第5話 清濁

 ムドゥリ一族は族滅され、唯一死罪を免れたムドゥリの息子アリンも帝国東北辺境の地スンジャタへ流刑となった。アリンとそれを護送する侍衛達が帝都ギン・ヘチェンを発ってから半月後、ギン・ヘチェン守備董松とうしょうは宮中の朝政殿に参上していた。皇帝アルハガルガを運ぶ輿が黒い石畳の上を過り、陛を登って、玉座の前で止まる。アルハガルガは玉座の肘置きに手を置いて体重を支えると、腕の力で玉座に身を移す。董松は左に片方だけ残った目でそれを見る。

 皇帝アルハガルガが歩くこともままならないということは、大っぴらには口にされないものの、帝都ギン・ヘチェンである程度の身分にある者には周知の事実だった。アルハガルガの脚は彼の若い頃から震え、次第に動かなくなった。宮中に仕える医師や宣教師を一つ所に集めても治癒の方法が見えない奇病だった。

 董松は若かりし頃を思い出す。ムドゥリと董松が兵を動かす練兵場で、アルハガルガは一人木陰で大瞭の史書を読んでいた。武勇を重んじるデルギニャルマでは、ムドゥリのように戦場を自在に駆け回り、戦士として戦うことが求められる。しかし、アルハガルガにはそれが不可能だった。董松は今でも昨日見たように思い出すことができる。史書から時折目を移し、練兵場を見つめる、青年アルハガルガの暗い瞳を。

 兄ムドゥリの瞳が純粋な黒さを印象付ける一方で、アルハガルガの黒い瞳は拭いがたい暗さを感じさせた。董松は考える。自分に近しいのは、ムドゥリではなく、目の前にいる皇帝だ。しかし、実際のところ自分はムドゥリに惹かれ、この暗い男を厭うた。

 同族嫌悪なのかもしれませんがね、と内心呟く。

 アルハガルガは今、玉座の上に君臨する。一人では立てぬ男。それが、世界一の版図を誇る帝国の帝王として董松の前に在る。彼はその位を自らの手で掴んだ。それ自体を評価しないのは公平ではないだろう。その手段がどれ程黒く血に塗れたものであったとしても。

「董松を除いて、皆下がれ」

 アルハガルガは朝政殿にいる人間を全て退かせた。巨大な空間にアルハガルガと董松の二人のみが残される。董松は口の端を僅かに上げた。これはこれは、と。どうも、厄介な話らしい。


 アルハガルガの即位に伴って、アルハガルガの妃と子供は宮中に移った。アルハガルガの息子エルデムは宮中での暮らしの中、よからぬ噂を聞いた。その内容は、父アルハガルガが祖父である大行さきの皇帝を毒殺したのではないかというものだ。

 エルデムはその夜、姉のユエランの元へ行った。宮中の中でも最も瀟洒なその部屋を蠟燭の明かりが照らしている。ユエランは牡丹の花が刺繍された絹の服を着て、本を読んでいた。美しい顔に愁いが見える。

「姉上、アリンはスンジャタに着いたでしょうか」

 エルデムがユエランの椅子の前に立つとユエランは本を閉じ首を振った。

「アリン達はまだ北河を下りきってもいないでしょう。北河の河口からスンジャタまでは長城を越え随分東へ進まなければなりません」

「姉上が父上にアリンの命を助けるようお願いをしたのだと聞きました」

「そう」

 ユエランが目を伏せると彼女の長い睫毛が顔に影をつくった。

「本当は皆様をお救いしたかった。けれどそれは無理です。十歳の子供なら助命の望みがありましたから、アリンのことだけお父様にお願いしました」

 エルデムはムドゥリ一族族滅の知らせを聞いた時のことを思い出す。とても恐ろしかった。自分の見知った人達の命が潰えたということ、そしてその手を下したのが自分の父であるということが。エルデムは迷った末、今日聞いたことを姉に告げた。

「姉上、父上が大行皇帝陛下を毒殺したのだという噂が宮中に広まっています」

 姉は透き通るような大きな瞳でエルデムを見た。彼と同じ黒い巻き毛を持つ乙女。彼女は驚くべき言葉を発した。

「だから何だと言うのですか、エルデム」

 エルデムはたじろいだ。父の祖父殺しという話を聞いて、この優しく可憐な姉がよもやそのようなことを言おうとは思いもしなかった。

「姉上、けれどそれが本当なのだとしたら父上は大変な罪を犯したことになります。大逆です」

「だから、それが何だと言うのです」

 戸惑うエルデムに姉は常日頃の穏やかさをそのままにして語りかける。

「エルデム、仮に本当にお父様がそのようなことをなさったのだとしましょう。けれど今更それを言ったところで何になります。もうこの帝国の皇帝はお父様なのです。私達が一番に考えるべきなのはお父様を支えてどのように帝国の民を救っていくかであって、お父様を断罪することではありません」

