第6話 彼方からの来訪者
朝起きて髭を撫でるとパリッという音がして、侍衛ナバタイは自分の白い髭が凍っていることに気が付いた。彼はブルリと震えながら外套をかき寄せ辺りを見回す。風が吹くと落ち葉が土の匂いを運びながら宙を舞った。冬になろうとしている。しかし、と。ナバタイは髭に触れる。今年は随分寒くはないだろうか。
ナバタイがそうしていると、他の侍衛も起き出した。アリンを探すとその少年はとうに起きて自分の馬の横に立っている。近付いてくるナバタイに気が付くとアリンは馬を撫でながら尋ねた。
「今日はどこまで行く」
「順調に進めれば天下第一関山海関まで行けるはずです」
天下第一関山海関は帝国北辺を東西に走る長城の最も東に位置する関所である。アリン達が向かう東北地方に陸路で向かうには、この関所を通らざるをえなかった。長城南の帝国本土と長城北の東北地方との結節点である。
アリン達は出発した。夜明けから昼まで馬で進むとやがて彼らは平原に出た。遥か彼方に地平線が見えるほど広い平原。天に浮かぶ雲の影がまばらに草の生えた大地を横切ってゆく。空から見れば、黒い外套を着て進む彼らの姿はまるで芥子粒のように見えるだろう。
北へ目を向ければ天を衝かんばかりの峻厳な山々が雪を纏って聳え立っている。東は茫洋たる紺碧の大海。「初めて見た」とアリンは呟いた。内陸の都ギン・ヘチェンで育った彼にとってはいずれも音に聞くばかりだった。巨大な自然の中を彼等は行く。
夕刻まで進むと目前に天下第一関山海関が現れた。長城は東に広がる海にやや突き出し、山海関はその東端のごく近くに門を構えている。東は海、西北は高山に挟まれた関所。まさしくその名に違わぬ要地である。
山海関の門前に着くと、ひどく太った男が一行を出迎えた。ここの守備を司る司令官らしい。ナバタイはその男を見てよくこんな場所でああも太れるものだと思った。司令官は慇懃に一行を食堂へ案内すると料理人に食事の用意を命じた。出てきたのはほとんど水のような粥だった。侍衛が不満を唱えると、司令官は手を揉む。
「これ以上お出しできるものが無いのです。支給される銭が少なくて。都に帰ったら少しはここにも回すよう提言してくださいませんか」
無いと言われれば仕方がないので侍衛は引き下がった。
寝室は司令官室の直下にある一室だった。部屋の中には全く炭をくべておらず、外と変わらないくらい冷たい。侍衛達は文句を言いながら眠りにつく。ナバタイはアリンの方を見やって、その子供が外套を着たまま布団に包まっているのでさすがに哀れに思い司令官に直接話をつけることにした。
司令官は部下の何人かと談笑をしている最中だった。
「炭は無いのですよ」
司令官は困り顔で言う。司令官室には赤々とした炭がくべられていて暖かであった。
「嘘をつくでない。ここにあるではないか」
「これが最後です」
ナバタイは司令官の言葉を苦々しく思った。どう考えても嘘である。しかしここで咎めていたらきりが無い。
「悪いが分けてくれ。下では皆凍えている」
司令官は仕方がないといった様子で炭の一部を下の部屋へ持って行くよう部下に命じた。
「しかし、都の方に言ってくださいね。炭にも事欠く有様だと」
僅かな炭を部屋にくべてナバタイが眠りにつこうとすると、上から部下に喋る司令官の太い声が微かに聞こえた。
「どうせあんなガキすぐにおっ
ナバタイは思わず寝台から立ち上がった。しかし、その時小さな声が聞こえた。
「ナバタイ」
振り返ると起きていたアリンがナバタイへ手を向け指を下げる。構わないから落ち着けと言うように。ナバタイは寝台に座った。アリン様がどうお考えであろうとも、あやつは斬るべきではないのかと思いながら。しかし、強いて布団に包まる。このいまいましい場所からも明日になれば出てゆける。
皇帝アルハガルガの息子エルデムが宮中を歩いていた時、一人の官員が紙片を取り落としたまま歩き去ろうとしていた。エルデムはそれを拾って彼の元へ小走りで行く。
「これを落とされましたよ」
「あ、恐れ入ります。皇子」
官員は恐縮してそれをエルデムの手から受け取った。その官員は金髪碧眼で高い鼻梁を持っており、まだ三十にならないくらいだった。巻物や紙の束が腕から溢れそうになっている。
「すごい荷物ですね」
碧眼の官員は苦笑した。
「人手が足りないのです」
「お手伝いしましょう」
官員は焦った。
「そんな、皇子に運んでいただくなんてとんでもないことです」
エルデムは「構いません」と言って、その小さな手を広げた。官員はしばし躊躇したが、結局皇子が手伝わねば気が済まないという様子だったので少しだけ彼に荷物を渡した。
荷物を持った二人は宮中の大きな庭園を通り抜けてゆく。亭の周りを水路が巡り、さやかに流れる水が、陽光にきらめいていた。エルデムはその金髪碧眼の官員を見上げる。
「あなたのことは宮中で何度か見かけたことがあります。でもお名前を存じ上げません。お聞きしてもよろしいですか」
官員は頭を下げた。
「勿体ないお言葉です。私はルスタチオ・アルドロヴァンディと申します」
「ルスタチオ・アルドロ……」
官員は笑みを漏らした。
「長い名前ですね。どうぞルスタチオとお呼びください」
エルデムはこくりと頷く。エルデムは透き通る瞳でルスタチオを見つめた。
「では、ルスタチオ。一つお尋ねしたいのです。あなたは私達と少し顔や髪が違っているように思います。それはどうしてですか」
ルスタチオは皇子の幼い質問に微笑んだ。
「私は異国の生まれなのです。この国から西へ船で一年旅をしたところに私の国はあります。私がこの国に来たのは神の教えを広めるためなのですが、なかなかお許しが下りず、今はこうして宮中で天文のことを担当しております」
「神……。私達は天や山を拝みますが、ルスタチオの言う神とはそれとは違うのでしょうか」
「はい。違います。神には御意思があります」
エルデムは考え込んだ。未知の概念を理解しようと精一杯努力しているようだった。ルスタチオはその様子を見て、この小さな皇子を可愛らしく思った。
「お時間のある時に天文台へ来てくだされば色々とお話します。きっと皇子がまだご存知ないことが沢山ありますよ」
エルデムは目を輝かせた。
「本当ですか」
「はい。もしお許しが出るようなら今晩天文台へいらっしゃいませんか。今日は月が無いですから星がきれいに見えます」
エルデムはその場で飛び上がらんがばかりに喜んだ。
「父上に聞いてみます」
「是非とも」
庭園に降り注ぐのどかな陽の光が二人を包んでいる。この皇子と異国の宣教師との出会いが後の歴史において大きな意味を持つようになるのだが、そのことを今の彼らが知る由もなかった。
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