第二章 偽・乙女湯煙夢想曲 その七



    ★



 ワタクシが坊兄様の凶行に辟易としていると、ライムちゃんの実母・けいさんが帰ってきました。彼女は洗い立ての髪を揺らしながら、「あら、いらっしゃい」とワタクシたちの方へと近づいてきます。


「年頃の男女が集まって、いったい何の話をしているのかしら?」


 恵子さんは聞きました。坊兄様は彼女に挨拶をした後、「重要な作戦会議です」と答えました。作戦も何も、ほかの三人は坊兄様の恋路に巻き込まれているだけなのですが、彼女は坊兄様の言葉に微笑むと、机上に一枚のチラシを置きました。


「恵子さん、これは……」


 坊兄様は聞きました。


「最近、温泉街の銭湯が新装開店したから行ってみたの」


 見ると、そのチラシはとある銭湯の広告でした。


「何でも、この銭湯のお湯には運動後の疲れを取る効能があるらしくて。高校生の子たちも結構来ていたわよ。よかったらみんなも行ってみてね」


 恵子さんはそう言い残すと、そのままカウンターの隣にある階段を上がっていきました。


「……銭湯か」


 坊兄様はそう呟くと、何かを閃いたのか話を続けます。


「商店街での身のこなしといい、乙女は相当運動ができる人だ。おそらく彼女はこの銭湯で日頃の疲れを癒やしているに違いない」


 坊兄様はそう言うと、チラシを持って立ち上がりました。それが合図となり、期せずして始まった集会は終わりを迎えました。


 坊兄様が『メメ』と呼んでいた彼は学生鞄を抱えたまま勢いよく立ち上がり、ワタクシにコーヒーの代金を手渡すと、「ごちそうさまでした!」と言って、喫茶店を飛び出してしまいました……何か重要なことを忘れているような気がするのですが、その疑問を考える暇もなく、今度は坊兄様がワタクシの顔を覗き込みました。


「ど、どうされましたか?」


 ワタクシは少しの動揺を抑えながら聞きました。


「……ふむ、そうだな」


 坊兄様はそう呟くと、ワタクシに背を向け、扉の方へと歩いていきます。カランカランと扉のベルが鳴り……クソ兄貴は背中越しに言い放ちやがったのです。


「おしとやかな格好も似合っているぞ――わが妹よ」


 パタリ。扉は音を立てて閉まった。


「な、ななな、ななななな――」


 ……この夜、ウチは危うく警察沙汰になるほどの悲鳴を上げてしまった。



    *



 ――ゲームセンター。それは現代娯楽の宝庫。そして、熱き電子格闘家たちの競技場よ。


 先週末、対戦相手の途中棄権という形でカードゲーム大会に優勝したわたくしは、不完全燃焼気味の闘志を月ノ下商店街のゲームセンターで焼却していた。もちろん、マドンナとしては立ち入ることができないから、今日もお兄様の私服を着て、頭にはハンチング帽を被っている。


 それにしても、やっぱり格闘ゲームは最高ね。自宅にはゲーム機を置けないから、ここに来るしかないのだけど、対戦相手を直接やっつける爽快感は、ほかには代え難い魅力があるわ。日夜ゲームセンターに通い詰めているわたくしは格闘ゲームにかなりの自信がある。普段は対面に座る相手の様子を窺いながら、トラブルにならないようにわざと負けることもあるけど……今日だけは違った。とある人物の顔がどうしても忘れられないわたくしは、対面に座る対戦相手に容赦なく勝ち星を挙げ続けていた。


 きっと坊と呼ばれる彼のことばかり考えてしまうのは、単にわたくしが、男っ気のない聖クレア女学園に通っているからに違いない……優勝賞品のカードを見ると、やっぱりあの男の顔が頭をよぎってしまうから、ついにわたくしはそのカードを戸棚の奥にしまい込んでしまった。乙女という一人の女性のために奔走する彼は……その、悪い男ではなかった。うん、悪い男じゃない……決していい男でもなかったけど。


