第10話 ミレイナ・アズベル
――――これは、油断していたね
帝国本陣の衛燐隊の救護ベッドの上に横たわりながら、彼の胸中はその言葉でいっぱいだった。
先の”戦禍の魔杖”による大技により、精神力も生命力も、削られ屍のように横になって戦場を眺めていた彼だったが、
少しなら、人の肩を借りて歩くことができる程度には回復したというのに、
――皇帝クラウス・アウグスト=ライエル=エーゼルバルドの眼前には公国兵が剣を構えている。
「公国の兵よ。其方たちはなぜ”戦う”?勝敗はもう見えているだろう?」
ベッドに腰を掛け、鋭利で深い碧色の瞳を10人の帝国兵に向ける。
剣を握る兵たちの喉が、ごくりと鳴った。
疲弊し、血に濡れた銀髪の青年――だが、その姿は敗者ではなかった。
むしろ、彼が“座している”こと自体が、帝国の勝利を示すように思えた。
「な、なぜ……さっきまでは虫の息だったのに」
「こいつは……人か……?」
クラウスはゆっくりと立ち上がった。
肩を借りるべき護衛を下がらせ、自らの足で。
そして、腰の双刃の剣を抜くと、静かに地面へ突き立てた。
――その瞬間、刃を中心に大地が鳴動し、空気が震える。
「……これが、帝国式勝利作法だ」
その言葉と共に、兵たちの影が歪み、地に縫い付けられるように動けなくなった。
恐怖ではない。支配だった。
「剣を捨てろ。そうすれば――せめて死に方を選ばせてやろう」
誰もが、声を失った。
死神が告げる“礼節”。それが、帝国における最後の作法だった。
クラウスの背後に佇む白衣を着た老人と、その横に立つ女……ネルフィは微かに笑みを浮かべている。
「お主達、安心しなされ帝国は死すらも”克服”できている。」
白衣を着た老人は、コツコツとクラウスの前に出ていく。
ただの老人に見える彼からは直感でわかるような強大な”死の気配”を感じる。
「ヒッ……」
クラウスの眼前に立つ一人の公国兵が、一歩下がった。
「ひっ……!? 死体が……立ち上がった!?」
崩れ落ちていたはずの帝国兵と公国兵が、ぎこちない動きで起き上がる。
目は虚ろで、声は無い。だが剣を握り、槍を構え、ただ命令を待つ傀儡となって。
「……安心しなされ」
老人は微笑みながら、杖を一度だけ地に突いた。
「帝国は死すらも克服した。――これが、我らの叡智よ」
背筋に冷たい刃を押し当てられたような恐怖が、公国兵たちを貫いた。
「馬鹿な……! 死者を……兵に……!?」
「こんなもの、戦じゃない……!!」
震える声で叫んだ公国兵のひとりが、恐怖を押し殺すように剣を振り上げた。
だが、その刃は届く前に――護衛の一人の一閃に断ち切られる。
静かな声が、戦場の残響を裂いた。
「……抵抗する者には、”選ぶ死”すら許されない」
その言葉と共に、この世の禁忌と冒涜、恐怖を浴びせされた兵らは一斉に剣を取り落とした。
帝国式勝利作法――それは、恐怖と礼節を融合させた、帝国流の“処刑儀礼”だった。
「まぁ、君たちには初めから”死”しか用意されていなかったけど……」
クラウスの声は、深淵そのものだった。
それは脅しではなく、ただ“事実”を告げるだけのもの。
公国兵たちは、一歩も動けなかった。
影に縫われ、足を奪われ、心を砕かれ――そして、魂までも帝国に支配されていた。
白衣の老人は深く頭を垂れ、囁くように言葉を継ぐ。
「これぞ――帝国式勝利作法。敗者に許されるのはただ一つ。静かに果てることのみ」
静寂。
血の匂いと、死者の呻きと、帝国の支配だけが満ちていた。
その光景を見た者すべてが、悟った。
