第8話 求婚

 床に何かが落ちる重たい音が響き、レイは欠損けっそんした『主人』の玩具がんぐを点検する手を止めた。

 人間の欲望を満たすためにささげられるもの、進んで『主人』に自らを捧げたもの、『主人』の目に運悪く止まってかどわかされたもの、それらは玩具にされて、気ままにもてあそばれる。

 壊れても直されることは、ほとんどない。

 むしろ、破壊こそが『主人』の手から逃れる唯一のすべであれば、壊された方が玩具にとっては幸いである。

 壊しては直され、直されては壊されを繰り返される『お気に入り』である方が、苦痛は長いのだから—――自分のように。

 レイは、オモチャ箱と呼ばれる部屋から続く『主人』の居室きょしつにノックして立ち入った。

 部屋に入ってすぐの正面には、巨大な鏡が見苦しくブレて明滅めいめつしている。

 き出しの鏡は、『主人』の見たいものを、その魔力を使って映し出す。

 魔獄界の勢力が強まっているこの時期、その鏡は以前より鮮明に精和界を映し出せるようになり、『主人』は興味深々で見入っていた。

 魔王の一柱・パズズが侵略しんりゃくに単身でおもむき、撃退げきたいされる一連の流れも、魔力の及ぶ範囲はんいであれば面白がってながめていた。

 ここ数日、そこに映し出されていたのは、フロリンダの醜聞しゅうぶんが広がる様だ。

 自分をかばったために、輝いていた彼女がみるみる黒い悪意に取り巻かれていった。

 せせら笑ってそれを眺める『主人』の背後で、レイは言いようのない苦痛を押し殺している。

 生き生きと世界を飛び回っていた妖精が、自主的ではあれ、風の宮に謹慎きんしんしている。

 風と共に自由に飛び回ることが最もしょうに合っているだろうに、どれほど息苦しい思いをしているだろう。

 そんな心身共に傷ついている彼女に対し、容赦ようしゃなく誹謗中傷ひぼうちゅうしょうは降り注いでいる。

 その事実は、自分でも信じられないほどにレイをさいなんだ。

 フロリンダを責め、なじる誰かの言動を目にするたびに、言いようのない怒りがいた。

 周りからどんどんひとが消えていくことを愉快ゆかいと笑う『主人』に対しても、改めてはらわたえくり返ったが、そんな自分の本意が知れればさらにあおられることになる。

 いつも以上に自己を押し殺して耐えがたきを耐え、なんとかやり過ごしていたが、今、視線の先でこの世の誰よりも憎悪する『主人』が床に倒れ伏している。

 定位置のソファに座ってもいられずに、小柄な身体を絨毯じゅうたんの上に投げだしていた。

「どうされました」

 レイがかたわらにひざをついて冷静な声をかけても、すぐには反応が返ってこなかった。

 目を見開いたまま、その口のはしにはあわがたまっている。

 これまで、ここまでひどい姿を見たことはなく、レイはいささか戸惑とまどった。

「クソッ………限界か…」

 あごを震わせて、主がごく小さな声で悪態あくたいをついた。

「どうやら、少し、眠りが…いるようだ……レイ、屋敷やしきの守りは、任せた…よ……」

 やっとのことで言って、『主人』はがくりと力を失って目を閉じる。

 眠っている間、主の領域である屋敷は、同胞どうほうという名の外敵に狙われやすい。

 ゆえに、『主人』は眠らない。

 それでも眠るということは、そうでなければ取り戻せないほどのダメージを受けたということだ。

「かしこまりました」

 床に転がった『主人』をそのままに、レイは淡々と応じて立ち上がる。

『主人』はレイが、眠っている隙をついて裏切るとは思っていない。

 裏切れぬように、先手を打ってあるからだ。

 レイが取り戻したいと願う者たち全てには、主しか知らないのろいがかけられている。

 それをあばいて呪いを解かない限り、無理に動かそうものなら即時、一族はすべて無残むざんな死に至る。

 レイは美しい人形にされた父母、ひとりの従姉いとこ、そして弟に目を遣った。

 音もなくきびすを返し、残った血族の間近に立つ。

 舞台に見立てられたそこで、淡い光を当てられて芝居じみたポーズを取るひとつ—―自分のすぐ下の弟、クラウスに顔を寄せた。

「ユリアは、お前を探して、待ち続けている」

 唇を動かさず、その耳元にささやく。

「必ず呪いから解放する。どんな手を使っても」

