第4話 新人 上野玲香

いつものように会社へ出勤すると、事務所で課長が呼んでいる。

「泉ちゃん、悪いけど、今から長栄へ行ってくれるか!松蔭庵の南側で新人の上野玲香さんが自転車と接触事故を起こしたんだ。今、班長が向かっているんだけど、お客さんが2名乗車しているので、そのお客を尾張旭まで送って行ってほしいんだ。だけど、料金はお客さんから絶対に頂かないように・・・後で料金報告してくれればいいから、頼むよ」


 上野玲香って初めて聞く名前だと思った。春樹は会社に女性運転手がいたなんて全く知らなかった。

 長栄とは守山区にある町名である。

 〃どんな事故だろう!どんな女性だろう!〃と思いながら事故現場に着くと、パトカーが1台止まっていた。

 会社の制服を着た女性と班長が警察官と話をしている。その向こうにはやはり、警察官と中学生くらいの男の子が話をしていた。

 班長と目が合うと「お客様を尾張旭まで頼むね」と言って年配の女性を2名、春樹のタクシーに乗せた。事故を起こした女性運転手も警察官と話しながら、こちらを見て頭を下げている。


 春樹はお客さんに住所を詳しく聞いて尾張旭に送った。お客さんの話だと、突然、左脇から自転車が飛び出して来たようだ。

 自転車に乗っていた中学生の男の子は 転んだ時に左足を擦りむいたとか、

その時、男の子は自転車をこぎながらスマホゲームをしていたらしいが、

そのスマホも地面に落とし壊れてしまったらしい。

 それで親に連絡をできずに困っているらしい・・・・・とか、60歳位の女性客達が、聞いてもいない事をペラペラと話をしてくる。


「お客様、大変でしたね、時間を取らせたようで申し訳ありません。

お怪我無かったですか?」 春樹は丁重に対応した。


「私たちは大丈夫よ、自転車に当たったと言っても、あの中学生が倒れたのを見て、どうしたのかしらって思ってたら、女性運転手さんが『今、自転車とぶつかりました』って聞いてわかったんだから・・・・・そんな、ぶつかった音もしなかったけど、なんでも、男の子がぶつかる寸前でハンドルを切ったって、言っていたけど、よくわからないわ、だけど、自転車に乗ってスマホゲームをしてたらダメでしょう」

 車内は事故の事で盛り上がっていた。それでも悪いのは車両になる。

 前方不注意とかで違反点数は2点、罰金は9000円だ、

 その上、女性客を尾張旭まで送っていった料金が加わる。

 相手の自転車やタクシー車両に傷でもつけば、その整備費用の20%は本人もちだ。

 また、中学生が怪我をして、人身事故にでもなれば大変な事だ。


 春樹も過去に事故をした経験があり その辺の所はよくわかっている。

 お客さんを送り届けると春樹は会社に料金報告をした。


「泉です、今、送り届けました。メーターを入れていないので料金請求はありません。以上」 課長はどういう事って、聞いてきた。


「新人の子にあんまり負担をかけたら、すぐにやめちゃいますよ。俺は別に、そんなお金はいらないのでよろしく!」


「泉ちゃんはそれでいいのか!しかし、メーターを入れないのはまずいぞ」


「課長の言わんとしてる事はわかっていますよ、だから、お客は歩いて帰ったとか・・・・・にしておいてください。そうそう、お客さんはどこも怪我はしていないと、しっかり、確認を取っておきましたので、あとから、どうのこうのは言ってこないと思いますよ、それに、コロナが流行った時に年配の運転手を大勢やめさせて、今、やっと落ち着いてきた時に今度は人が足らないって・・・・・求人募集出したって中々入って来ないんでしょう、だったら、もっと新人を大切にしないと、すぐやめちゃいますよ」

