第56話








「ちょっと……待って、葉山!」


 突然、あたしの腕を引いて外へ出た葉山は、後ろを振り向かずに前だけを見て進み続けた。


「どこ行くの?ねぇ!」

「っい、いいから、ついてきて」


 滅多にない強引さが、心音に影響する。


 何が起こるか分からない未知へのドキドキと、小さいのに頼りがいのある背中への安心感で心拍は乱れに乱れていた。


 走ること、数分。


 辿り着いたのは赤い屋根の一軒家で、あたしはこの場所がどこか知っている。


「入って」

「う、うん」


 初めて葉山と対面した、出会いの場所。


 葉山の家だ。


 招かれるがまま玄関から廊下、廊下から階段へと進み、あれから一度も訪れていない部屋へ足を踏み入れる。


「……私の話を、聞いてほしい」


 あの日、怯えた子猫みたいに布団の中で震えていた少女は今、芯の宿った黒い瞳を光らせて、まっすぐにあたしを見つめていた。


 いやだ。


 成長を感じるたび、幼く弱かった面影が消えていくたびに、足元から崩れ落ちそうになる。


 いつの日か、足踏みしてるだけのあたしの横を軽々と通り過ぎて、ひとり置き去られてしまいそうなのが、怖くて仕方ない。


 いつから、こんなにも差がついたの?


「う、うちは今、私のせいで離婚の危機に……あ。この間、ちょっと話したかも、だけど」


 あたし達は、同じだったはずでしょ。


「で、その。お父さんとお母さん、どっち選ぶか聞かれてて」


 あの日、この場所で、自分に似た儚さを見つけたから手を伸ばしたというのに。


「まだ、答えを出せてなかったんだけど」


 いったい、いつから。


「今日……お父さんが帰ってきたら、家族がみんな揃ったら答えを出すから」


 いつから葉山は、こんなにも強くなってしまったんだろう。


「御堂さんも一緒に、見届けてほしい」


 差し伸ばされた手を受け取るには、あまりにも心が弱すぎた。


 かと言って、振り払うほどの強さもない。


 ウジウジと悩んで停滞している間に時間は過ぎて、過ぎた分だけきちんと成長する葉山だけが、扉を開けた。


「ついてきて」


 きっと優しい葉山だから、あたしが「やだ」と言えば無理強いはしなかったと思う。強制力を持たせた言い方でもなかった。


 でも、ここで後を追わなければ容赦なく置いていかれそうな勢いを感じて、おずおずと相手の手を取った。

 

 階段を降りてリビングに入ると、ちょうど葉山の父親が帰ってきたところだったらしく、背広を腕にかけた状態でネクタイを外そうとしていた。


「おぉ、文乃。お友達か?」

「……うぉ。美人」


 父親の声に反応してソファに座っていた中高生くらいの男の子が背もたれ越しに振り返って、戸惑いの声を出した。


 キッチンからは母親であろう女性もやってきて、家族四人が揃った空間の居たたまれなさに身を縮める。


「あら。前に来た…」

「ど、どうも」

「こんな可愛い子と仲良くしてもらえてよかったじゃない。文乃みたいな……なんでもない」


 母親は何かを言いかけて、父親からの眼圧に顔を伏せた。


 繋いだ手はそのままに、むしろ力が込められる。


「お、お父さん」

「なんだ?どうした」

「離婚の、やつで……あの。どっちに、ついていくか、みたいなやつの、その」


 あんなにも勇ましく部屋を出たにも関わらず、いざという場面ではしどろもどろな葉山がかわいくて、ついつい頬が緩んだ。


「なによ。言いたいことがあるならさっさと」

「私は、お父さんについていく」


 だけどすぐ、思い知らされる。


 彼女はあたしと違って、強い子なんだと。


 淀むことなく言い切った葉山は次に、母親を指さして言った。


「こんな母親、いらない」


 あたしの中では禁句にも近かった言葉を、平然と。


「っ……文乃、あんた」

「こんなのがそばにいたら、幸せになれない。お前なんか親じゃない」

「な、によ……その言い草!誰がお腹痛めて産んでやったと思ってんのよ!」

「そ、それはありがとう。だけど、でも、私にとってお母さんは母親じゃなかったよ。お母さんが愛してたのは、大輝だけでしょ」


 吃ることなく堂々と伝えているように見えて、滲む手汗が彼女の必死さを教えてくれる。


「親子とか、関係ないよ」


 葉山も、怖いんだ。


「愛されないのに、愛せないよ」


 心臓を貫かれた気分だった。


「だから、私はお母さんを捨てる。大輝も捨てる。私の人生に、ふたりはいらない」


 簡潔に言い残して、葉山はまたあたしを連れて自室へこもった。


 あたしはもう、何も言えなかった。


 彼女は自分にないものを全て持っていて、さらに自分が閉じ込めていた思いすら簡単に吐露する。唯一の共通点だと信じ込んでいた根の暗さが、悲しいことに今の葉山からは感じられない。


「……お父さんが私の味方になってくれてから」


 ベッドの上で膝を丸めて話し出した葉山に近づくことすらできず、扉の前で立ち竦む。


「お母さんも、大輝も。優しく…なった。ち、ちょっとだけ」


 嬉しそうじゃない表情が、内に眠る孤独の片鱗を見せていた。


「私ずっと、比べられて……見下されて生きてきたから、これでやっと終わるんだって、望んでた幸せな家族になれると思ってた」


 だけど、と続く。


「無理だった。今まで私とお父さんが顔色伺ってビクビクしてたのが、逆転しただけで。力関係が変わっただけで、家族の形は何も変わってなかった」


 そこでようやく、大きな勘違いをしていたと。

 

「扱いは良くなっても、愛されたわけじゃなかった。……今さら、愛されるわけもなかったのに。何を期待してたんだろう…って」


 初めて会った時に見た、瞳の奥に潜む闇色の影――あれは、とてもじゃないけど恵まれた家庭環境に置かれた人間がしていい目じゃなかった。


 恵まれてなかったからこそ、共鳴していたというのに。


 そんな当たり前のこと、なんでここに来るまで気付かなかったんだろう。


 余計に虚しくなる。あたしだけ、いつまでも歩幅を合わせられないままで、情けなくて、ちっぽけで。


 丸くなって小さいはずの葉山が大きく見えて、見ていられなくて視線を外した。それに反応して、彼女は地に足をつけて歩み寄ってくる。


 あたしを見上げた大きな瞳が、今は。


「あ、あのさ。あのね、御堂さん」


 かわいいのに、かわいくない。


「私も、親……捨てるからさ」


 本当にずるいな、葉山は。


 ずるいよ。


「御堂さんも、捨てちゃおうよ」


 あたしは、この日。


 目の前で良い子をやめた――見本を見せてくれた不器用で繊細な優しさのおかげで、ようやくがんじがらめの糸を解くことになる。


 

 


 

 



 


 

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