 微笑む表情で固定されたクラウスの瞳が、微かに揺れた。

 目尻に、粉雪のきらめきが生まれて消えていく。

「奴の手先になって動く僕にはもう、長になる資格はない。父を継ぐのはクラウス、お前だ。耐えてくれ。頼んだぞ」

 クラウスの瞳がさらに揺れて、粉雪がはらはらと頬に落ちる。

 涙を流す、それが人形にされた家族の、たった一つ許された感情だった。

 すでに長の血に連なる親族は呪いを受けたまま従姉ひとりを残して息絶えて、今や、父母もだいぶ衰弱すいじゃくしている。

 一刻いっこくも早く呪いを解かねばならない。

 しかし、そのすべを明かさぬまま、『主人』に死なれては元も子もない。

 強引にことを運べば一瞬にして全てを失うことがわかっているから、レイは動けないのだ。

 結界を強化するために意識を集中しようとした時、鏡が耳障みみざわりな音を立て、切れ切れの画像を映し出した。

 そこには、黄金の翼を背に持つ、立派な体躯たいくの美丈夫に手を取られる、美しい装いのフロリンダの姿が垣間見えた。

 黄金の翼となれば、迦楼羅王かるらおうであろう。

 神獣しんじゅうの一族のひとつである迦楼羅族の王がフロリンダに心を寄せていることは、『主人』も知る情報であれば、レイも把握はあくしている。

 高貴で堂々とした姿は、フロリンダと並ぶと似合いの男女に見えた。

 不意に迦楼羅王が動いて、フロリンダの華奢きゃしゃな体を抱きしめる。

 金と銀のきらめきが、レイの双眸そうぼうを射た。

 刹那せつな、胸にげるような不快感が弾ける。

 出会ったことのないその感情を、奥歯を噛みしめて抑え込み、引き剥がすように画面から顔を背けてレイは、命じられたとおり、屋敷に強固な結界をほどこした。

※※※

 音瀧の飴を口にした時からカタリーナは寝込み、あくる日には、またニコラも熱を出してしまった。

 正直、カタリーナはおとなしく寝ていてくれるとありがたいが、ニコラの具合が悪くなるのは困りものだ。

 ずいぶん元気になったと油断して、外気に長く当たり過ぎたせいだろう。

 フロリンダは、人間の体力をきちんと把握はあくしていないおのれを責めた。

「ママがきちんと気を付けていなかったからだわ。ごめんね、ニコラ」

 熱を帯びた短い呼気こきり返しながら、ニコラは枕の上でかぶりを振った。

「ママのせいじゃないよ。ママとお散歩するの、うれしい」

「ありがとう。もっとあたたかい衣装いしょうを用意しましょうね」

 いじらしいニコラの姿に、愛しさが胸にこみ上げる。

 熱いひたいでると、ニコラは嬉しそうに目を細めた。

「ママ、僕、ずっとママといるね。僕、ママがいちばん好き」

「ママもニコラが大好きよ」

「僕、ママを大事にするから、ずっとそばにいてね」

 幼い子ども相手にさえ、いい加減かげんな約束はしたくないフロリンダは曖昧あいまいに笑う。

 ニコラのことは、自分の足で地に立って、自分で未来を選択していけるように育てるつもりだ。

 それが一人前になるということだと、フロリンダは思っている。

「まずは元気になりましょう。でないと、薔薇の咲くのを見たり、雪だるま作ったりできないわ」

「雪、降ったの?」

「少しね」

「早くげんきになるね」

となりのお姉さんも寝てるから、どちらが先に元気になるかな?」

 冗談めかしてフロリンダが言うと、ニコラは小さい鼻に皺を寄せた。

「…僕、あの姉ちゃん、あまり、すきじゃない」

「あら。なぁぜ?」

 カタリーナとは、まだ顔を合わせて紹介するくらいの接触せっしょくしかしていないのに、不思議に思ってフロリンダはたずねた。

「ママをこまらせるから。ほかのひとが、あのお姉ちゃんのこと話してたの、聞いたんだ」

 フロリンダはかすかに顔をくもらせる。

 風精は、得てしてお喋り好きだ。

 宮仕えの誰かがカタリーナの話をしていたのを、ニコラは耳にしたのだろう。

 —……子どもだと思って、油断してはいけないわね……。

 人間の子供だから余計にあなどられたのかも知れないが、子どもは大人が思う以上に周囲のことを理解している。

「カタリーナも、つらい目にあってまだ心が安定していないのよ。ニコラも仲良くしてくれたら、気分が変わって元気になっていくかもしれない。ママも仲良くなれるように頑張るから、応援して?」