「姉上、一体どうなさったのです、そんな」

 ユエランは石畳の床を見つめた。蠟燭の明かりが二人の影を揺らめかせている。

「伯父様一族の族滅、そしてアリンの流刑を聞いて私はとても恐ろしかった。お父様のなさることを……非道だと思いました。けれどだからこそ私たちは変わらなければならないように思います。いつまでも子供ではいられません」

 ユエランはエルデムの手を取った。まだ彼の手はユエランのものよりも小さく柔らかい。

「エルデム、あなたの名前の意味を知っていますか」

 エルデムはおずおずと答える。

「徳です、姉上」

「そう。徳とはなんでしょう、エルデム。清さを人に求めることでしょうか。罪を裁くことでしょうか。私は違うと思います。帝国の民に恵みを施すため、あなたには清濁併せ吞む人になって欲しいのです。お父様が間違っているなら諫めるべきです。しかし裁くべきではありません。それをしても最早帝国に混乱を生むだけなのですから」

「姉上……」

 エルデムの手を握るユエランの手は震えている。エルデムは知っていた。姉はアリンのことを慕っていたのだ。けれども今姉はそれでも父を支えようと言う。エルデムは姉の手を握り返した。

「分かりました。私は私の名にかけてお父様を支えます」

「もう一つ選択肢があるんですよ、お二方」

 突然割って入ってきた声に二人の兄妹は驚き振り返った。部屋の入口に一人の男が立っている。柱の影になっていて顔が見えない。長身の男だ。

「お父上を打倒して、自らが玉座にくんです。そうして仁政でも善政でも行えばいいんですよ。そうではありませんか」

 ユエランは弟を抱き寄せ、その顔の見えない男を睨みつけた。

「何者です。大逆不道のその言葉、首が飛びますよ」

 男は部屋の中に一歩入ってきた。蠟燭の明かりが彼の顔を照らす。

「いいのですか。私の首を飛ばして。清濁併せ呑むのではなかったので」

 男は右目が無かった。董松。ギン・ヘチェン守備の任を帯びた司令官にしてアリンの父ムドゥリ亡き今となっては帝国一の武将。

「董松なぜここに」

 董松はユエランに向かって皮肉げな笑みをつくった。

「帝国一の美女のお顔を拝見しに参ったのです、公主ひめさま」

 ユエランは訝しむ。何故この男は部屋まで入って来られるのだろう。一体部屋の外にいる宦官は何をしていたのだろうか。董松は肩をすくめた。

「怖い顔をなさる。それにしてもご立派なお話でした。けれど私が申し上げたことも真剣に考えられてはいかがです。皇子さまも公主さまも」

「口を噤みなさい、董松。それ以上言えばお前の命はありません」

 董松は面白がるような視線をユエランの上から下まで向けた。

「まあいい。今日はあなたがただの馬鹿可愛がりされている娘ではないということが分かっただけでよしとしましょう。しかし、あなた方の耳に入るほど噂が囁かれているのは少し異様な状況だと思いますよ。身の振り方はよく考えた方がいい」

 董松は踵を返しそのまま部屋から出て行った。後に残されたユエランとエルデムは蠟燭の薄暗い明かりの中沈黙するしかなかった。


 北河の濁流のその先には一つのまちがあった。河城かじょう。北河下流域の要衝にして、三重の城壁を持つ大要塞都市である。アリンと彼を護送する侍衛達は長城を越える前にこの城に立ち寄り、食糧などを補給することになっていた。夕刻、西からの赤い光を受けて河城は北河河畔に鎮座している。アリン達はどうにか閉門前にこの城へ入ることができた。

「罪人である皇族をスンジャタまで護送している途中なのだ」

 城の門番に侍衛の一人が説明すると、門番達は顔を見合わせた。

「しばしここで待たれよ」

 門から使い走りが城の中心に走って行く。

 使い走りが帰ってくるまでの間、アリンは城の様子を観察した。城の城壁はどの箇所もなおざりにされておらず、堅牢に高々と聳え立っている。門も厚く「難攻不落」という言葉はこの城のためにあるようなもの。駐屯している兵力の関係から帝国で陥落させるのが最も難しいのは首都ギン・ヘチェンだろうが、単に城だけとってみれば、或いは河城の方が落としにくいかもしれない。城の中も栄えていて、軍事的にのみならず商業的にも東方の要となっている都市だ。

