第3話
一時間後、
朝日が眩しい。
顔を伏せるように船の縁にもたれかかる姿は、完全に船に酔ったことに絶望し今にも吐きそうな人に見えたが、無論「俺の家は船上」と常々話している甘寧は微塵も酔っていない。
「これが船か~~~! 風が気持ちいいなあ~!」
絶望した人のようになっている甘寧の側を、きゃっきゃと
とにかく彼は初めて乗る船に何もかもが珍しく楽しいらしく、ずっとこんな調子である。
甘寧の部下が、王太子が河に落ちやしないかヒヤヒヤしながら見守っているが、甘寧は盛大な溜息をついた。
「朝日が水面に当たってキラキラしてる! わっ! ここから王宮が見えるぞ! すごい! こんな方向から見るの初めてだ!」
絵が好きな彼は早速遠くに見える宮殿を描き写している。
「船に乗りたきゃ親父に頼めよてめー。なんで俺のとこに来んだよ。
ったく、面倒くせぇな~~~~」
そうは言ったものの、来たものはしょうがないのである。
普段は用もないのに出航出来ないが、今回は孫登がいたので特別許可された。
こうなれば半日船で寝てやると開き直れば、船上が好きな甘寧の機嫌はなんだかんだで直ってきた。
甘寧が甲板を舳先に向かって歩き出すと、孫登がついてくる。
船の人間たちは遠巻きだがまだ心配そうだ。
早くも積み上げられた木箱の上に陣取り、寝そべった甘寧の近くに、孫登がやって来る。
「んで? 実際のところ、俺になんか聞きたいことがあるんだろ?」
突然言われ、孫登は驚いた顔を浮かべたが、手に持っていた紙をじっと見てから意を決したようだった。
「
先日正式に、別の教育係が着任した。
陸遜はどうしたのか聞いたけど、それについてはお話し出来ないとか言ったから、初日から喧嘩したよ。
お前は呉の忠臣である陸遜に何が起きたかも分からないくせに私を教えようとしてるのか――知っているが、私が子供だから、何か聞けば方々で話すと思って信頼していないのか、どっちだと問い詰めた」
「おう。んでどっちだって?」
「答えなかった。答えるまでお前の授業は受けないと言ってやったら、逃げ帰ったぞ。でも
何でも聞いてるわけじゃない。陸遜は私の信頼する教育係だった。それを突然替えるなら、私にちゃんと説明するべきだ!」
リスのように王太子が膨れて、甘寧は吹き出した。
「そりゃ張昭が悪ぃな」
『陸遜』――みんな、最近その名を聞くとバツが悪そうな顔をするのに、甘寧は何も以前と変わらなかった。
やはり、彼となら話せると思った自分は間違っていなかったのだ。
以前、
甘寧はあんなに粗暴なのに何故将軍位に就けたのかと。
「あいつ口は悪いし私のことをチビだの餓鬼だの言って全然王太子として敬ってないぞ。
いくら戦場で役に立ったって、将軍というのは兵達の見本でもあるはずだぞ。
あんな行儀悪い奴がいたら何かと軍の風紀が乱れるじゃないか」
陸遜が笑っている。
「そうですね……そう言われると少し返答に困りますが」
「そうだろ⁉」
ですが、と彼は改まって正面から孫登を見つめてきた。
孫登は、陸遜の人を見つめてくる時の瞳がとても好きだった。
何かを話す時、彼は自分が言うだけではなく、相手の言う言葉とも向き合おうというような意志を見せる。
それが真っすぐこっちを見つめて来る瞳に現れているのだ。
それでいて言うことはきちんと話すし、何もかも相手の意見を聞いてやるわけではないけれど、それでも陸遜と話す時は、自分の言葉や意志を蔑ろに扱われているという感じがしなかった。
「甘寧将軍がどんな方が知りたければ、あの方をまず孫登様が信頼しなければ。
人は信頼する方に、自分の深い考えや真実の姿を見せようと思うもの。
私も会ったばかりの頃はあの方を理解出来ず、何故そんな振る舞いをするのかと思うこともありました。
しかしそのうち
それはその方達が甘寧将軍を信頼していること、その信頼の強さが私とは比べ物にないからなのです。
それ以来疑問に思ったり、理解出来ないと思うことはやめました。
まず信頼していることを私があの方に伝えなければいけないんだと思ったから」
今では甘寧も陸遜も、互いを本当に信頼していることを孫登も感じる。
「どこでも話したり、決してしない。
それは王太子の位に懸けて誓う。
ただ知りたいんだ。彼がどうなったか」
いつのまにか、甘寧の部下たちの姿は見えなくなっていた。
「……無事なのか、それだけでも、……知りたいんだ」
甘寧は寝そべっていたところから上半身を起こす。
「無事なのか分かるなら、今すぐお前にあいつは無事だから心配すんなって話してやるよ」
孫登の顔に不安が過る。
「生死が分からないのか……? 【
「まあ、色々あるんだ」
甘寧は船の縁に頬杖をつく。
今日は秋晴れだ。
気持ち良く晴れている。
陸遜が見上げる空も、晴れているのだろうか?