「うーん…ママのためなら……」

 次第にうとうとしてきたニコラは、ごにょごにょと口元を動かしながら眠りに引き込まれていく。

「ママにも、ぼくを、いちばん好きになってほしいもん……」

 甘えた言葉を最後に、ニコラは寝入ねいった。

「可愛いこと言ってくれるわ……」

 フロリンダはやわらかな頬にキスをして、ニコラの柔らかい髪を撫でた。

 妖精には、捨て子や、はたまた気に入った人間の赤子をさらって育て、自分の恋人にする者もいる。

 心身ともに立派に成長し、魂も磨き上げられたならば、妖精王と女王の祝福を受けティル・ナ・ノグ常若の国に迎え入れるれいもあった。

 そうなれば寿命も人間のことわりから外れ、末長く、愛する母であり恋人でもある妖精と連れうことができる。

 だが、フロリンダはニコラをそのような存在にするつもりはなかった。

 次期女王として養育されたフロリンダが選ぶ相手は、次代の妖精王となるからだ。

 命は女から生まれる。

 ゆえに、自然の巡りを司るティル・ナ・ノグ常若の国では、女王が生まれ、女王によって王が決まる。

 それが、王と女王に受け継がれることわり

 たわむれにいくつもの恋を楽しむ妖精もいるが、フロリンダのしょうには合わない。

 大好きな相手は無数にいるが、未だ、恋をしたことはない。

「アルスが妹ちゃんの独り立ちに気をんだ気持ちが、ちょっとはわかるなぁ…って、気が早いか」

 笑って独りち、フロリンダが立ち上がると、耳飾りがリンと鳴り、緊急の知らせを伝える。

『フロリンダさま~、大変ですの。急な大物のお客さまデスの~』

 プリムラの慌てた知らせを受けて、フロリンダは飛び上がるように驚く。

璃守リシュさまが美惟那姫ミイナひめともなって、こちらに向かっているですって!?」

 先触れもなしの突然の訪問とは、折り目正しい璃守らしからぬ性急せいきゅうさだ。

「何はともあれ、失礼のないようにお迎えしないと……」

 フロリンダは侍女じじょを呼び、ニコラの看護かんごを頼んだ。

 素早く誰に見られても恥ずかしくないような身支度を整え、出迎えのために南門へ急ぐ。

 途中、カタリーナの様子をうかがった。

 彼女は目を覚ましていて、フロリンダに気が付くと、いかにもつらそうに顔を振り向けてきた。

 昨日のようなことがあってはいけないと思い、フロリンダは部屋に入って声をかける。

「また急なお客さまの来訪らいほうがあるの。王の称号をお持ちの方だから、今日はのぞきっこナシね?」

 努めて明るく冗談めかしてくぎをさすと、カタリーナは薄い唇を小さく動かした。

「……フロリンダさまは……本当に…たくさんの方に……したわれていますね……私とちがって」

「私は役目上、あちこちを飛び回るから、必然的に顔が広くなるのよ。あなたも元気になったら、あちこち連れて行くわ。世界の色々な所を見てみましょうね」

 答えを待っていたら、また自虐じぎゃくとレイへの執着とを織り交ぜた恨み言を語り始めるだろうと、フロリンダは言い置いてさっさと退出した。

 物言いたげなカタリーナの視線を背中に感じたが、今は迦楼羅王兄妹を出迎える方が優先だ。

 薔薇の庭園を抜けると、シャルロットが先に来て、待機たいきしていた。

 フロリンダが門のかたわらに立つとほどなくして、黄金の翼を広げた璃守が門先の足場に降り立った。

 腕の中には、ティールブルーのモスリンのドレスを身に纏った美惟那ミイナがいる。

 緑がかった鮮やかな青いドレスは、彼女自身はもちろん兄の璃守の髪色や羽も、より際立きわだたせて美しく見せていた。

 驚いたことに、亜仁玖アニクともをしている。

 色とりどりの六角形の石を敷き詰めた足場に音もなく降り立ち、璃守は美惟那を下ろすと、フロリンダに微笑みかけた。

「フロリンダ姉さま!!」

 美惟那が駆け寄ってしがみついてくるのを、抱き止める。

「わたくし、姉さまが心配で心配で……居てもたってもいられなかったの」

「ありがとう。迦楼羅族の皆様には不義理ふぎりをしたのに……」

「姉さまが意味もなくしき者をかばうとは、わたくしは思わないわ。きっと理由がおありなのでしょう?わたくしは信じています」

 意気込いきご美惟那ミイナの細い肩に、璃守の優しく大きな手が乗る。

「これ、美惟那。ご挨拶もなしに、そのような振る舞いは王族に相応ふさわしくはない」

 フロリンダは美惟那を抱き上げて微笑み、やんわり言葉を返す。

