第54話










 ぎこちない包丁の音。


 閉め切られたカーテン。


 揺れるポニーテールの黒髪。


 ご機嫌な鼻歌が響くキッチン。


『芹那』


 長い長い記憶の糸を辿っていくと現れるのは、温かな光に包まれた母との日常だ。


 食卓には食欲をそそる香りの料理が並び、枯れた花がカビの生えたくすんだガラスの瓶に飾られ、家族団らんのひと時を灰色に彩っている。


 白濁したスープの中には緑やオレンジが散りばめられて、そこに銀色を刺せば、胃の中へ落とす準備は整った。


『火傷しないようにね』


 細く、体温のない指が頭に置かれる。


『うん!』


 いただきます、と両手を合わせてからスプーンを持つと、手の中でドロドロに溶けた。


『えっ?ママ、見て…』


 驚いて顔を上げると、肌色がボタボタと床に落ちる。


 まるでアイスクリームみたいに溶けた母の顔は原型を留めていなくて、ゴボゴボと口であろう場所から赤黒い何かを吹き出しながら伸びてきた手を、思わず払いのけた。


『痛い!』


 叫び声だけは鮮明に、耳に届く。


『痛い!痛い!痛い、痛い』


 キン、と劈く悲痛な叫びに耐え切れず、耳を塞いだ。


『お前のせいだ!お前の…!』

『ごめんなさい!ごめんなさい!』


 どれだけ強く両耳を押さえても、母の声に脳を殴られる。


 ぎゅっと閉じた視界は暗く、謝罪の言葉を繰り返す人形と化したあたしに、母は虚弱な拳を何度も振り下ろした。痛みよりも恐怖が勝って、五感は遮断されていた。


 ふと。


 何もかもが、終わっていることに気が付いた。


 音のない世界で、視界を開く。


 瞼を上げたはずなのに真っ暗な世界で、不安で心臓を浮かせながら、手探りで前に進んだ。


『ママ…?』


 自分の喉から発した声すら、自分の耳に届かない静寂の中。


『ママ…!』


 見慣れた背中を見つけて追いかけるのに、追いつかない。


 走っては離れ、手を伸ばしては離れ、呼んでも振り返ることのない相手のことを、必死で何度も呼び続けた。


『ママ!置いてかないで、ママ!ママ…!』


 やけにくっきり視界に入っていた幼い自分の手が、成長していく。


 艶やかなネイルに、アクセサリー。派手に装飾されたそれは、暗闇の中でもよく映える色をしていた。


 色。


 髪色と肌の色、線の細さも顔立ちも全部、母に似ているのに。


『気味が悪いんだよ』


 アパタイト色した瞳だけ、どうして父に似たんだろう。


『捨てないで、ママ……せりな、良い子にするから』


 目元を手のひらで覆い隠して、膝をついた。


 宝石の涙が虚しく滴り、足元を綺麗に汚していく。


 眼球を入れ替えられたら、どんなに――


『きれいだった』


 照れた笑顔が、視界を塞ぐ手の中で輝いた。


 眺めているだけで幸せを運んでくる光に、つい目を奪われる。

 

『葉山…』


 縋りたくて名前を呼ぶと、気まぐれな彼女の目線がこちらを向いた。


 猫みたいな目に、小さな鼻と口。赤ちゃんにも見える頬の輪郭。あまり手入れはされてない黒髪と少し伸びた前髪が、長いまつ毛にかかる。


 そよぐ春風を受け止めた縁側で笑い合う。


 祖母の用意してくれた季節の果物を口いっぱいに頬張る。


 それだけでいい。


 それさえあれば、他は何も――


『私を捨てるの?』


 笑顔が固まる。


 すぐ背後にある足を見下ろし、視線を上へ上へと移動させたら、顔を隠すほど伸び切った黒髪の隙間から血走った目が覗き込んでいた。


『そうやって、お前も私を捨てるんだ』

『ちが、う……ちがうよ、ママ』


 焦った手が、服を掴んだ。


 縋りついたあたしに呆れた吐息を吐いて、葉山はどこかへ立ち去ってしまった。追いかけようとすれば、母が首を絞めて捕まえてくる。


「まって……葉山!はや、ま」


 消えゆく背中へ伸ばした指先は、空を掴む。


 耳元では、あたしを責める声が終わることなく流れていた。


 運命の赤い糸は絡まり、体を縛り、辿ることすら許されない。


『お前がいなければ』


 それならもう、引き止めないでよ。


 自由にさせてよ。捨てさせてよ。


 そんなひどいこと、言えないよ。


「――疲れた」


 目が覚めてすぐ言うには相応しくない言葉を吐き捨てた。


 起こした体は汗でべったり湿っていて、肌に服が引っついた不快感にもため息を落とす。着替えて、顔洗って……頭痛い。


 長く短い悪夢から解放されたあたしは朝の支度を済ませて、開けたくない扉をそっと開けた。


「おはよう、ママ」


 今日の機嫌は、悪魔か女神か。


 一種のギャンブルに挑むため、うんざりした気持ちで声を掛ける。


「おはよう、芹那」


 どうやら今日は、賭けに勝ったらしい。


「おでかけ……行こ?」


 定期的に訪れる通院に連れ出すため、やせ細った腕を引いた。


 妄想の世界を崩さぬようご機嫌を伺って、先生には良くなることのない症状を伝え、貰った薬を飲ませて、眠り姫に戻る姿を見届けて、外側から閉じ込めるように施錠する。


 あと何回、繰り返せば終わるんだろう。


 このいえから抜け出せる日は、いつ来るんだろう。


 葉山は、前に進んだ。進んでしまった。


 自分の力で解決した彼女が羨ましくて、妬ましかった。恵まれた家庭環境に、唇を血で滲ませるほど嫉妬した。


 焦る。


 あたしだけ、取り残されそうで。


 葉山がどんどん、遠くへ行ってしまいそうで。


 怖い。


 いいな、葉山は。何かあれば頼れる父親がいて、最後には話し合える関係性の家族がいて。ずるい。ずるいな。


 葉山と違って頼れる父親も、話し合える家族もいないあたしは、どうすればいいの?


 母とふたりきり、この先も生き続けるの?


「……やだ、とか。言えないよね」


 真っ先に湧き上がった感情には、蓋をする。良心が痛むから。良くないことだから。


 あたしは、良い子だから。


 良い子でいなきゃ。


 良い子で。 





 

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