留学生
国中の民の殆どが寝静まったある晩秋の夜、私はこっそりと宮を抜け出し、後宮と内廷の境にある堀の横の壁をよじ登っていた。私はここから見える景色が好きだ。鮮やかに光る夜市、暗がりに溶ける市井、眠ることを知らない花街。
足をぷらぷらさせ、壁の縁に座ってみる。決して落ちたいなんて願望がある訳ではない。けれどここに座れば、かつてこの深く幽い堀に自ら落ち沈んでいった妃達の気持ちが、少しだけ、ほんの少しだけわかるような気がするのだ。
「少し、冷えてきたな……」
寒い、そう思って宮に帰ろうと壁に足を掛けた時、遠くで舞っている人が見えた。まるで光っているかのようだった。美しい、綺麗だ、なんてそんな単調な言葉では表せないほどの舞。
初めてこんな感動する舞を見た。普段園遊会で見る舞とはまた違う。己の美しさを際立たせるため、周りの全てをを飾りのように扱っているわけではない。それでいて霞んで地味になってしまっているわけでもない。もっと近寄って見たい。そう私を思わせ、動かすのにこの舞は十分すぎた。
平和すぎる故か居眠りをしている衛兵を横目に見ながら、内廷と外廷の境にある香沙門を静かに通り抜ける。そして一人の踊り子のもとへと私は精一杯駆けた。
踊り子のもとに着いたとき、私はあっと声をあげそうになった。舞っていたのは女性ではない。同い年くらいの少し幼い男児。子供とはいえ男だ。身内以外の男には近寄るなとあれほど言われていたのに。
逃げなくては。言いつけを守らなければ叱られる。流石に主上……父様直々に怒られて仕舞えば私はもう宮から出ることなどできないし、下手すれば母様の一族の首がまとめて飛んでしまう。そんなことさせられやしない、そう思ってその場を離れようとした。
「誰だ、刺客か⁉︎」
子供にしてはよく通る、低い声がした。でもここに居るのはその男の子と私だけ。確実にその子の声だ。もう諦めた方がいいだろう。これ以上大声を出されて宮の者を呼ばれたら堪ったもんじゃない。
「私は……蒼冬宮の主、香沙国の第一皇女。貴方こそそこで何をなさっておられるのです?」
他所行きの声を出し、少しだけ圧を掛ける。幸いまだ此処には誰も居ない。さっさと済ませて逃げ帰ろう。そう自分を落ち着かせ、返答を待った。少年は手早く屋根から降りてくる。
「これはこれは失礼致しました。皇女様だったのですね。私は蘭星国から来た……明るいと書いてミンと申します。私は留学という形で、この鳴月宮に住まわせて頂いているのです」
留学生、か。身元はどうやらきちんとしていそうだ。
「それで……そちらの名前は?」
私の名前、それは軽々しく他人に教えられるものではない。
「……教えられないわ」
少し冷たくしすぎただろうか。いや、初対面の者だ。それにこの明とやらはせ鳴月宮に泊まっているとのことだ。留学生とはいえ高貴な立場。此奴もきっと蘭星国の帝やその血縁にこのようにあしらわれたことがあろう。
「じゃあ、名に使われている漢字を」
それならまだましなのかもしれない。
「雪と華。それしか使ってない」
「それじゃ私は雪に華と書いてセッカと呼ぶよ。そのまんまだけど、それなら君の真名を呼んだことにはならないだろう?」
セッカ。シェファ、という私の名と同じ字だが悪くはない。響きは綺麗だし、何より私の名前って感じがする。初めて他の誰かに皇女ではなくただの私として認めてもらえた気がした。
いつのまにか明の口ぶりがくだけている。そのくせ気にさせない妙な圧がある。
「うん、いいよそれで。よろしく、明」
「それは……気に入ってくれたってことでいい?」
明は少し悲しそうに問う。別にそんな心配することでも、気落ちすることでもないのに。
「いいわ、気に入った」
そう答えると、明ははにかむように笑う。出会ってそんなに時間が経っているわけではないのに何故だろう。随分と前から友人だったような気がして、嬉しくなってしまった。
「そういえば……明は何歳?」
自然と砕けた話し方になる。
「数えで十五だ」
まさか、七つも年上だとは考えもしなかった。私と同い年かほんの少し上くらいに思えるほどの背の低さ。五尺くらいしかない。私は思わず目をまるくしてしまう。
「それでその身長?ちっさ……」
「言うな、わかっている」
十五と言っておきながら、ぶすくれる姿はまだまだ幼い。
「雪華こそ何歳なのさ」
「私は八つ。まだまだちっちゃいんです」
今度は明が目をまるくする番だ。こぼれ落ちてしまいそうなほど大きく開いた瞳がこちらを見据えている。
「八つ⁉︎嘘だろ、この国の背丈はどうなっているんだ……」
何が可笑しいのか、明は頭を抱えながら笑いを堪えている。だがやはり耐えられなかったようだ。表情を隠しきれていない。
「ふふ、明はそんな風に笑うのね」
「いつもこんな笑い方をしているわけではない!」
怒ったような口ぶりも少し笑いが混じって角が取れたかのよう。こんな時間がずっと続いてほしくて思わず笑みが溢れる。
人の笑う表情をい見たのはいつぶりか。母上は笑顔を私に見せたことがないし、父様は遠目で見たことしかない。侍女の笑顔は全部作り物で気持ち悪い。市井の者が持つ、まともな家族のかたちが此処にはない。全部全部、この場所のせいだ、皇族として生まれてきてしまったせいだ、そう思っていたのに。
こんな気持ちの悪い宮廷で、笑顔を見せる明の姿はその名の通り綺麗で明るい。昏い泥沼のようなこの場所に揺蕩うひとつの火の玉。それが花火のように小さくはじけてあたりを照らす。
それはなんだか不思議で暖かい。それでいて私を寂しくも思わせる。
「ねえ、またあえる?」
思わずそう問う。出来ることならまた会いたい。立場が許さないなら諦めるけれど。
「うーん、君が望めばいつでも。気が向いたら此処に来てよ。私は……僕はいつでも此処に居るから」
これは諾と捉ってもいいだろうか。社交辞令のような気がする。
「じゃあ明日ね。子の刻、暁九つの鐘が鳴る頃にまたここで」
「いいよ、待ってる。夜は暇だから」
明の言葉にこくりと頷き、もと来た道を振り返る。
「ありがと、それじゃ私は帰るね」
返事を待たずに私は走り出す。帰らなくちゃ、番の交代する暁八つの鐘の前に。
明が私に手を振っている。そんな気配を感じつつ、私は振り返らずに駆けてゆく。
誰かに見送られるのは少し心地よい。自分を信用してくれているような気がする。何処へゆくにも誰かに見張られているような感じがしていた。けれど今はそれが誰も居ない。ただ一人だけが私を見送っている。
そんな些細なことが何故か嬉しい。花火のように何かがはじけ、物語が始まる音がした。
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