「高貴な身分の方であれば、礼法れいほうも大切でしょう。ですが、私を心配しての振る舞いですから、今回は大目に見てさし上げてくださいな」

 フロリンダの言葉に、璃守は小さく苦笑してうなずいた。

「私も、先触れもなしの突然の訪問した身でした。妹のことはしかれないな。どうかお許しください」

 常と変わらぬ穏やかな口調でびる迦楼羅王・璃守に、フロリンダは軽く膝を折り、かぶりを振る。

「とんでもない。本来なら、お便りだけではなく、私の方がそちらにお詫びに出向くべきところですのに…。不祥事ふしょうじを起こした身ではかえってご迷惑になると思い、遠慮していたのです」

 フロリンダは丁寧に言って、高貴な兄妹を風の宮に招き入れた。

 きょろきょろと興味深げに顔を巡らせる美惟那の様子が可愛らしくて、フロリンダの心が和む。

 —……いとけない存在を愛しく思う妖精の性には、あらがえないなぁ。

 そんなことを思いつつ、昨日、ロゼッタたちを招いた応接室ではなく、もっと奥まった貴賓用きひんようの部屋に一行を案内した。

 めったに使うことはない部屋だが、釘を刺しておいたとはいえ、昨日のように他者に気安くのぞかれることのないよう、そこを選んだ。

 フロリンダは美惟那を、細やかな模様を織り込んだソファに下ろす。

 隣り合った美しい猫足のそれを璃守に勧めても、自分は席につかず、まずは深々と頭を下げた。

「改めて、ご厚意こういどろを塗るようなことをしてしまったこと、お詫び申し上げます。迦楼羅王さま。亜玖仁にも、本当に不義理なことをしてしまいました」

「どうか、頭を上げてください。あなたを責めるために訪れたのではありません」

 璃守は慌てて立ち上がり、フロリンダの両腕に手を置いた。

 顔を上げると、甘い苦笑いが間近にあって少したじろぐ。

「今日は、美惟那もですが……亜仁玖も願い出て、ここに来たのです。どうか、まずは彼の話を聞いてやってはくれませんか?」

「亜仁玖の?」

 フロリンダは驚いて目を丸くした。

 璃守の背後に控える亜仁玖は、いつもながらの生真面目な表情を崩さぬまま、深く頷いた。

「どうぞ、あなたも座ってください。レディを立たせておいて、私が座ることなどできません」

 そっと背を押して促され、フロリンダは璃守の向かいの席に着く。

 背の低いテーブルの上では、プリムラが支度してくれたお茶と焼き菓子が、かぐわしい湯気をたてていた。

 フロリンダが勧めると、真っ先に美惟那が光を受けて色を変える、めずらかな宝石のような瞳を輝かせた。

 そっとフルーツの乗った小さなタルトをつまんで、自分の皿に取る。

 幼いながら上品な所作しょさで口に運ぶ姿を、自然と昨日のカタリーナの食べ方と比べてしまい、フロリンダは内心、苦く笑った。

 その様子に一度あたたかな眼差しを向け、璃守はフロリンダを真っ直ぐ見つめた。

「最初の報告を受けた時にもあなたにお伝えしましたが、私はあなたを信じます。

 何にでも、型通りにはいかないことがある。臨機応変な対応は、上に立つ者には必要な資質です。おおやけにしない…、できない事情もおありでしょう。ですから、くわしくは聞きません」

 整然と言って、璃守は強いまなざしをフロリンダに注いだ。

「天はあなたを司守から解任していない。誰が何を言おうと、それがあなたの行為に裏切りがない何よりの証です」

 —……さすがの器だわ……。

 フロリンダは胸が熱くなる。

 英邁えいまいな王とは、このような方を言うのだと半ば感動した。

「……迦楼羅族は、あなたのような方を王に持ち、この上なく幸せですね」

「あなたに率直に褒められると、照れくさいな」

 璃守は相好そうごうを崩した。

 甘さを持った精悍せいかんな顔立ちが、笑うと幼く見えるのも好ましい。

「それはそうと、亜仁玖も私と同じ意見です」

 え?とフロリンダは瞠目して亜仁玖を見遣みやる。

「亜仁玖は、ことのすべてを理解したうえで、またこちらの警護に就くことを望んでいます」

「まさか…本当なの?亜仁玖」

 戸惑うフロリンダの視線を受けて、亜仁玖は両掌りょうてのひらを重ね、礼を取った。

「王の仰る通りです」

「部下たちに示しが付かないのでは?あなたの沽券こけんに関わるでしょう……」

「納得がいかぬだろうと、あらかじめ部下たちは私の指揮しきから王へと戻す許可を頂いて、単身でこちらに参った次第です。私は風の領地の警護として送られながら、何一つ仕事をしていません。それこそが沽券にかかわることです」

