-プロローグ-大陸を襲う異変
コロド・バァナ――
その大陸の、およそ半分の領地が、今やニヴオール王国の手の内にあった。
5年前……ニヴオール王は強力な軍隊を指揮して侵略戦争を仕掛け、数々の領地を併合。
それに抗うべく団結した諸国の、必死の抵抗の末、現在の勢力図が形作られた。
大陸屈指の大国であるニヴオールに、これまた大陸一の同盟軍が睨みを利かせ勢力の膠着を図っている。
その危うい均衡状態は、最後の戦い以降なんとか維持され、その間、大陸には平和な時代が訪れていた。
その最中、一つの国家が、地図上から消滅した。
コロド・バァナの中心から南方へ下っていくと、大地のヘソの如き盆地に出会う。
そこには砂漠が広がり、その一画に、小さな王国が存在した。
マデナ王国。
大陸中に伸びる貿易網の、一つの要である。
それが瞬く間に消し飛ぶ様を……シブシソという兵士は、目撃する羽目になった。
「よぅ、乙女シブシソ」
それが、彼が決まって投げられる、からかい文句だった。
シブシソは、誰もが見上げる巨漢である。
下手な大人の倍はあろうかという長身に、傷跡の目立つ黒い禿頭。着物から伸びる四肢は丸太のようで、汗に濡れた肌は刃物のように光って見えた。武装した彼と対面すれば、誰もが即座に委縮するだろう。
しかし、よくよく顔を覗けば、その目は丸っこく優しげである。小鳥を愛で、美しい声で歌い、争いに巻き込まれては、困って立ち尽くしてしまうような性格だった。
およそ兵士には向かない男。
それは彼自身が最も理解していたし、行動を共にする仲間らも、受け入れていた。彼に期待されているのは王国へ害意を抱く者ら(いるとすればだが)への牽制のみ。
けれども、それで充分。
かつて盛んに行われていた部族同士の衝突は、すでに絶えて久しい。
マデナ王国はニヴオール王国の傘下に収まり、その栄華と共に、安寧は約束されていると誰もが信じていた――
その日までは。
シブシソの属する兵団は、城壁の外を、馬に乗って巡回していた。
貿易のため、日常的に異国の馬車や傭兵が国土を行き交う。マデナ王国は、砂漠の管理者として、兵力を投入し、それらのルートを安全に保つ使命を負っているのだ。
全ては、いつも通りだった。
照り付ける陽射し。
砕けた骨にも似た、白い砂丘。
その向こうに底なしの青空が、熱波を受けて揺らいでいる……。
「…………ッ!?」
と、何の前触れもなく、大地が震えた。
砂山が崩れ、突風が吹き荒れる。
怯えて嘶く馬を、鍛えた腿で押さえつけながら、砂漠の兵士たちは瞠目した。
天を突かんばかりに、砂柱が上がっているのが見える。
太陽さえ覆い隠した白いカーテンは、しかし間もなく重力に従って降り落ちた。
刹那、それを引き起こした〝何か〟が、靄の中に垣間見え――
「なんだ……アレは?」
人影。
そう見えた。
否、そんなはずはない――何故なら、あまりに巨大すぎる。
化け物。
そう言い表す他に、何と表現できるだろう?
『グォ……ォオ、オオオオオ……ッ!!』
太陽の光を受け、その威容は赤銅色に煌めいていた。
額の一つ目が、爛々と光を放っている。
耳まで裂けた口には乱杭歯が並び、体の各所からは鋭い棘が突き出ていた。
体躯は痩せこけた子供のように細く、後頭部から背中にかけて一つ繋ぎになっているかのような形状が、しだれた樹木を連想させる。
『オォォ、ォォオオオオン……』
洞窟を風が吹き抜けるような、不吉な音。
怪物の声だった。
細い脚が、持ち上がる。
移動するつもりだ。
そして、その目と鼻の先に、マデナ王の居城が聳えている。
城を守る兵士たちが、すぐさま城砦から、矢や投石を見舞った。
だが怪物は、それらの攻撃を、まるで微風も同然に無視していた。
「ハァッ!!」
シブシソら兵団とて、王に仕える身の上である。
誰からともなく声を発し、馬首を城へ向けて、その腹を蹴った。
ただシブシソだけが、苦しそうに顔を歪め――
「すぐに追いつく!!」
仲間たちとは別の方角へ、馬を走らせた。
砂漠には、いくつかの遊牧民族が暮らしている。
ニヴオール軍に敗れ、散り散りとなった小数部族たちが、今や、あちこちを転々としながら暮らしているのだ。
果たして城から、いくぶん離れた位置にテントの集落が存在し。
彼等もまた、怪物の出現を受けて恐慌に駆られていた。
「シュリ!!」
シブシソは、すぐに目当ての人物を発見する。
遊牧民の若い女。
任務の最中に出会った彼らは、密かに逢瀬を重ねる仲だった。
「乗れ、シュリ」
「父と母が……」
「連れていけない!」
シブシソはシュリを鞍上に引き上げ、馬を走らせた。
行き遭う遊牧民たちが助けを求めて手を差し伸べるが、努めて無視する。
彼は人波を脱し、誰の手も及ばないところへ達すると、そこで馬を降りた。
「シュリ、このまま東へ走り続け、ニヴオールの砦に向かうんだ。そして王国の危機を知らせてくれ。聖騎士団の助けが要ると! 愛にかけて、伝えてくれ!!」
シュリは涙ながらに、共に来てくれるよう請う。
だがシブシソは彼女に手綱を握らせ、馬の尻を叩くと、踵を返して駆け出した。
「まさか、嘘だろ……やめろ、やめろ! やめてくれ……!」
