第二十一節 囁く亡霊たち(前半)

 雨が降っていた。


 細く、肌に触れた瞬間に気配すらも消えるような、七月の冷たい雨だった。足立区竹ノ塚の住宅街。いつもの交差点で、一翔は立ち止まる。視界の隅、通い慣れたコンビニの灯りが、かすかに揺れていた。


 ――風の流れが違う。空気が、淀んでいる。


 感覚的な違和感。マイルームダンジョンを拡張して以来、感知系スキルが自然と鋭くなってきているのかもしれない。一翔はフードを深く被り、視線を交差点から住宅街の奥へ向ける。


 その先には、常磐瑠璃が待っていた。


 「……遅いよ、朝比奈さん」


 瑠璃は傘もささず、雨の中、じっとこちらを見ていた。短く切り揃えた髪から雫が落ちるが、気にする様子はない。目元には隠しきれない緊張が滲んでいた。


 「悪い。別ルートから尾けられてないか確かめてた」


 「……やっぱり、何か来てるよね?」


 一翔は頷く。


 「さっき、妙な反応があった。魔力じゃない……瘴気に混じる何か。人の気配とも違う。けど、“視線”だけは確かにあった」


 瑠璃が無言で喉を鳴らした。


 彼女の感知能力は、ギルドでも屈指だ。それでも断定しきれないということは、相手がそれだけ高度な遮断技術を使っているか、あるいは――。


 「“中の人間”が動いてる。そう見て間違いない」


 その言葉に、瑠璃の瞳が大きく揺れた。


 ギルドの幹部の誰か。信頼していた者の中に、敵対勢力と繋がる者がいる。それは、もう確定的な前提となりつつあった。


 「……本当に、始まるんだね。“内戦”が」


 「まだだ。始めさせないために動く」


 一翔は断言した。彼の声には、かつての自分を知る者なら驚くほどの芯が通っていた。


 竹ノ塚の商店街に抜ける道沿いに、かつて仲間だった戦術参謀・藤堂の自宅がある。瑠璃はそこを一瞥し、かすかに口を開く。


 「彼、まだ沈黙を貫いてるの?」


 「ああ。ギルドに対しても、敵対勢力にも。中立を演じてる」


 「……でも、彼は知ってるはずだよ。スパイが“誰”かって」


 答えは返ってこなかった。


 沈黙の中で、街の空気が再び動く。


 遠く、足立区役所方面から一台のバンが通り過ぎ、ナンバーを読み取った瑠璃の眉がわずかに動いた。


 「陸送部隊のルートじゃない。あれ、地下拠点の関係車両だよ」


 一翔は、すぐに行動に移る。


 「行くぞ。ここじゃ話せない」


 そう言って、二人は足早にマイルームダンジョンへと戻る。自宅のクローゼット奥。そこに拡張された異空間の拠点は、いまや秘密会議にも使えるよう結界が張られていた。


 そこには既に、狩野拓巳とクロエ=ルフェーブルが到着していた。


 「遅ぇよ、タカ坊はもうバレそうだったって騒いでたぜ」


 「私は一応、敵の通信を傍受してみたけど……“こっちの情報”が先に漏れてた形跡がある。明らかに中に“誰か”がいる」


 静かに会話が交錯する中、一翔は壁に貼り付けた作戦図に新たな線を引いた。


 「奴らが狙ってるのは“接触の場”だ。おそらく、来週行われる【都市安全保障会議】の現地に、何か仕掛けてくる」


 「政府要人が集まる場で混乱を起こす気か……」


 クロエが眉をしかめた。


 「この動き方……“アルギュロス”のやり口に似てるわ」


 その名に、場が一瞬静まり返る。


 ――“アルギュロス”。

 政府にも、ギルドにも属さず、どこかから資金を得て東京中の瘴気エネルギーを奪取していると噂される“第三勢力”。


 一翔は、壁に貼られた地図の一点を指差した。


 「ここ。足立区の地下ダンジョン【T-K12】……先週、急に誰かが“使用済み”にしてた。ギルドには報告なしだ」


 「内部者が鍵を渡してるってこと?」


 「そうとしか思えない」


 やがて一同の視線は、一つの名前に集まっていった。


 かつて、ギルドの治安維持班に属し、現在は“休職中”の男――風間洸二。


 「奴か……」


 かすかに呟いた一翔の声が、まるで“亡霊”を呼び覚ましたかのようだった。

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