第21話
そろそろ長い退屈に、終止符が打たれる。
ようやく終わる。終わってくれる。夏休みが。
課題は……うん。まぁ置いといて。
「葉山。そろそろまじでやばいから」
「なんの、はなし」
「課題の話。全然終わってないんでしょ?」
置いておけなかった。
「あたしもまだ残ってるから、一緒にやろ?そんで、進められるとこまでは進めようよ。せめてちょっとだけでもさ」
バイトに遊びに忙しそうだった御堂さんは、勉強も両立させる有能っぷり。
それに比べて私は……この一ヶ月と少し、何に時間を使ってたんだろう?ってくらい暇だったくせに、ほとんど手をつけていない。
得意科目だけちょこちょこやってて、苦手科目は初期段階で見ることすらやめた。
「にしても、真面目だと思ってたから……なんか意外。葉山って勉強きらいなんだね」
勉強なんか好きなやついないだろ。
と、言いたいところだけど、奇しくも今目の前にいる美少女は、どちらかといえば好きなんだとか。美人な上に勉強家って何?それなんてラノベ?
才能は平等に分配されず、稀にこういうバグ人間が誕生するのが、この世界の残酷さと世知辛さを示している。
「すご。さすが読書好きなだけあって、国語は得意なんだ」
人の解答を勝手に見て感心した声を出した御堂さんを、細目で睨む。
「なに、その目は」
「いや…」
嫌味かと思った。
彼女も本を読む人で、なんなら私より複雑で難しいものを好むから国語は大の得意分野。私なんか足元にも及ばない。
「でも思ってたよりバ……かわいい。うん、いいと思う。ギャップ萌え?みたいな」
やめて。もういっそ罵倒してくれた方が楽なんだが。
どうせ私は地味で真面目な見た目してるだけのバカですよ。優等生なのは制服の着こなしだけで、頭脳も人格も伴ってない見かけ倒しの人間ですよ。
変に優しく気遣われる方が傷付くという学びを得たところで、本格的に集中することにした。じゃないと本気でまずいから。ここに来て実感と焦りに襲われている。
「ちゃんと勉強してえらいね〜」
人が必死で頑張ってるのに、余裕綽々な様子でよしよしと頭を撫でられて、さらに悔しさを募らせる。
前々から不満に思ってるけど、御堂さんは私のことを子供扱いしてくることが多い。今もそうだ。赤ちゃん言葉混じりで褒められると、複雑な気分になる。
そんなつもり毛頭ないのは理解しつつ、たまに“見下してる…?”って穿った見方をしてしまう。そうなると、気分は良くない。
ここで「私、子供じゃないです」ってしっかり意思表示できる人間なら何も問題ないのに。そこまで気の強い接し方できるわけもなく。悶々とする。
「もし全部終わったら、ご褒美あげる」
「ご、ごほうび」
「うん!楽しみにしてて」
……まぁ、良いお母さんにはなりそう。
屈託のない笑顔と、純粋無垢にただ楽しませようとしてくれてる嬉しい企みに触発されて、なんとなくやる気が湧いてきた。
残り数日。できるところまで終わらせようと、自分の家にいる時も頑張ってみたりした。
「あんた、夏休みの宿題してるの?」
「……してるよ」
「ほんとに?大輝はもう終わってんのよ。あんたもちゃんとやりなさいよ」
やってるよ。
強く言い返したい反抗が膨らむたび、喉はきつく締まる。
何も言わない私に、母は心底呆れた吐息を漏らした。弟は鼻で笑って、父は眉を八の字にするだけ。
味も感じない冷えきった食卓は息が詰まって、肩がズシンと重くなったように沈む。箸を持つ手さえ鉛のように硬く、扱いづらい気がしてきた。
沈黙が気まずく感じて耐えられなかった父が、場を和ませようとしたのか笑いながら口を開いた。
「文乃は、俺に似てバカだからなぁ。はは」
この家には誰も、私を庇う人はいない。