帝国と戦うとは、すなわち――“死すらも従える力”に挑むことなのだと。
「……殿下、この”ハッタリ”もここまで行けば真実ですな」
レイナルドが、ため息をつくように言葉を吐くと、彼の背後で"死体”が倒れ、後ろから小柄な女2人が出てくる。
「まぁ、レイ爺。相手に無力感を押し付ける事こそが”復讐”だよ?……あとキミたち、お疲れ様」
クラウスは、そのまま救護ベッドへ倒れた。
死体を後ろから操っていた二人も疲れたように、その場に座り込む。
そうして、帝国は”第一回目”の奇襲に耐えたのであった。
***
「ふぅむ。奴らは成功しただろうか?」
その男は冷淡に、けれど慎重に言葉を零した。
彼はガナディア平原の北東部にて、わずかな部下を伴い、戦況を遠目に眺めていた。
「……こちらには、もはや手札も残っていない。それに――最愛の娘までも」
男の瞳に、わずかに揺らめく影が差した。
その影は怒りか、悔恨か。
だが、どちらにせよ、それは彼の決断を鈍らせるものではなかった。
「公国も、帝国も……いずれにせよ滅びを迎える。問題は、その後だ」
冷ややかな声は、風に溶ける。
部下の一人が口を開きかけたが、男の横顔に宿る鋭い光に、すぐさま沈黙した。
「しかし、ガリウスよ、その先よりも足元を見なければならない。
この現状をどうするかに公国の存亡は委ねられるはずだ。」
この中年の名は、マーザディウス・フォン・グヌラ・トリスタン……公国の大公爵だ。
昼間の戦いの指揮官は彼では無く……リヴェラの口車に乗せられたイルゼンだった。
しかし、この丘からも帝国の本陣の様子や戦況は一目両全で、突然の”血と鋼鉄の雨”が軍を襲った時に、悟った。
「勝ち目など無かった」と。4年前の戦争の少し前に大公爵となり国を治める事になった彼だが、王国の背を借り、帝国を侵略したことを自身の功績と”勘違い”をしていたと気づく。
「リヴェラ……」
その名を口にしたとき、マーザディウスの声にはわずかな震えがあった。
戦場の轟音も、燃えさかる炎も、その瞬間だけ遠ざかったように思えた。
「……あの子は、我々が知るより恐ろしい。帝国の若き皇帝に勝るとも劣らぬ“才”を持っている。
だが、その才は……私をも欺いた」
彼は拳を握りしめ、唇を噛んだ。
父として、守れなかった悔恨。
君主として、娘を「利用できなかった」後悔。
「――リヴェラがまだ生きているなら、公国はまだ滅んでいない」
「大公……!」と、部下の一人が思わず声を上げる。
「だが……生きていないなら。いや、たとえ生きていても……」
マーザディウスはゆっくりと首を振った。
「 “亡霊姫”という影に縋るしかない。そうだろう?」
その言葉に、部下たちは息を呑んだ。
それは公国の存続を賭けた決断であり、同時に父親としての情を切り捨てる宣告だった。
「帝国は、剣と”恐怖”で世界を制する。
ならば我らは、幻影と噂で帝国を喰らうのだ」
マーザディウスの瞳に、暗い炎が宿った。
それは悔恨から生まれた決意であり、亡国の君主にしか持ち得ない執念だった。
「……まだ、奇襲部隊は用意があるのだろう?」
彼の問いに、部下は小さく頷く。
「はっ。しかし……いくつご用意しましょう?」
マーザディウスは短く息を吐き、夜風を見上げた。
「――二つだ。ひとつは、帝国の本陣を焼くため。
もうひとつは……リヴェラを探し出すためだ」
部下の瞳が揺れる。
「……ご息女は、まだ……」
「生きていようが、死んでいようが構わぬ」
マーザディウスの声は、酷く静かだった。
「彼女は今や、公国の“旗”そのものだ。旗は、戦場に必要だ」
その瞬間、彼は父であることを捨て、ただの君主に戻っていた。
丘の上の風が、冷たく吹き抜ける。
***
「……あれ、殿下……?」
金色の髪を風に揺らしながら、馬上の少女――アリシアは声を漏らした。
その目は驚きに大きく見開かれていた。
帝国軍の衛燐隊は、本来なら本陣の護衛にあたるはずだった。
だが“殿下”の御業に魅せられ、血に踊り、公国軍への追撃に奔った――その代償が、これだった。
今、目の前の救護ベッドには、その皇帝本人が横たわっていた。
そして、まるで全てを愉しむかのように、彼は笑っていた。
「わっはははは……!」
その狂気にも似た笑声に、アリシアは目を逸らす。
その隣で、空の色に似た髪を揺らす少女が進み出る。リュミエルだ。
彼女は静かに頭を垂れた。
「クラウスさま……ごめんなさい」
それに対し、皇帝は微笑んだまま首を振った。
「ううん。怒ったりなんて、してないよ。
僕は《魔女の五指》には、それぞれ独自の指揮権を与えたはずだからね?」
殿下は視線を私の右隣にいるミレイナへと移した。
「……そもそも、本陣は落とせないはずだよ。
見てごらん。この公国兵の骸」
顎の先で見つめる地面には、無造作に積まれた公国兵の骸が30近く転がっていた。
どおりで、さっきから血の匂いと、どこか戦っているかのような緊張感があった訳だ。
「さっきので2回目の奇襲だったよ。
公国兵も可哀そうだよね。何も知らされずにただ”皇帝を捕らえろ”なんて一言で死ぬんだから
……僕ならもっと頭使うけどね?」
その一言が落ちると、場の空気が凍ったように静まりかえった。
アリシアが小さく息を呑み、リュミエルの肩がわずかに震えたのを、私は見逃さなかった。
けれど、その震えの中に――怯えではなく、誇りに似た何かがあることにも気づいていた。
リュミエルはゆっくりと顔を上げ、まっすぐクラウスを見つめる。
「……では、クラウスさま。あたらしい仕事をください」
「何かミスをしたら、次で補う……いいね、リュミエル」
「すべてを凍らせてきます」
空の色に似た髪が、風に舞う。
その瞳には、沈黙の誓いと、消えぬ忠義の炎が宿っていた。
殿下――クラウスはしばらくその瞳を見つめていた。
まるで、何かを測っているかのように。
そして、ふっと目を細め、優しく――あまりにも優しく微笑んだ。
「……うん。じゃあ、いいよ、リュミエル」
「次の標的は、北東の丘――“ナグノス砦”。そこにいる”誰か”を潰してほしい」
「え……?」
ミレイナとアリシアが息を呑む。
その拠点は、旧帝国の最前線にあった砦だ……ミレイナの父もそこで最期を迎えた。
「そこには、肥えた狸か、虚勢を張る狐がいるはずだよ。
あ……でも、あくまでこれは、君達の判断で進めて。僕が命じたわけじゃないからね?」
ひどく楽しげな声音。
けれど、その奥にあるのは、決して戯れではない冷徹な真意だった。
リュミエルは、小さく頷いた。
「……分かった」
その瞬間、彼女の背後にいる《魔女の五指》の一人――“呪縛のミレイナ”が笑った。
「クラウス殿下ったら私たちにメインディッシュを残しておいてくれたって」
「ふふ……じゃあ、行きましょうか」
風が吹く。血と鉄の匂いが、再び風に乗って流れてきた。
戦の幕は、まだ下りていない。
彼女達の中で”何か”が舞い戻ってきていた。
遥か昔に振り切って、忘れようとしていた"光景”や、再起した”決意”それに”理由”。
その全てが彼女達を包み込み、地獄へと優しく手を差し伸べていた。
***
”帝国歴426年”その年を聞いた多くの人間は顔を歪ませる事に間違いないだろう。
それは、刹那に生きている人間には聞かせてはいけない。
同時に、世界の常識が覆された年でもある……多くの人は”そっち”の方が好みらしい。
この世界……大陸西部の情勢が大きく変わり、従来の地図が使えなくなった。
全ては”壮大な復讐劇”による戦禍と恐怖……そして油断が招いた事だというのは有名な話だ。
復讐劇から、遡ること3年と9か月。422年も続いていた”帝国”の火は、半年にして勢いが虫の息へと変貌した。
この、大きく偉大なる大陸はアーマーのような形をしいて、左胸から右の脇腹に掛けて父なる山脈が広がっている
と伝承が残っている我々が住む西大陸の、山脈で囲まれている地域には、王国、公国、帝国、その他民族が集を成し国を設けていた。
しかし、帝国は西大陸の中央から山脈まで広く領地を持ち、王国は古の”魔女”との戦いで敗れ西に追いやられ、帝国が一番盛況で発展していた。
帝国が、山脈越えをし、東方へと行商を駆り出したころから帝国は西側各国からの不況を買うようになった。
山脈の端……右の脇腹のあたりで、南方や東方と交易で財を築いていた公国にとっては由々しき事態だ。
帝国が自力で山越えができてしまえば、公国が貿易の仲介をする必要がなくなり、”西方世界の玄関”と呼ばれ、
栄えていた国が廃ってしまうからだ。
それから程なくして、帝国は山脈に、通路を拓き東方の行商を呼ぶことに成功してしまう。
これに怒った公国は、王国の後ろ盾を借りて”宣戦布告”をした。
王国が表立って進行することになり、公国が隙を突くような形になった。
帝国は、急ながらも多くの兵を集う事ができ準備はできていた。
しかし、開戦と同時に帝国の四方には”脅威”が迫っていた。
東には、彼らが守るべき帝国の首都……アベルヘイト
西には、平原に布陣している王国兵。
南には、平原の南や国境沿いを荒らす公国
北には、攻め入り時と介入してきた、遊牧民。
ここまで、圧倒的な戦争は歴史上では初の出来事だった。
帝国は単なる”武”のみで戦をし、大敗を迎え……戦に参加した貴族や皇帝や将は処刑され、
帝国の運命は、若き未成年の皇太子に委ねられた。
その背後に”戦争に反対し降伏を進め捕らえられていたヴァルガス騎士団長”がいた。
無残にも、国としての機能を停止した帝国を公国に自分たちの町や砦を形成していった。
しかし、それは王国による第2の脅威になるとストップがかかり最小限に抑えられたが、帝国には公国人が多く住むことになった。
それから3年。突如として帝国……クラウス率いる新朝は、かつての戦地、”ガナディア平原”へと10万の兵で進軍した。
そして、帝国の進軍速度は”なぜか”異様に早く公国兵が気づいた時には陣が完成していた。
ハッタリだと思っていた公国も、北で蚊帳の外だった遊牧民も共に”生き地獄”見た。
再臨した帝国は”魔導”と呼ばれれる未知を操り、虚から火、水、霧、骸、氷など人智が超えた技で一斉に虐殺を可能にしてしまった。
――まるで、ガナディア平原に眠る亡霊が憑いているかのような化物じみた力。
公国は完全に油断しきっていた事もあり、わずか数刻で本陣と”公女”を失う事になった。
しかし、残った勢力で帝国の本陣を潰そうと集まった7万を超える兵も、儚く散った。
……そう。新皇帝クラウスによる厄災……【葬紅の涙】と呼ばれる御業は”ここ”が初だった。
一人で万の大軍を葬った、その血を操る”帝国式勝利作法”は完璧で”常識を覆す。