 迷いなく言って、亜仁玖は真っ直ぐフロリンダを見た。

「お許しが頂ければ、このまますぐに風の領地を見回る任に戻りたく存じます」

「それはもう…ありがたいわ……ただ、申し訳なくて……多くの者に批判されている私のもとで動くなんて……」

「王には申し上げましたが、私共、迦楼羅族は、気配を察知する能力に長けております。昨今、こちらの世界のそこここで、あちら側の『目』の気配を感じるのは星回り的に致し方ないことといえ、特に、風の領地にはそれを多く感じます。あなたの下で動くことは、世の安寧あんねいを守ることにもつながる。そう思っての判断です」

「フロリンダ、もう一度、亜仁玖に任せてやってはくれませんか?」

 璃守の言葉に、フロリンダはもちろんと頷く。

「頼りにしています、亜仁玖」

 変わらぬ物堅ものがたい表情を崩さぬまま、亜仁玖は目礼もくれいした。

 その頬はかすかにあかい。

「フロリンダ姉さま、わたくし、姉さまにお渡ししたいものがあるの」

 そっと口をナフキンで拭い、美惟那は手を胸の前で合わせた。

「まあ、なあに?」

 美惟那の重なったてのひらが離れた時、そこには、緑を基調にしたアラベスクの美しい小箱が現れていた。

 それを両掌に乗せて、美惟那はフロリンダにおずおずと差し出す。

「わたくしの演奏が、ここにしまってあります」

 フロリンダは目を瞠った。

「わたくしは、迦楼羅族の姫でありながら、ひ弱な身です。姉さまのお力になれない。だけど、少しでもおなぐさめできればと思って……」

「嬉しいわ」

 フロリンダは両手で、小箱を差し出す美惟那の手を包みこんだ。

「とても嬉しい。美惟那姫の奏でる楽の音は、魂に響くもの。それは、時に千の強者つわものに勝る。私は妖精だから、音楽も力になるって知っているわ」

「フロリンダ姉さま……」

 美惟那の山吹色やまぶきいろの瞳が、窓から射し込む柔らかな日差しを受けて金色に輝く。

 美惟那という名は『宝石』の意があると聞いたが、本当に宝石のよう双眸だ。

 フロリンダが受け取った小箱を無限の収納を持つスカートのポケットに納める前で、璃守が妹姫の頭を撫でている。

 あたたかな兄妹の絆に、フロリンダの胸がチクリと痛んだ。

 微かな羨望せんぼうが、心をかすめたせいだった。

 そんなことは知らぬ璃守は、流れるように窓の外へ顔を向ける。

「美しい庭ですね」

 窓の外にった目をフロリンダに戻し、璃守は不意に言った。

「あなたを案内に、散策させていただいてもよろしいですか?」

「ええ、もちろん。美惟那姫も……」

「わたくしは、もう少しここで休ませていただきたいわ。城から出ることは、あまりないので…疲れてしまいましたの。よろしくて?」

 二つ目になるチーズタルトを口に運びながら、美惟那はにっこり笑って言った。

「フロリンダ姉さま、兄さまをよろしくお願いしますわ。亜仁玖、あなたも一つくらいお菓子をいただきましょうよ」

 美惟那にタルトを差し出されて、亜仁玖は恐縮きょうしゅくする。

 美惟那の様子がいささか不自然ではあったが、フロリンダは立ち上がり、扉へと璃守を誘った。

 閉まる扉の向こうで美惟那がニコニコと手を振るのに、同じく手を振ってこたえ、玄関ホールを抜ける。

 フロリンダの戸惑とまどいを見透みすかしたように、璃守が悪戯いたずらっぽく目を細めた。

「あなたと二人きりになれるよう、気を利かせてくれたのです」

 困惑を悟られぬよう、フロリンダはわざとのように無邪気に笑った。

「美惟那姫は独りで、退屈しないかしら?」

「私の目から解放されて、甘い茶菓子を目いっぱい楽しんでいるでしょう。亜仁玖もね。彼はあれで、甘味かんみに目がない」

「意外だわ。だけど、ちょっとの間でも彼がくつろいでくれたら、私も気が楽です」

 他愛たあいない話をしながら、薔薇園を抜け、西塔の脇を通って北側の花園まで歩いた。

 東塔の側は、知らず足がけてしまった。

 そこには、レイと過ごした温室がある。

 どうしてだか、その傍を他の誰かと歩きたくはなかった。

「北側には、主にハーブを植えていますの。今はローズマリーが花の時期ですわ」

「葉だけでも、良い香りがするものが多いですね」

 璃守は足元のラベンダーの葉に触れ、そっと高い鼻梁びりょうに指先を寄せた。

「良い香りだ。美惟那がこの香りが好きなのです」

「では、春に楽しめるように、株をお分けしましょう」

「とても喜びます。あの子は、あなたのことを実の姉のように慕っているので」

「光栄ですわ」

 そう言って微笑むと、璃守に素早く手を取られた。

 戸惑いを隠して長身の彼を見上げると、いつもながらの優しい眼差しの中に、真剣な意志がひらめいてフロリンダの胸を突いた。

「あの子に姉に、なってくださいませんか?」

 いや、と璃守は自嘲気味じちょうぎみに軽く目を伏せる。

「持って回った言い方は卑怯ひきょうですね。私の妃になってくださいませんか?」

 言いながら、璃守は改めて両手でフロリンダの手を包み込む。

聡明そうめいなあなたは、とうにお気づきのはずだ。初めて会った時から、私があなたに恋焦こいこがれていることを」

 はぐらかしてきたことを突きつけられて、フロリンダは言葉に詰まる。

「今のあなたの状況は理解しています。気丈に振舞ふるまっているが、とても傷ついているはずだ。自らに恥じることはない判断でも、不理解に責められ、苦しくないはずがない。

