二
霧に包まれた彼岸花の森をただひたすらに足を動かす。
先ほどから、辺りの様子は変わりなく、恐ろしいほど人気も無い。
「…なた、あの時の…えてる?」
「ああ、佐…た時の事だろ?」
しばらく歩いていると、何やら男女の声が聞こえてきた。声の方に体を向けると、仲睦まじい老夫婦が、岩に腰かけて談笑をしていた。
お二人の大切な時間を邪魔するわけにはいかないが、この場所の事について聞こうにも他に人の姿は見えない。恐る恐ると、彼らの方に足を踏み出した。
「おい、小娘。何をしている。」
いつの間にか、和服姿の長身の青年が杉の樹幹にもたれかかり、冷ややかな視線をむけている。肩まで流れる長髪は黒に近い灰色の黒橡を毛先の辺りで緩く留め、切れ長の瞳は茜色、左耳に輝く金の短冊のような耳飾りが垂れ下がる。髪と同色の黒橡の羽織に、燃えるような緋色から黒紅に濃淡が美しい着流しは、裾から生える彼岸花の模様がまるで生きている花そのもののように見えた。
「あ、いや、その…」
近寄りがたい雰囲気を醸し出す青年に気圧されて、私は指をこねてたどたどしく呟いた。
「大方、今の状況を知りたい。と言ったところか。今日は“
そんな私の態度を気にすることなく、彼は言葉を続けた。
「まよいびと…ですか?」
「この世に
「死者…?私は死んだの…?」
「そうだ。」
さらりと告げられた事実に、驚きのあまり、意識が遠のいたように感じた。
「私は、“彼岸の送迎人”ヒガンだ。小娘、名前は?」
「私の名前…あれ…?思い出せない…?」
思い出そうとすればするほど、思考がかき乱される。私は一体何者であり、どうしてここにいるのか。目の前が真っ暗になるのを感じた。
「…珍しいな。どうしたものか…取り敢えず、付いてこい。」
「迷人の最後のひとときは、例え同じ迷人であろうとも、邪魔をするのはこの私が許さない。」
ヒガンは、一瞬の沈黙の後、長髪をなびかせながら背を向けて歩き出した。
「は、はい。」
その背中は、私へと言うより、己への静かな怒りのように感じた。
***
「ここは…?」
彼の背中を追いかけて、鬱蒼とした森を抜けると、雲一つない青空が広がっていた。相変わらず広がる彼岸花の絨毯の上に、一棟の年季が入っているが、しっかりとした造りの平屋が目に留まった。
「私の家だ。一人ぐらい増えても構わない。」
「そんな、大丈夫ですって。」
一直線にすたすたと歩きながら簡潔に説明するヒガンに、駆け足で食らいつき、両手を振って断った。
「他に蘇芳で、寝泊りできる場所など無い。外で寝る趣味があるなら一向に構わないが。」
確かに、他の建物は見ていないし、私は虫が苦手なので外で寝るのは、大分ハードルが高い。
「…お願いします。」
故に、私には最初から断る選択肢などなかったのだ。
「そう言えば、名を忘れているのだったな。何と呼べば良いか?」
ヒガンは急に立ち止まったかと思えば、そう問うた。
「あ、そうですね…私では思いつかないので、ヒガンさんが付けてくれませんか?」
それに、覚えてないが、今までと全く違う名前にしたいと思ったからだ。
「…私がか?そうだな…シロはどうだろう。其方の髪はとても綺麗だ。」
それにヒガンは、目を軽く見開いて驚いたが、少し考える素振りをした後、そっと雪色の髪を一房手に取ると慣れた手つきでそれを耳にかけた。
「えっ…あ、ありがとうございます…!」
ヒガンの仕草にまごつきながらも、髪の毛を褒められたのは純粋に嬉しかった。私の名前はシロという事になった。
***
「シロ、適当に座ってくれて構わない。何か出そう。」
と、ヒガンは言い残すと奥の部屋へと消えていった。
「あ、はい。ありがとうございます。」
借りてきた猫のように茶の間の隅に立ち尽くしていた私は、まごつきながらも囲炉裏の側に正座した。
「…此岸の者の口に合うかは保障できないが。」
「しがん…ですか…?」
急須と湯呑みが二個、茶請けとしての
「現世または此の世…其方が元いた世界の事だ。ここは此岸でもなければ、彼岸でもない。その間にある世界とでも思ってくれたらいい。」
「は、はあ…。」
緑茶をすすりながらヒガンの説明に耳を傾けたが、まだ実感があまりなく理解が追い付かず。曖昧な返事となってしまった。
「…論より証拠か。特別に“彼岸の送迎人”の仕事を見せてやろう。」
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