第二章 偽・乙女湯煙夢想曲 その九



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 超喫茶エウロパの乙女集会から一夜明け、俺は大いなる期待に心躍らせていた。疲労回復――とりわけ運動疲れに効くという薬湯を求め、情報通のスポーツマンたちはすでにその銭湯の常連になりつつあるそうだが、ならば、月ノ下商店街で稀代のスプリンターぶりを発揮したわが愛しの乙女がその湯船に入湯することは既定事項なわけで、俺は、濡れた黒髪を夜風に揺らし、カランコロンと下駄を鳴らす浴衣姿の彼女を妄想しながら、彼女にかけるべき第一声を、頭から湯気を立ち昇らせるほどに熟考していた。


 しかし、この妄想が授業への姿勢を欠く理由となってしまっては遠く旅立った父と、何より、日々、俺と妹を送り出してくれる母に面目が立たない。俺は、空想上の夜道を乙女と共に歩きながらも、国語教諭が記した板書を一言一句違わず手元のノートに書き写していく。


 ……それにしても、今日はやけに同輩たちが騒がしい。普段は教壇に立つ教諭が二、三度手を叩けば、彼らはまるで訓練された猿のように沈黙するはずなのだが、今日はいまいち統制が取れていない。


 その上、どういうわけか清潔さを保つことに微塵も興味がなさそうな同輩たちが揃いも揃って風呂の話をしているのだ。自分の興味があることは耳に入りやすくなるのだろうか。仮にそうだとしても、やはり話題が偏り過ぎている。果たして四十人近くいる男子生徒がまるで示し合わせたかのように一つの話題で盛り上がることがあるだろうか。それが若者の流行りに関する事柄ならまだしも、彼らが喋っているのはあろうことか、温泉街で新装開店した例の銭湯のことばかり……まるで自分の心を見透かされているようで気味が悪い。


 その違和感が事実だと分かったのは、昼休憩のチャイムが鳴ってすぐのことだった。


 ブロは仲買人ブローカーの略称だが、この日、彼はいつもならその姿を消してしまう昼休憩になってもなお在席し、周囲に群がる同輩たちを困惑の表情で見上げていた。


「おいブロ、あの噂は本当なんだろうな」


 ブロを取り巻く同輩の一人が言った。彼はしばらくの間、口をへの字に曲げて押し黙っていたが、やがて観念したのか、「そうだ」と一言呟いた。


「……忠告しておくが、あの銭湯には風呂に入る以外の目的で近づかないことだ」


 しかし、ブロの言葉が届くはずもなく、阿呆な同輩たちは互いに目を見合わせながら雄叫びを上げた。


「おいブロ、これはいったい何の騒ぎだ」


 見かねた俺はブロの下に歩み寄った。


「坊、聞いてくれるか。こいつら全員阿呆なんだ」


「そんなことは初めから分かっていることだ」


 俺とブロが揃って肩を竦めると、同輩の一人が声を上げる。


「おい坊、お前も興味があるだろ?」


「お前らが何に興奮しているのかは知らないが、俺は浴衣姿の乙女にしか興味がない」


「なら、丁度いい。お前からもブロに頼んでくれ」


 別の同輩がにやけ顔で両手を合わせる。


「俺たちはどうしても混浴風呂に入るための秘密の合言葉が知りたいんだよお」


 ……混浴。混浴とはつまり、裸の男女が全ての羞恥を脱ぎ捨て、一つの湯船で共に汗を洗い流すということ。


 俺は、夜道を行く浴衣姿の見返り乙女の妄想をすっ飛ばし、褐色素肌の湯煙乙女の妄想を脳裏に焼き付けた。


「ブロ、あの銭湯は混浴もしているのか⁉」


 俺は、自席で辟易としているブロにぐいと顔を近づけた。


「ああ、そうだったな。お前が一番の阿呆だった」


「乙女は運動ができる人だ。つまり、彼女はあの銭湯で汗を流しているわけだが……混浴風呂に入ることなど、俺は、断じて認めたりはしない」


「お前は娘の結婚挨拶を無下にする頑固親父か……分かった。分かったよ。そう俺を睨みつけるな。別に俺があの銭湯を経営しているわけじゃないんだ。事実はその目で直接確認してくればいい」


 ブロの言葉に、周囲の同輩たちは再び歓喜の雄叫びを上げた。


「じゃあ、混浴風呂に入るための秘密の合言葉を教えてくれるんだな⁉」


 同輩の一人がブロに聞いた。


「ああ……ただし、俺が教えるのは坊、お前だけだ。どうせこいつらが勝手に混浴風呂に行くことも許可しないだろ? だったら、お前が指揮を執れ。お前が同輩全員を引き連れて銭湯に行け。それが合言葉を教える条件だ」


 ブロは言った。同輩たちの視線が俺一点に集中する。


「……無論、引き受けよう。これも愛しの乙女のためだ」


 俺はブロが提示した条件に頷いてみせた。

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