笑いたくても口角が引きつって不快感が表に出るばかりで、より情けなくなるだけだった。
「……ごちそうさま」
まずい食事もほどほどに、自室へこもった。
考えるのをやめたくて、脳内が理不尽なことに対する意見の並びでこんがらがるのを防ぐため課題に明け暮れた。
だけど、所詮は凡人。いや、それ以下。
どんなに努力したって報われないことは確定していて、今回も結果は分かりきっていた。
完遂できなかった課題を見下ろし、ため息さえ出ない虚しさに瞼を下ろす。
もっと早く始めてれば終わったかもしれないのに。私って、みんなが言うようにバカなんだ。だから、こんな簡単なこともできないんだ。周りと同じようにできないんだ。…ほんと、救いようないな。無能すぎて。
先生には怒られる覚悟で、未完了のまま提出した。
「葉山。課題どうだった?最後までちゃんとやった?」
新学期が始まっても交流が終わることはなく、変わらず放課後に図書室へ来てくれた御堂さんからの無遠慮な質問には、ついムスッとした顔で返した。
察しのいい彼女のことだ、今回も言わずとも理解したんだろう。
「あー……でも、ま。頑張ったご褒美ってことで」
苦笑いしながら何やら鞄を漁って、
「はい。あげる」
一枚の、エジプト座りをしてる白猫のイラストが隅に描かれた栞を差し出した。…よく見たらオッドアイだ。
ご褒美なんて貰っていいのか不安になりつつも、せっかくの親切を無下にするのも気が引けておずおずと受け取ってみると、ほんのり御堂さんの香りがした。
つい、鼻先を近付けてスンと嗅ぐ。
甘く爽やかなジャスミンと、後を包むように抜けるムスクの香り。
あの傘を無くした雨の日、それから初めて私の部屋に来た時、図書館で話しかけてくれた時の記憶が鮮明に呼び起こされる。海馬の中に眠る御堂さんとの思い出と密接に関わる香りなんだから、当然と言えば当然だ。
「あたしの香水振りかけておいた」
「な、なん…で?」
「厄除け?」
ごめん。意味が分からない。
でも、気持ちは嬉しい。素直に。
御堂さん自身も特に意味とか気にしてなかったみたいで、おどけて笑う。
「あ……あ、ありがと、ございます…」
「いーえ。ちなみに、あたしもお揃い」
そう言って見せてきた栞には、お腹を出して寝転んだ黒猫が描かれていた。
「なんか、葉山っぽくない?」
「そ、そうかな」
「うん。黒猫は慎重で臆病な性格らしいよ。まさに葉山。ぴったり」
「た……たしかに。臆病では、ある」
「でしょ?…ん。でもこれ、葉山の匂いしないね」
栞を嗅いで、至極当然なことで落ち込んだ御堂さんは、すぐ何かを思いついたのかパッと明るい表情に変わった。
「葉山の使ってる香水、教えてよ」
「え」
いやいや。こちらがそんな洒落たもの使ってる前提で来られましても。生まれてこの方、香水なんて振りかけたことも触ったこともないってのに。
どう答えようか悩む私を、彼女はニコニコ笑顔で待っていた。こういうとこ、史恵さんに似てる。
「あ、の」
「うん」
「私……香水、持ってない…」
「え!まじ?」
「ま、まじ…」
「えー……じゃあ、この匂いなんなんだろ?」
疑問を解消したい一心か、耳元にまで顔を近付けて確認する御堂さんは心底不思議そうで、そんなにくさい…?と心配になる。
「ほんとに何もつけてないの?」
「う、うん」
「めっちゃにおいするんだけど」
どんな?
そこまでしっかり匂いがするものなんて……強いて言うなら柔軟剤?でも、お母さんがなに使ってるかなんて分からないな。
結局、御堂さんが感じてる匂いの正体は不明のまま、この日の会合は終わりを迎えた。
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