砂丘を登って目にした光景に、シブシソは呻き声を上げる。
怪物は、やはり巨大に過ぎた。
ニヴオール王国の協力を得て組み上げた、高い城壁……その頂は、しかし奴の肩にしか届いていない。
そして赤銅色の腕が振るわれると、
それはガラス細工のように、呆気なく砕け散った。
「やめろぉ――――ッ!!」
シブシソは叫びながら、王城へ向かって走った。
途中ではぐれ馬を拾い、必死の思いで鞭を打つ。
だが彼は、あまりに離れすぎていた。
壮麗な建造物が粉々に砕けるのを、涙を流しながら見守るしかできない。
別れた兵士仲間たちの顔が、脳裏に浮かんでは消える。
祈るように注ぐ視線の先で、怪物の脚が振り上がり、城の中央塔が蹴り折られた。
……シブシソが城下へ辿り着いた頃には、もはや建物は、見る影もなかった。
馬を乗り捨て、粉塵の中に駆け込みながら、仲間の名前を呼ぶ。
だが、そこに返る声は、ひとつも無い。
「王は……王は、お逃げになったのか?」
と、シブシソは、ぬかるみに足を取られて転んだ。
彼は気づく。
足元の石畳に広がるのは、赤黒い血で。
その中にキラリと光るのは――マデナ王の家紋が刻まれた指輪。
そして、近くの大きな瓦礫の下から、豪奢なマントの裾が覗いていた。
「ぁ、あぁ……あぁぁ……っ」
と、膝を突くシブシソに、濃い影が掛かる。
見上げれば、遮るもののなくなった天井に、凶悪な顔が伏せられていた。
「……なんて、おぞましい」
シブシソは、忘我の呟きを漏らす。
凹凸の少ないツルリとした顔面、張り出した目玉に、大氷柱のような牙……。
それらが視界を占める様は、悪夢にしても悪辣すぎる。
……生暖かい息が、吐きかけられる。
シブシソは、その洞穴のような口が開かれるのを、呆然と見上げ――
「……あ?」
自分の名を、呼ばれたような。
そして、それは次の瞬間に確信に変わった。
崩れた城壁の向こう、小さくぼやけた黒点が、急速に輪郭を定めていく。
「シブシソ!!」
現れたのは、馬に乗ったシュリであった。
あろうことか、彼女は砦へは向かわず、恋人を助けるべく転進して来たのだ。
「シュリ!? いけない、来るな――ッ!!」
シブシソは絶叫するが、すでに遅い。
怪物の興味は、砂埃を上げながら接近してくる女へと向く。
赤銅色の長腕が伸ばされれば、瞬く間に、彼女は馬ごと、その指先に捕まった。
「やめろ!!」
シブシソは立ち上がった。
腰に佩いた曲刀を抜き、怪物の足下へ駆け、力いっぱいに斬り付ける。
「シュリに手を出すな! やるなら、オレを代わりに!!」
しかし怪物は動きを止めるどころか、痛みに呻きさえしない。
シブシソは泣き喚きながら、武器を振るう。
頭上から、恋人の金切り声が降ってくる。
「頼む、こっちだ! こっちを見てくれ!! やめてくれ、お願いだから――」
シブシソの剣が、砕け折れる。
同時に、怪物の巨大な口の中へ、愛しい人の悲鳴が、遠ざかって消えた。
そして脱力しきったシブシソの身に、邪悪な眼差しが戻ってくる。
赤銅色の手の平が、音もなく迫ってくる。
怪物はシブシソを掬い上げると、ゆっくりと顔の前まで持ち上げた。
両者の視線の高さが、並ぶ。
怪物の、ひし形の目の中心で、黄色い瞳がキュッと小さくなった。
それを、シブシソは失意の目で見返す。
彼は、ただ一言、問うともなく口にした。
「……なぜだ?」
回答は無い。
しかし怪物は、向けられた言葉の意味を理解していただろう。
シブシソは相手の目の中に、明確に嗜虐の色を見て取ったのだ。
ああ、笑っている。
こいつは、楽しんでいる。
この化け物は、どこか遠くの彼方から、オレ達を狙ってやって来たのだ……。
怪物は、シブシソを食わなかった。
その代わり、ひょいと放って捨てた。
怪物の頭頂を軽く越え、それを上回る速度で落下する。
シブシソは地面に激突し、
その体は、熟れすぎた果実のように破裂した。
***
石畳に飛び散った血だまりは、いつしか乾いて、くすんだ染みとなった。
それを、いくつものブーツの靴底が、踏みにじる。
「……惨たらし過ぎる」
かつて荘厳な城であった廃墟を征くのは、五十余名の騎士たちである。
彼らは一様に白銀の甲冑を身につけ、金色のマントで肩を飾っていた。
葬列のようだ。
彼らは兜の奥から惨劇の跡を眺め、グローブ越しに、崩れた石材に触れた。
「ただの魔獣の襲撃で、ここまで一方的な結果になりましょうか?」
「否。ここの兵力は充分だった。少なくとも普通の相手であれば、ニヴオールの常駐軍が援助に駆けつけるまで、持ちこたえるのは容易かったはずだ」
「では先の遊牧民が語った、怪物というのは、やはり――」
「無論、〝奴ら〟は見つけた――そう、見るべきだろうな」
騎士らの疑義に応え、隊の長と思しき男が、言った。
「危機が迫っている。神の名において、これを阻止しなければならぬ」
聖印を掲げた旗が、風に翻る。
「急げ! 一刻も早く、デュカード伯の領地に辿り着くのだ!!」
騎士たちは踵を返し、馬へと飛び乗った。
彼らは例外なく、遠く――
災いの足音を、聴き取っていたのだった。
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