それを言うと課長は納得したようだった。


 翌日、出勤すると事務所で昨日の女性運転手がいた。春樹を見かけるなり、速足で寄って来て事故のお礼を言いに来た。

 長栄から尾張旭の三郷までのタクシー料金は大体4000円ほどだ。。それが消えただけでも本人にとっては嬉しかったのだろう。

「泉さん、先日はありがとうございました。課長があの時『泉さんで良かったな』って言ってました。本当にありがとうございました」


なんだか、珍しく礼儀正しい。だいたい、タクシーの運転手なんて自分も含めてろくなのがいない。だが、上野玲香はすごく新鮮に感じた。


「いいよ、別に、そんなに気にしなくてもタクシーは事故と違反とお客とのトラブルを如何に避けるか、それが一番重要だからね。大変だと思うけど、頑張ってね」

 新人の上野玲香は茶髪の長い髪を後ろで結んでいる。笑顔がとても、チャーミングだ。白と黒の横縞模様のTシャツにスリムなジーパン姿だ。


「今日は休み?」

通常、玲香がこの時間にいるはずがないので休みに違いないと思った。

春樹は夕方6時から朝方3時までの勤務、玲香は朝8時から夕方7時までの勤務なのですれ違いのはずだ。


「はい、泉さんに一言お礼が言いたくて待っていました」


「そう、それはご丁寧に・・・よかったらお茶でもしませんか」


「いいんですか!今から仕事じゃないのですか」


「少しくらい大丈夫だから、俺は事務所で勤務グッズを揃えてから行きますので先に天神下のイオンのコメダに行って下さい」


 春樹がコメダ珈琲店に行くと、中は空いていたのでドアを開けるとすぐに玲香と目が合った。軽く右手を上げて会釈をしている。


「イオンのコメダって言ったけど、此処、知ってた? 後になって、どうだったかなって不安になったよ」

春樹は座るなり、こう切り出した。


「知ってましたけど、入ったのは初めてです」

 ウエイトレスが注文をとりにきた。

「上野さんはコーヒーですか」

「泉さんは?」

「おれはブラックですが・・・・・」玲香はウエイトレスに同じものを二つ注文した。


「送って行ったお客さんに聞きましたけど、なんでも、男の子がスマホしながらぶつかって来たとか?」


「そうじゃなかったみたいです。男の子が目の前でひっくり返った時は

びっくりしましたけど、男の子は当たると思って、とっさにハンドルを切ったら、路側帯の穴があって、そこにタイヤがハマって転んだようです。

その時にちょっと接触したような気がしたのですが、結局、接触したかどうかも確認できていません。で、警察は自転車の単独事故にしたようです。

お巡りさんが言っていましたが、『正直な中学生でよかった、スマホの事は隠す子が多いもんだけど、いい子でよかった』って!何度も言っていました」


「そうでしたか、良かったですね、じゃ、おれが送って行ったお客に料金請求しましょうか」


そう言うと、上野玲香が本気にしたようなので、あわてて、

「冗談ですよ、冗談 」と言って笑った。春樹が切り出す。

「ちなみに聞いてもいいのかな・・・・・独身ですか」


「はい、独り身です。1度も結婚はしていません、1989年生まれ、今、35歳です。B型です。昨年11月に東京から移ってきました。以前の仕事は、ビデオ制作会社で働いていました。以上です」


 春樹は啞然とした。聞いてもいない事を、いや、少しずつ、当たりさわりなく聞こうと思っていた事がもう、わかってしまった。と言う事は次はおれが答える番だ。

「1989年ですか、俺は1985年、2つ違いですね、ついでに誕生日は

11月28日です、AB型 独身です、この会社に勤めて15年かな、

長い事、タクシーやっています。なんだか、お見合いでもしているような・・・・・」 春樹がこもる声で言った。


「あ、ごめんなさい、そんなつもりじゃなくて、たぶん聞きたいところは誰でもいっしょなので、どうせ、あとで聞かれるのなら、先に言っておいた方がいいかな~って」


「そうですね、知りたかったことです。なにも誤る事はありません。おれの方がいらんことを言いました」


 コメダの壁に掛けてある時計を見るともう、午後19時を過ぎていた。

「もう、こんな時間だ、そろそろ、仕事をしないと・・・・・」

春樹が伝票を手にすると、

「あ、ダメです、今日は私がお礼に来たのですから私が払います」

 と言って、玲香は伝票を取り上げた。

「ありがとう、じゃ、甘えるかな、今からどうするの」


「イオンで買い物をして帰ります、もし、よかったら、また会っていただけますか」


「あぁ、いつでも、よろこんで・・・・・」


「お仕事頑張ってください」

春樹は玲香に軽く手を振ると、駐車場へ早足で向かった。

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