 あなたはとても感性が豊かだ。そしてその分、とても繊細なところもある。私はあなたを守りたい。矢面に立ったままでいる、あなたの盾になりましょう」

 熱い言葉は、フロリンダの心を揺さぶった。

 日々届く、誹謗中傷に削られていく心が、頼もしい璃朱の情熱に強く惹きつけられる。

 そんな心もとなさが垣間見かいまみえてしまったのか、璃守はフロリンダを抱きしめた。

 あたたかい腕の中は、官能的かんのうてきなイランイランの香りがした。

 力強いこの胸に守られていれば、どんな攻撃を受けることも、もうないだろうと思えるほどの頼もしさ。

 いっとき揺らいだフロリンダの心の中で、けれど、立ち上ったのはすずやかなローズマリーに似た香り。

 冬の夜空に浮かぶ三日月のような、冷たく整った横顔—――……。

「璃守さま…とても、嬉しく思います」

 言いながら、フロリンダはそっと広くあたたかな胸を押し戻した。

「あなたの言葉を快くお受けできたら、きっと私は愛されて守られる、幸福な妃になるでしょう……けれど、それはできないのです」

 フロリンダは、まっすぐ璃守の双眸そうぼうを見つめた。

「私の生まれの事情は、璃守さまならば、ご存じでしょう?」

「……ええ」

 璃守はためらいがちに、頷いた。

 王たるもの、婚姻こんいんを考えた相手のことを、調べないはずはない。

 迦楼羅王は神格を持つ。

 天界の情報も、その気になれば引き出せる立場だ。

「産みの母に忘れ去られた私は、妖精の女王であるティタニアさまに育てていただきました。父親は存在のまま、どこ吹く風ですし。

 次代の女王と見込まれ、女王自ら、私は後継者として育てられた。私自身、あの美しい緑なす故郷を守っていくのだと心決め、そのためだけに生きてきました」

 迦楼羅王の妃になれば、領地に座して王を支える役目を果たすのが筋。

 そうなれば、フロリンダはティル・ナ・ノグ常若の国の女王としての役目を果たすことはできない。

「私は女王になる未来を、なげうつことはできません。私と連れう相手は、妖精王になる定め。

 —――ですが、あなたはすでに迦楼羅族の王です」

 この世界で言うところの王は、軽々しい称号ではない。

 神格が関わってくることであれば、簡単に両立ができるような立場ではない。

 領地云々で決まる、人間の王とは訳が違う。

 璃守の瞳に、影が落ちた。

「このまま、苦難の道を行く、と……?」

「はい」

 ためらいなく頷いたフロリンダを、璃守はじっと見つめた。

 その眼差しは哀しげで、けれど、どこか眩し気でもあった。

「……わかりました」

 良い唇が、小さく息を逃がす。

 情にあついことを物語る、ふっくらした唇だ。

「あなたの意志を尊重しましょう。そして、変わらず手助けをしていきたいと思います。……友人として」

 優しい言葉が胸に迫り、フロリンダは泣きそうになった。

「ありがとうございます」

 何とか笑顔を作って、心からの謝意を伝えた。

「変わらず城にも遊びに来てください。そうでなければ、私が美惟那に叱られてしまう」

「もちろんです。私も美惟那姫に会いたいですもの。落ち着いたら、必ず伺います」

「お待ちしています」

 二人の間にわずかに留まる気まずい空気を払うように、ああ、と璃守は思いついたような声を上げた。

「そういえば……面倒を見ている人の子は、まだこちらに逗留とうりゅうしているのですか?」

 話題が変わってホッとしたことがばれぬよう、フロリンダは努めて自然に頷いた。

「ええ、どうやら帰る家がないようなので、私が独り立ちできるまで、面倒を見ようと思っています。ただ、どうにも具合が悪くなりがちで……」

 フロリンダの言葉に、璃守は軽く目を瞠り、次いで顎に手を当てて思案顔になった。

「それはまた立派な御心みこころですが……、もしかして、この風の宮の環境が人の子には合わないのかも知れません。

 人の子は、地に足を付けて生活するように身体ができています。この標高の高さでは、精和界の住人であれば問題なくとも、人間にとっては生きるに難しい」

 璃守は再び庭をそぞろ歩きながら、人間には適応が難しい気圧や酸素の問題点を挙げた。

 人間の『良き隣人』でありながら、そうした細やかな点に気づかなかった自分を、フロリンダは強く恥じる。

「結界で安定させているとはいえ、そこはやはり我々よりも脆弱ぜいじゃくな身。もっと早くに気づいて対処たいしょするべきでした」

 悄然しょうぜんとするフロリンダの肩を、璃守の掌がそっと包んだ。

「ご自分を責めることはありません。ここしばらく、あなたがまともに休んでいないのは明らかです。

 良ろしければ、私にその子を見せて頂けますか?私の城になりますと、ここより高い空にあるので、精和界の者でさえ来訪の際に具合を崩す者がいる。そうした症状を見慣れていますので、力になれることがあるかもしれません」