「……では……もうひとつだけ聞きたい。
もし生死が分からないのなら、皆そう言えばいいはずだ。
お前たちは国のために命を懸けて戦ってくれている。
それは戦場だけじゃない。平時からもそうなんだ。
私だって陸遜の生死が分からないくらいで、泣いたり狼狽えたりはしない。
何か難しい色々なことがあって、そうするしかないんだって」
孫登が孫黎の名を出したので以前陸遜が、孫登は幼くして失った母の代わりに、小さい頃から面倒を見てくれた彼女をひどく慕っているようだと言っていたのを思い出した。
(孫黎か……あいつもどうすんだろうな)
なんとなく、そう考える。
しかし彼女の場合は今の所だが、まだどちらの国で生きるか選べる。
普通は呉蜀同盟が決裂した今、すぐにでも
ということは彼女の心は
百歩譲って、もし万が一再び呉と蜀の関係が悪化した時に、自分が橋渡しになればと思ってるのかもしれないが、その点では甘寧は女の浅知恵だと思っている。
呉は周瑜と孫策を失って、
この勝利を、決して無駄にはしない。
孫黎が例え泣いて頼んだところで、それは変わらない。
(変えてたまるか、だ)
甘寧はとっくに蜀に残った孫家の姫には興味を失っていた。
「お前はどう考える?」
逆に問われて、孫登は驚いたようだ。
「確かにお前はそれなりに何を聞いても驚かない、そういう覚悟は出来てるようだ。
だが聞くことしか能がないわけじゃないだろう。
現時点でお前が思う、何かがあるはずだ。言ってみろ」
自分が試されているのだと孫登は気づいた。
相手に信頼されていると思えなければ、甘寧は決して本音を話してくれない相手だと陸遜が言っていた。
彼の人柄。
その背景、
実際言葉を交わして、自分自身で感じたこと。
「…………わからない」
王太子は言った。
「でもそれは、私が陸遜を知っているからだ。何も分からないからじゃない。
陸遜はあんな顔をしていても、意志は強い人間だ。
国のために必死に戦っていた。
それでもみんなが生死を伏せるのは、何か、変なことが起こってるってことなんだ。
でもそれが何かは分からない。
陸遜は国を裏切ったりしないし、
どこかで帰れなくなっても知恵と剣の腕で必ず戻ってくる努力をする人間だ。
あいつは何にもしないで諦めたりしない、それは分かっているから」
だから分からないんだ。
孫登はごく自然な消去法で、陸遜が許されもせず姿を消したから皆が口を噤んでいることを察している。
しかし陸遜の誠実な人柄を知っているから、納得がいかない。
筋は、通っていた。
「分かった。そこまで陸遜を信じてるお前には話す。
今、分かっていることだけだが。
お前を信頼してるから話すんだからな。他人には漏らすなよ」
孫登が瞳を輝かせて大きく頷き、一つ、甘寧の方に踏み出してきた。
「陸遜は行方不明だが、そうなる経緯に色んな疑問がある。
俺は敵の間諜や暗殺者の存在を疑っている。
だが、それについてもはっきりしない。
お前は陸遜は剣の腕があると言ったが、実際俺はお前の百倍はあいつの剣の腕は信頼してる。
並の間諜や暗殺者にやられるような奴じゃない。
今回のことは、何かがおかしい……」
「……だが今回のことは、本当に複雑なんだ。