 彼はわたくしの正体が聖クレア女学園のマドンナだと知らないし、再会する理由もないのだから、わたくしはこれまで通り、ストレスを発散したいときはゲームセンターやライブハウスみたいな、そういった女の子らしくない刺激的な場所で思い切り遊べばいいのよ。


 同じ格闘ゲームの筐体で遊び続けるわたくしはもう何度目か分からない勝ち星を挙げた。対面に座る対戦相手が筐体に小銭を投入し、画面がキャラクターセレクトに切り替わる。わたくしはこの筐体の前に座ってからずっと同じ対戦相手と戦っていた。顔は見てないけど、きっと相手はよほどの負けず嫌いかマゾヒストに違いないわ。


 さすがに気の毒になってきたわたくしは格闘ゲームをやめることにした。画面内のカウントダウンが続く中、わたくしはようやく椅子から立ち上がった。


「おい兄ちゃん、勝ち逃げか?」


 対面の筐体から発せられたその声は、男装したわたくしに向けられたものだった。見ると、筐体の陰から威勢のいいリーゼント頭が飛び出していた。やがてゆらりと立ち上がったその男は、りゅうせい高校の制服を着た、明らかに素行の悪そうな人物だった。彼の後ろには同じ制服を着た取り巻き二人が付いていた。一人はひょろりと細長く、もう一人は小柄だけど太っている男で、三人揃うと、まるで往年のギャグアニメに登場する悪の組織みたいな集団だった。


 リーゼント頭の男はわたくしが格闘ゲームに勝ち続けていたことが気に食わなかったようで、対面の筐体を指差して、「座れよ」と言った。


「……嫌に決まっているでしょ」


 わたくしは言った。


「ああん?」


 リーゼント頭の男は鋭い目つきですごんでみせる。


「俺が『座れ』と言っているんだ。さっさと座って再戦しろ。そして、俺に負けろ」


「何でボクが君に負けなきゃいけないのさ。それにわざと手加減してくれた相手に勝ったところで、そんなの面白くないじゃないか」


「だが、気分がいい。方法はどうであれ、俺が勝つことに変わりはないんだからな」


 男は、威勢のいいリーゼントをゆらゆらと左右に揺らしながら言った。


「残念だけど、まったく同意できないね。ゲームは互いが真剣に遊ぶから楽しいんだ。対戦相手を脅して勝ったところで、それはただの自己満足だと思うけど」


「分かったような口を利くんじゃねえぞ詭弁野郎。真剣にやった勝ち負けもただの自己満足だろうが……ヒョロ、ブッチ、彼を座らせて差し上げろ」


 男はそう言うと、わたくしのことを指差した。ひょろりと細長い方が『ヒョロ』、小柄で太っている方が『ブッチ』……安直なあだ名ね。きっとあのリーゼント頭の男が脊髄反射で名付けたに違いないわ。


 取り巻きの二人は「イエッサー、ヘッド」と言って、わたくしの方へと近づいてきた……どうやらあの男はヘッドと呼ばれているらしい。


「次の試合に負けた方が今日のゲーム代、奢りな」


 ヘッドの発言は明らかな恐喝だった。取り巻き二人はわたくしを拘束しようと近づいてくる。


 ――本当なら、わたくしはなりふり構わず悲鳴を上げることしかできなかった。たとえ周囲に男装していることがばれたとしても、マドンナとしての立場が失われることになったとしても、非力なわたくしには、格闘ゲームのキャラクターみたいに不良を打ち負かす力はないし、正々堂々と立ち向かっていく勇気もないから。きっとこれは自分を偽り続けたわたくしへの罰……体が恐怖で震え、大声で悲鳴を上げそうになった時、まるでヒーローみたいなあの人はまたしてもわたくしの前に現れた。

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