「それは頼もしいですわ」

 知恵は多いに越したことはない。

 厚意に甘えることにして、フロリンダはニコラに関する事情を説明しながら西塔内に戻った。

 ニコラの部屋に入ると、枕辺についていた侍女が席を立ち、いささか驚いたように礼を取る。

「良くお休みになっています」

 フロリンダは侍女をねぎらって、璃守をベッドの傍らに招いた。

「この子です」

 眠りを妨げないよう、ごく小声で言ったが、ニコラは薄眼うすめを開けてしまった。

「……ママ……?」

 呟いて目を開け、ニコラは璃守を目にして怯えたようにブランケットの中にもぐった。

「おや、驚かせてしまったかな」

「ニコラ、ごめんなさい。ママのお友だちよ。ニコラの具合を見てくださるの」

「やだ!」

 ニコラは潜ったまま、おびえた声で拒否した。

「男のひと、やだ!こわい!!」

 意外な反応に、フロリンダは困惑こんわくする。

 璃守はフロリンダを見ると、頷いて退出した。

「ニコラ、ごめんね、男の人はもういないわ」

 ニコラは返事をせず、ただただ身を震わせている。

「やだ!あっちいって!!」

 仕方なしに、フロリンダは再び侍女にニコラを任せて部屋を出る。

 廊下では、いささか難しい顔になった璃守が待っていた。

 フロリンダはニコラの無作法に恐縮きょうしゅくして、頭を下げる。

「申し訳ありません。あの子については、まだ私も色々とわからないことがあって…まだまだ心も不安定なのです」

 璃守はハッとして、微笑みを見せた。

「あなたが謝ることではありません。得てして、子どもとは難しい生き物ですから。

 それに、見たところ浮腫ふしゅなどの、標高の高さ特有の症状はありませんね。とても大事に面倒をみていらっしゃるのがわかる。ただ…」

 ふと言いよどみつつ、璃守は続けた。

「珍しい瞳の色、ですね」

「え?」

 桔梗色ききょういろの瞳は、精和界ではそう珍しくない。

 山吹色で、光が当たると金色に見える璃守と美惟那の目の方が、よほど稀有けうだ。

「紫系の瞳は、こちらならば良くある色ですが…ただ、人の子となると、我々より倍以上の繁殖の中でも、めったにいないはずです」

 そこにもまったく思い至らなかった自分の無知を、フロリンダはつくづく恥じた。

「気が回らないことばかりで、お恥ずかしいですわ……。

 もしかして、そうした特異とくいな色を持ったことも、これまでのニコラの人生に影をさしてきたのかもしれないのに……」

 フロリンダの呟きに、璃守がはっと息を止めた。

「……あなたは、本当に優しいひとだ」

 言われて見上げると、困ったように微笑む璃守の顔に出会った。

「幼い命を、あなたは愛さずにいられないのですね。それも妖精という一族の本質であれば、あなたは確かに、妖精の女王としての資質を誰よりも持っている」

 璃守はフロリンダの手を取ると、唇を押し当てた。

「あなたの最良の友として、何かの時には、どうぞ頼ってください」

 璃守の態度の微妙びみょうな変化に違和感いわかんを感じたが、彼は追及する間を与えず、素早く身体を離した。

「これにておいとまします。亜仁玖を激励げきれいして、帰還するとしましょう」