お前さっき【
「
「そうか。じゃあ、あの戦いの蜀側の総大将が誰だったかは知ってるな?」
「
甘寧はあの戦いで、傷を負った龐統を抱き締めて、泣いていた陸遜の姿を思い出した。
「確かにあいつは裏切り者だ。
赤壁で蜀に降った。
……だが陸遜には龐統の死は
孫登は目を大きく見開いた。
「俺は敵のために泣いたことが一度もない。
そもそも奴らの為にいちいち泣いていたら、戦えなくなる」
それはそうだと孫登は小さく頷こうとして、甘寧の顔を見た。
ハッとしたのだ。
甘寧は小さく笑う。
「陸遜はお前のことは子供だけど聡明だと誉めてた。まあまだ全然チビだけどな。」
話が終わったように甘寧は木箱から飛び降りて、歩き出した。
「小一時間船室で寝てくる。お前は好きにお絵描きでもしてろ」
「甘寧」
孫登は呼び止めた。
「陸遜はお前を信頼してた。
強く、何があっても。
だから、何か出来ることがあったり分かったことがあったら、必ず陸遜の力になってやってくれ。これは命令じゃなくて、私からのお願いだ」
彼は手に持っていた布の中から一枚、差し出した。
甘寧は受け取る。
そこには窓辺に頬杖をついて書簡を見ている姿が描き出されていた。
「……おまえ本当に絵が上手ぇんだな」
素直な感想に、孫登は胸を張る。
「今頃知ったのか? 呆れた奴だ」
戦場とは違う、少し寛いだ
瞳を伏せた表情。
急にその姿に呼び掛けたくて、堪らなくなった。
名を呼べば顔を上げ、彼はいつも微笑んでくれた。
「やる」
憧憬を覚えるような姿だったが、孫登に返す。
「いらねえよ」
彼は背を向けて歩き出す。
「俺がそんなの部屋に持ってるの誰かに見られてみろ。
【鈴の甘寧】はすげぇ
考えもしなかった断り方をされて孫登は目を丸くしたが、数秒後吹き出す。
「甘寧! 私は、
陸遜は絶対に戻ってくる気がしてるぞ!」
彼は笑いながらそんなことを言った。
ガキは気楽でいいな……なんて呆れながら。
ふと、辛い時ほど笑えと言っていた
あいつは
周瑜の死。
孫策の死。
……そして龐統の死。
一つずつ増えていく苦しみや痛みを受け容れても尚、生きていきたいと思えるかは、結局そういう痛みを和らげる光のようなものを、心の中にいくつか持っているか、持てるかなのだ。
陸遜は自分を信じていたと、
この前やって来た
淩統や呂蒙もだ。
あいつは最後まで陸遜を信じていたから去ったのだと思う。
共に去ったことで、その心をあいつは示した。
陸遜は言葉で何でも語る人間ではなかったけれど、自分を信頼してくれていることを確かに感じた。
今、陸遜がいなくなって、道標となるべき光が失われて、甘寧の心は迷っている。
しかしその瞬間方々から、多くの人間がお前は強く信頼されていたのだからと声をかけて来る。
不思議だ。
(……まるであいつが)
どこからか、語り掛けて来てるみたいだ。
『私を信じて下さい。
私はここにいます。
私は生きてる。
かならず、貴方の許に戻ります』
甘寧殿。
陸遜のあの、静かに光る星のような琥珀の瞳を思い出した。
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