ってました」
「……そう言われると、なんか恥ずかしいな」
「私は、まだよくわかりません。でも……」
言いかけて、彼女は口をつぐんだ。
「でも?」
「いえ、なんでもないです」
風が窓から入り込み、彼女の髪を揺らした。
その一瞬、まるで“風が彼女を撫でた”ように見えたのは、俺の主観か、客観か。
……わからなかった。
けれど、それがきっと、
この物語の最初の「変曲点」だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます