第3話_臆病な剣士、初陣

 朝の霧境神殿には、澄み切った静けさが広がっていた。空を覆う灰白の霧の中で、神殿の外縁に広がる霧原むこうはらが、まるで大地そのものを飲み込んでいくように蠢いていた。


 慎也は、神殿の武具庫で借りた簡素な革鎧と剣を装備し、足を重たげに動かしていた。


 剣を握るのも、戦うのも、初めてだった。


「お前が手伝うって言ったんだから、文句はナシね」


 結那の声は、どこか淡々としているのに妙な圧を帯びていた。


 二人の前方には、濃い霧の渦の中から、のそのそと這い出てくる影──霧獣むこうじゅうがいた。


 それは狼のような姿をしていたが、皮膚は透けていて中身は空洞、赤い光のようなものが心臓の位置で脈動していた。


「やるよ、見本。ちゃんと見てなよ」


 そう言って結那は、すっと霧原へ歩を進めた。


 驚くほど滑らかな動きで足を運び、霧獣の側面に入り込むと、一瞬で斬り払った。


 霧が裂け、光が走る。


 霧獣は断末魔を上げる間もなく霧散し、足元には何も残らなかった。


「ほら、こうやってやるのよ」


 振り返った結那の目は真剣そのものだった。慎也はその姿に息を呑んだ。


 だが、それと同時に、足が動かなくなる。


「……俺、無理かもしれない」


「言い訳はあと。次、来るよ」


 彼女の指差す方向から、再び霧獣が現れた。今度は二体、慎也の方へまっすぐ進んでくる。


「剣、抜いて」


「でもっ……怖い……!」


 正直に出た言葉だった。体が震える。手の中の剣が重く感じる。息が浅くなる。


 霧獣が二体、霧を切って迫ってくる。


「慎也!」


 結那の声が、耳の奥で炸裂した。


「剣を振って! 感謝する誰かのことを思い出して、その気持ちを込めて!」


 ──感謝?


 何もわからないまま、慎也の脳裏に、昔の記憶が浮かんだ。


 中学の頃、いじめられていたときに、声をかけてくれた教師。卒業式の日に、言えなかった「ありがとう」。


 なぜか、今それを思い出した。


 体が勝手に動いた。


 「ありがとう……っ!!」


 剣を構えて、一歩踏み込む。霧獣の一体が跳びかかってきた瞬間、慎也の剣が、それを斬った。


 紫の霧が光を弾き、散っていく。


 感謝の想いが、剣に何かを宿したようだった。


 ……だが、もう一体が残っている。


 足が止まった。視界が揺れた。もう一歩が出ない。


 そこに結那が現れた。


「次は私が行く」


 声とともに、もう一体も霧散した。


「でも、やったじゃん、慎也」


 慎也は、はぁはぁと荒い息を吐きながら、剣を見つめた。刃には、微かに淡い光が宿っていた。


「これが……感謝の力?」


「そう。たぶんまだ弱いけど、でも間違いなく、“力”だよ」


 結那がにっこりと笑う。


 その笑顔に、慎也の胸はほんの少しだけ、温かくなった。

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