 使い走りが帰って来た。

「提督の如冀じょき様が今晩は如冀様の私邸で過ごされるようにと」

 提督如冀は河城を含めたこの辺り一帯の武官の頂点にいる男である。皇族ということで城内に放置しておくわけにはいかないと判断したのだろう。侍衛達は相談してそれに従うことにした。

 如冀の私邸は城の中心部にあった。さすがに一般の民のものよりは大きいが、提督の家としてはこじんまりとしており、豪奢なところが無い。如冀自身は家の門の前で一行を待っていた。意外に若く怜悧な印象の人物である。隣には大柄で赤銅色の髭を生やした男が立っていた。如冀は一行に向かい礼をする。

「ようこそいらっしゃいました。長旅でお疲れになったことでしょう。手狭ですが今晩は私の家でお過ごしください」

 中へ通される。家の中も提督のものにしては質素だった。

「アリン様はこちらへ」

 如冀はアリンを邸宅の一室に通そうとする。それに対し侍衛の一人が異論を唱えた。

「いくら皇族とはいえ、その方は罪人。お一人にする訳には参りませぬ」

「ではそちらから一人来てください」

「私が参りましょう」

 白髭のナバタイが進み出た。

「よろしい、では」

 如冀と赤銅色の髭をした大男、アリンとナバタイは応接間に入った。

「どうぞお掛けになってください」

 アリンと如冀は並んで椅子に座り、両脇にナバタイと大男が立つ。如冀は十歳の少年に向かって堅苦しく、しかし柔らかい言葉をかけた。

「申し遅れました。私は河城提督の如冀、こちらの男は私の副官ギョワンと申します」

 大男ギョワンもアリンに目礼する。

「スンジャタへ行かれるとのこと、河城にいる私も聞き及んでおります。まだまだ遠い道のり、私にできますのは補給のお手伝いくらいですが、できる限りのことをさせていただきます」

「礼を言います、如冀」

 そこでアリンと如冀の目が合った。瞬間如冀の全身に寒気が走る。その少年は光をも通さぬ深淵のような目をしていた。数々の賊党や叛逆者を討ち取ってきた如冀でさえも見たことの無い目だった。

「……恐れながらアリン様、何を考えていらっしゃるのですか」

「何を、とは」

 アリンは異なことを聞かれたというふうに首をかしげてみせる。その素振りに如冀は更に寒気を覚えた。これは普通の子供ではない。

「何かお心の晴れぬことがあるようです」

 アリンは僅かに俯いた。

「ギン・ヘチェンからの長い旅、疲れが出ているのかもしれませんね。未熟なことです」

 違う、そんなことではないと如冀は思った。しかしそれ以上追及もできない。如冀は最後にせめてこう言うより他なかった。

「スンジャタは寒冷過酷な地。しかしどうかアリン様、穏やかに日々を過ごされますよう」

 自らアリン達を寝室に送った後、如冀は再び応接間に帰って来た。副官ギョワンはまだそこに立っていた。

「らしくなかったな」

 ギョワンは如冀を見下ろす。二人きりでいる時如冀とギョワンの間に上下の隔たりは無い。如冀はため息をつきながら椅子に腰掛けた。

「お前は何とも思わなかったか」

 ギョワンは口を曲げ首を傾げる。

「随分大人びた子供だと思ったがな。さすがに皇族は違う」

 如冀は顎に手をあてた。自分の取り越し苦労かと思った。しかし即座にその考えを打ち消す。あの感覚が間違いである筈はない。

「このまま彼等を行かせてよいのだろうか」

 如冀は何か自らの手中から巨大な禍が放たれようとしているように感じた。

「何だ、本当にらしくないぞ」

 如冀は目を伏せた。

「そうだな。私にはどうにもならん」

 流刑地に向かう彼らを留めるような権限は如冀には無い。分を越えず自らの職務を果たすこと、如冀が自らに課すのはそれだけであり、この男は忠実にそれを守ってきた。胸騒ぎは止むことがないが、彼にできることは決まっている。

「私達も休もうか」

 応接間を出る時蠟燭の芯をつまむと、微かに白い煙が立ち上り部屋は完全に闇に包まれた。

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