第26話









 赤らんだ頬に、固く閉じられた瞼。


 上下する肩、弱々しく掴む手、震えた吐息。


 皮膚の薄い、赤ちゃんの肌みたいな唇。


 愛らしさが脳裏に焼き付けられて、頭から離れなくなる。


 すればするほど、物足りなくなる。


 ――あの時。


 これまでみたく、ただかわいいからキスしただけのあの時、あたしの行動は明らかに行き過ぎてた。やり過ぎてた。


 食べちゃいたいくらいかわいいなんて、生易しいものじゃない。


 本当に、比喩でも何でもなく相手を貪りたい感覚に襲われて、つい舐め取った時にたまたま口に入り込んで味わった涙のしょっぱさに高揚した。


 体の中心から先まで、津波のような欲が押し寄せて波打っていた。


 あと一歩間違えていたら、制服を剥いで白く透けた肌を露わにさせていたと思う。そのくらい、どうかしてた。


 どんどん、自分がおかしくなる。


 あたしって、もしかして女の子が――


「……な。芹那!」


 呼ばれる声にハッとして、意識を現実へと戻す。


 そうだ。今は、友達との会話に集中しないと。


 葉山が部屋を飛び出した後、追って探したけど見つからなくて、夕食のホテルバイキングでも会えなかったんだよね。


 だから予定通り、いつものメンバーと食事してるんだけど……。


「聞いてた?」

「ご、ごめんごめん。なに?」

「今日の夜!この後、消灯まで自由時間でしょ?誰の部屋に集まるって聞いてんの」

「あー……あたしは、パス」

「はぁ?なんで」


 昼間、葉山といられなかった分、夜は一緒に過ごしたい。さっきのことも謝りたいし。


 ……とか言ったら、変な目で見られるよね。それに、深入りしてくる質問で余計にめんどくさいことになりそう。


「思ってたより疲れちゃってさ。明日は海行くし、いっぱい寝て体力温存しときたくて…」

「そかそか!たしかに。わたしも今日は早めに寝よ〜」

「えー……萎えんだけど」


 怒りを含ませた声と同時に、ガン、と椅子の足をける音が響く。


 今にも箸を投げて拗ねてしまいそうな友人の雰囲気に、あたし含め他の子も気まずさを感じて黙り、目線だけで「どうする?」とそれぞれが相談を交わしていた。


 最終的にチラチラとあたしへ集まった、助けを求める眼差しに折れて、ため息さえも飲み込んだ。


「やっぱり、寝る前にちょっとだけみんなと話したいから、集まろっか」

「お、いいね〜」

「最初からそう言ってよ」

「はは。ごめんね」


 ……だる。


 ひとりのわがままで大勢が気疲れしてること察しろよ。あんたはいいよね、不機嫌を撒き散らせばこうやって気を使ってもらえるんだから。


 ■ねよ。


 胸の内で暴れ回る攻撃性の一角だって現さず、人当たりのいい笑顔を浮かべる。


 こういうことの連続だから人間はクソだし、うざいし、きらい。めんどくさい。……だけど、捨てられない。抜け出せないのがさらにだるい。


 自分の弱さにも腹が立つ。


 とはいえ、誰かと関わってないと今よりも不便な生活が待ってると思えば、このくらい円滑に済ませないとね。嫌な瞬間をその時だけ我慢してた方が、孤独より何倍も楽。


「明日の海たのしみだね〜」

「ね。楽しみ」

「芹那たちは化粧してく?」

「あー……あたしはしないかな。どうせ落ちるし」

「たしかに」

「……たしかにって、字面で見たら」

「あ。芹那、気にしないで。最近のこいつの流行りなの。まじうざいから、それ。意味分かんないし」

「はは、ウケる。あたしは好きだよ」


 適度に話を合わせて、相槌を打って、面白くもないのに笑いながら、友達の泊まる部屋で消灯時間が近付くまで談笑を重ねた。


 お風呂の時間も考慮して、ギリギリまで粘られたけどなんとか早めに抜け出すことができた。それでも、もう時刻は9時を優に過ぎている。


「葉山、もう寝ちゃったかな……まだ起きてるかな」


 キスのこと、まだ謝ってないのに。


 一縷の望みを胸に小走りで自分の部屋へ急ぐ。途中、男子とすれ違いざまに話しかけられたけど無視した。


 少し乱れた息を整えることもせずカードキーをかざして、扉を開ける。


「あちゃー……寝ちゃったか…」


 奥側のベッドの上。


 小さく膨れた毛布をペラリと捲って確認したら、胎児みたいに丸まって眠る葉山がいた。


 すやすやとした静謐な呼吸音と、まだ幼さの残る輪郭をした寝顔が可愛くて、ついついじっくり見ていたくなって、体の上へとまたがった。


 毛布越しに抱き包んで、体重をかけないよう意識する。


 シャワーを浴びたであろう、シャンプーの香りを濃くまとったサラサラの黒髪を指に梳かして、冷房の影響かほんのり冷えた耳にかけた。


「……葉山」


 呼んでみても、反応はない。


 僅かばかりのつまらなさと虚しさに胸を締め付けられて、甘える気持ちで顎の辺りに鼻先をこすりつけた。

 

 広がるように脳の奥を刺激する香りが、鼻孔をつく。


 形容しがたい、体の芯がじんと温まってのぼせるような感情に心が支配されていくと、次第に意識が微睡み薄れる。


 ――赤ちゃんみたいな匂いが、する。


 くっついてると、落ち着く。


 寝る前にやらなきゃいけないことはたくさんあったのに、溜まっていた疲労感と心地よさに抗えなくて、気が付けば深い深い暗闇の中に沈んでいた。




 

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