この出来事は、【ガナディアの夜明け】と呼ばれ、帝国の本格的な再臨を意味した。
帝国には”魔女”がいた。
多くの生存兵はそう言った。公国人も遊牧民も皆”パンドラの箱”を開けたと恐怖する。
【ガナディアの夜明け】で一番の大量虐殺者は皇帝クラウスだが、二番目は”ミレイナ・アズベル”だと聞く。
……俺も、この事を聞いた時は、思わず、食べていた夕食を吹き出して執事に叱られたものだ。
魔女の五指と呼ばれる”帝国の礎を築いた魔女の遺産”を授けられた貴族の内、彼女が恐れられたのには裏がある。
彼女……ミレイナ・アズベルは前線では無く後方支援や負傷者の手当てを担う1万人の規模の隊長だった。
その隊には【帝国の氷魔】や【戦塵の金風】といったビッグネームも属していたという。
ミレイナ・アズベルは、公国の大公爵であるマーザディウス・フォン・グヌラ・トリスラブを討ち取り、
同時に、その砦にいた公国兵を”地に還した”のだ。
「ふぅ……。今日は、このぐらいにしておこうかな」
――――こうして、貴族の屋敷、執務室にて”金髪”を揺らし、その少年はペンを静かに置いた。
***
「ねぇ、ミレイナ……大丈夫?」
北東の”ナグノス砦”が目と鼻の先に見えた頃……ミレイナの様子がおかしくなった。
砦を望む丘の上で、彼女は足を止めた。
白い吐息が、風にちぎれて散っていく。
「……アリシアも、ここには想い入れがあるんでしょう?」
アリシアはその問いに、一瞬だけ言葉を探すように視線を揺らした。
彼女の金色の髪が、冷たい風にさらわれて踊る。
「……あるよ。憎いし、悔しい想いがね。」
そう告げた声は静かで、けれど芯があった。
しかしミレイナは、砦を見つめたまま微動だにしない。
その眼差しは、まるで石壁の奥に埋もれた過去を、引きずり出そうとしているかのようだった。
「なら……私と同じよ……きっと」
ミレイナの唇から洩れたその一言は、氷のように冷たく、同時に深い痛みを含んでいた。
アリシアは言葉を飲み込み、代わりに拳を握りしめる。
丘の下、ナグノス砦は無言で佇んでいる。
それはただの石造りの要塞のはずなのに、二人の胸には、血と叫びの記憶を呼び起こす。
「……行くよ、アリシア。私たちでかたをつけるの」
「ねぇ……ボクのことわすれないでよ?」
衛燐隊の少数精鋭部隊の最前線にいたアリシアとミレイナの背後からリュミエルが駆けてきた。
「もちろん。リュミエルを忘れることなんてないわ」
それに続いてアリシアも口を開く。
「リュミエルったら……マイペースなんだから」
リュミエルは小さく唇を尖らせた。
「だって……二人とも顔が怖いんだもん。こんな時こそ笑ってなきゃ、砦の中の連中に飲まれちゃうよ?」
その言葉に、ミレイナの眉がわずかに緩む。
アリシアもふっと息を吐き、頬の強張りを解いた。
「……そうね。あなたがいると、少しだけ救われる気がするわ」
「でしょ?」と、リュミエルは胸を張る。
だがその笑みの奥、彼女の瞳には淡い決意が宿っていた。
この先で待っているのは、笑いだけでは越えられないものだと、三人とも分かっている。
吹きすさぶ風が、砦の石壁を撫で、低く唸る。
その音は、かつての惨劇を語る亡霊の声のようだった。
「行くわよ」ミレイナが短く言い、丘を下り始める。
アリシアとリュミエルも続き、三つの影を先頭に百を超える影は一つの流れとなって砦へ向かう。
――そこで、彼女たちは過去と対峙する。
血と誓いと、失われたものすべてを背負って。
***
「伝令!、伝令!」
慌ただしく伝令兵が声を張り上げる。