 貴賓室に戻ると、期待に満ちた美惟那の眼差しが待っていた。

 兄王がフロリンダに求婚することを、美惟那は心得こころえていたのだろう。

 フロリンダの視界の端で、璃守がそっと首を左右するのが見える。

 たちまち、美惟那の顔がくもった。

「美惟那、フロリンダさまにご挨拶をしなさい」

 璃守に促されても、美惟那はうつむいて両足の爪先をもじもじと突き合わせて答えない。

「美惟那姫……また、こちらにも遊びに来てね?私もそちらにうかがうわ」

 フロリンダが声をかけると、微かに頷いたが、唇は不満げに引き結んだままだ。

 そばに行って顔を覗き込むと、ポツリと美惟那はフロリンダにだけ聞こえるように呟いた。

「ほんとうのおねえさまに、なっていただきたいのに……」

 フロリンダは戸惑いを押し隠して微笑み、美惟那の頭を撫でる。

 美惟那はその手から逃げるようにソファから降り、兄王にしがみついた。

 璃守が妹姫を諫めようとするのを、フロリンダはやんわり手で制す。

 申し訳なさそうに、璃守は眉を下げると妹姫を抱き上げた。

「さあ、帰るよ」

 亜仁玖は玄関で既に直立し、王を見送るために待っている。

 離れたところで見守るフロリンダの視線の先で、璃守は美惟那を抱き上げたまま亜玖仁の肩に片手を置くと、何事か素早く耳打ちした。

 それは耳聡みみさといフロリンダにも、聞き取れなかった。

「ではまた、ご機嫌よう」

 美惟那は兄王にしがみついて顔を上げなかったが、璃守はあたたかな笑みを残すと、潔く帰還していった。

 胸に、何か忘れ物をしたような寂しさがある。

 —……きっと……あの方にめとられたならば、女として幸せに過ごせるのでしょうね……。

『リシュ』とは、彼らの一族の言葉で、『賢者』を意味するという。

 間違いなく彼の本質そのものだと、フロリンダは思った。

 強く寛容かんようで、この上なく立派な賢王けんおう

 そんな璃守を、尊敬はしている。

 けれどそれは、恋や愛と呼ぶ感情ではなかった。

 長く共にいたら、そう呼んでも差支さしつかえない、穏やかながら確かな絆が育まれるかもしれないが、いかんせん、目指す未来が交わることのない立場だった。

「ラベンダーの株わけ…しそびれちゃった……後で届けても受け取ってくれるかな……?」

 美惟那の期待に応えられなかったことには、心が痛む。

 自分を慰めようと、心を尽くしてくれた美惟那を心底落胆らくたんさせたことは、求婚を断ったことよりも正直、こたえた。

 自分を慕う相手の想いを裏切ることは、相手の痛みも感じ取って、フロリンダには倍も辛いことだ。

 —……けれど……譲れないのよ……。

 フロリンダは固く目を閉じて、心にわだかまるものを押し殺した。 

「……ニコラの様子を見てあげないと……」

 独り呟き、フロリンダはきびすを返して西塔に戻った。

 と、ニコラの部屋に向かって歩く廊下の先に、ふらりと行く手を塞ぐ人影が現れる。

 青白い顔をした、カタリーナだった。

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