砦の厚い門の内側、石畳を震わせてその声が響き渡った。
大地を踏みしめながら走ってきた若い兵士は、息を荒げ、顔色を失っている。
「南西丘陵より――帝国兵接近! 小隊確認、【呪縛の魔女】、【戦塵の金風】、
【帝国の氷魔】……!」
報告を聞いた大公の眉がぴくりと動いた。
その名は、この砦にとってただの敵将の名ではない。
ここ数日で"公国”を恐怖させ、同胞を多く殺した”仇”だった。
――――――――――シャリシャリシャリシャリ、シャリンッ
「な……なんだ、まさか……本当に」
凍えるような”寒気”と同時に、南西の砦の”時が止まった”。
巨大な氷塊と化した。
もしもに備えていた公国の精鋭奇襲部隊。
砦の防衛を担っていた兵達。
周囲で休息をとっていた者。
その全てが氷ついた。
――メリメリメリ――
凍り付いた砦の向こうから、禍々しい手が無数に伸び、こちらに手招きをしている。
「つ……次は何だ?」
公国の”証明”であるマーザディウス・フォン・グヌラ・トリスラブは腰を抜かし天幕に這いつくばっていた。
天幕の出入り口から見えてしまう”氷塊”や見えてはいけない”死者の手”。
――砦の中にいた兵や将、それらすべての公国人は目にしてしまった。
否、見ざるを得なかった。
境地に追いやられ、決死の力で集まり防衛と奇襲を行い、火種は残っていた。そんな砦に降りかかった”災厄”。
――グシャッ、ボゴッ、ズド、ズドドドドドォォォォォォォ――――
”無数の手”は鞭のように唸らせ、氷ついた”砦”、”兵”、”馬”。その全てを破壊し始めた。
大地は震撼し、
数多の戦場を潜り抜けた老兵も腰を抜かし、
農民歩兵は失禁し、
砦の空は、粉雪と氷片で白く霞んでいた。
だがそれは冬の静謐な雪景色ではない――血と叫びを封じ込めたまま、粉々に砕かれた命の残滓だった。
ミレイナは丘の上、氷煙の向こうからそれを見下ろしていた。
その瞳は、怒りの炎を凍結させたように冷たい。
「……崩れなさい」
わずかな囁きが、大地に呪詛のように沁み込む。
――バリバリバリッ……パキィン!
砦の石壁が裂け、尖塔が斜めに傾ぎ、氷に閉じ込められた兵の体が鎖のように連なって崩れ落ちる。
無数の“呪縛の手”は、そのまま氷像を握り潰し、砦の心臓部まで粉砕していった。
馬の悲鳴も、兵の叫びも、すべて氷の中で掻き消される。
音を立てて砕けるのは、人の形をした氷塊――いや、もはや名も持たぬ亡骸。
「……やめろ……やめてくれ……」
マーザディウス・フォン・グヌラ・トリスラブは嗄れた声で呟いたが、願いは風にも届かない。
やがて、砦はその原型を失い、ただの氷の瓦礫と化す。
その残骸は、風に吹かれて雪と混ざり、どこまでも虚無のような白に紛れていった。
それでも”災禍”は留まる事を知らず、新たに現れた”手”が砦の中へと伸びていき、兵達を飲み込みすり潰していった。
氷塊の間から、さらに黒ずんだ氷の裂け目が開いた。
そこから現れたのは、先ほどまでよりも長く、禍々しくねじれた“手”だった。
その指先は爪のように鋭く、触れた瞬間に人も壁も同じ脆さで粉砕していく。
――ズシャァ……メリメリメリ……ッ
砦の中庭に避難していた兵たちは、その影が覆いかぶさった瞬間、動けなくなった。
足元から凍りつき、叫びが途切れ、全身が氷に封じられていく。
次の瞬間――握り潰すような音が響き、粉雪と血の微粒子が同時に舞い上がった。
「や……やだ……やだ……!」
若い兵の瞳が凍結し、恐怖の表情を張り付けたまま砕け散る。
それは雪嵐の中の硝子細工のように、美しくも惨たらしい破滅だった。
丘の上、ミレイナの表情は微動だにしない。
その白い吐息だけが、彼女がまだ生者であることを示していた。
「……まだよ。こんなものじゃ、足りない」
まるで彼女の心が呼び水となるように、 “手”はさらに数を増やし、砦の奥深く――指揮所や兵舎の残骸までも、氷と粉雪の中に沈めていった。
***
「……これは私の出番は無さそうですね。」
アリシアは、ミレイナとリュミエルを除く精鋭を連れて”砦”の出口を封じていた。
砦の内部では、氷と死の嵐がまだ続いていた。
轟音と悲鳴が入り混じり、やがてそれすらも凍りつくように静まり返る。
アリシアは砦の正門を背に、長剣の柄に手をかけたまま周囲を見渡した。
彼女の周囲には、選び抜かれた帝国の精鋭たち――無言のまま構えを崩さない兵たちが並び立つ。
誰もが、砦から飛び出してくるであろう生存者を、一人たりとも逃がすつもりはなかった。
「……誰一人、通すな」
その低い声に、兵たちは頷くだけで返す。
遠く、砦の中から氷の砕ける連続音が響いてきた。
時折、粉雪のような白い粒子が門から漏れ出し、アリシアの頬をかすめる。
それは雪ではなく、砦の中で命を落とした者たちの、最後の名残だった。
「ミレイナ……容赦ないわね」
アリシアは淡く微笑むが、その瞳は戦場の獣のように冷たく研ぎ澄まされていた。
***
「く……くるな!」
砦の奥、もはや何もかもが形を失い、瓦礫と氷の混沌となった場所に、まだ必死に身を守る兵たちが震えている。
その中には、大公マーザディウス・フォン・グヌラ・トリスラブも、膝をついて身を寄せていた。
ミレイナの足音が、静かにしかし確実に近づいてくる。
氷を踏み砕くたびに、周囲の空気は冷たく、凍りついた時間がさらに凍りつくように緊張を孕んだ。
リュミエルは何もせず、ただミレイナの後ろにぴったりと続く。
彼女の瞳は鋭くもどこか静かな覚悟を宿し、その存在はまるで氷の嵐の中心にいる冷徹な静寂のようだった。
兵たちは互いに顔を見合わせ、恐怖に震えながらも、その二人の影をじっと見つめる。
もはや逃げ場もなく、時間だけが刻々と過ぎていく。
ミレイナは、一歩一歩、かつての砦の残骸の中を踏みしめながら、じっと前を見据えている。
氷の魔女の冷たい息吹が、彼女の周囲にだけ降り積もり、凍りついた世界の真ん中で、ただ一人の支配者のように立っていた。
「あなたが公国の”肥えた狸”なのね?」
ミレイナ……呪縛の魔女が、確認するかのように、冷めきった声でつぶやく。
同時に、アズベル家の象徴である双頭の鷹の紋章の剣を腰から抜いた。
「ヒッ…………」
兵たちの息が凍りつく。
マーザディウスは震える声で、唇を震わせた。
「アズベルの鷹……お前、まさか、殺すのか?……」
ミレイナの瞳は氷の刃のように鋭く輝き、剣を静かに構えた。
「我が父を殺し、私から”安寧”も”平穏”も”家族”すらも奪った罪……命で償ってもらう。」
リュミエルは黙って後ろから静かに見守る。
彼女の表情には決して揺るがぬ信念が宿っていた。
氷の魔女が放つ冷たい気配が砦の廃墟を包み込み、死の静寂がその場を支配する。
マーザディウスの目に、最後の光が消え失せていくのを、誰も止められなかった。
マーザディウスの首は宙を舞い、同時に氷に呑まれ、目も当てられない顔だった。
ナグノス砦にいた、四千人の公国兵は、無残にも”皆殺し”にされ、
戦いは”終幕”を迎えた。
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