第8話 求婚
床に何かが落ちる重たい音が響き、レイは
人間の欲望を満たすために
壊れても直されることは、
むしろ、破壊こそが『主人』の手から逃れる唯一の
壊しては直され、直されては壊されを繰り返される『お気に入り』である方が、苦痛は長いのだから—――自分のように。
レイは、オモチャ箱と呼ばれる部屋から続く『主人』の
部屋に入ってすぐの正面には、巨大な鏡が見苦しくブレて
魔獄界の勢力が強まっているこの時期、その鏡は以前より鮮明に精和界を映し出せるようになり、『主人』は興味深々で見入っていた。
魔王の一柱・パズズが
ここ数日、そこに映し出されていたのは、フロリンダの
自分を
せせら笑ってそれを眺める『主人』の背後で、レイは言いようのない苦痛を押し殺している。
生き生きと世界を飛び回っていた妖精が、自主的ではあれ、風の宮に
風と共に自由に飛び回ることが最も
そんな心身共に傷ついている彼女に対し、
その事実は、自分でも信じられないほどにレイを
フロリンダを責め、
周りからどんどんひと
いつも以上に自己を押し殺して耐え
定位置のソファに座ってもいられずに、小柄な身体を
「どうされました」
レイが
目を見開いたまま、その口の
これまで、ここまで
「クソッ………限界か…」
「どうやら、少し、眠りが…いるようだ……レイ、
やっとのことで言って、『主人』はがくりと力を失って目を閉じる。
眠っている間、主の領域である屋敷は、
ゆえに、『主人』は眠らない。
それでも眠るということは、そうでなければ取り戻せないほどのダメージを受けたということだ。
「かしこまりました」
床に転がった『主人』をそのままに、レイは淡々と応じて立ち上がる。
『主人』はレイが、眠っている隙をついて裏切るとは思っていない。
裏切れぬように、先手を打ってあるからだ。
レイが取り戻したいと願う者たち全てには、主しか知らない
それを
レイは美しい人形にされた父母、ひとりの
音もなく
舞台に見立てられたそこで、淡い光を当てられて芝居じみたポーズを取るひとつ—―自分のすぐ下の弟、クラウスに顔を寄せた。
「ユリアは、お前を探して、待ち続けている」
唇を動かさず、その耳元に
「必ず呪いから解放する。どんな手を使っても」
微笑む表情で固定されたクラウスの瞳が、微かに揺れた。
目尻に、粉雪のきらめきが生まれて消えていく。
「奴の手先になって動く僕にはもう、長になる資格はない。父を継ぐのはクラウス、お前だ。耐えてくれ。頼んだぞ」
クラウスの瞳がさらに揺れて、粉雪がはらはらと頬に落ちる。
涙を流す、それが人形にされた家族の、たった一つ許された感情だった。
すでに長の血に連なる親族は呪いを受けたまま従姉ひとりを残して息絶えて、今や、父母もだいぶ
しかし、その
強引にことを運べば一瞬にして全てを失うことがわかっているから、レイは動けないのだ。
結界を強化するために意識を集中しようとした時、鏡が
そこには、黄金の翼を背に持つ、立派な
黄金の翼となれば、
高貴で堂々とした姿は、フロリンダと並ぶと似合いの男女に見えた。
不意に迦楼羅王が動いて、フロリンダの
金と銀のきらめきが、レイの
出会ったことのないその感情を、奥歯を噛みしめて抑え込み、引き剥がすように画面から顔を背けてレイは、命じられたとおり、屋敷に強固な結界を
※※※
音瀧の飴を口にした時からカタリーナは寝込み、あくる日には、またニコラも熱を出してしまった。
正直、カタリーナはおとなしく寝ていてくれるとありがたいが、ニコラの具合が悪くなるのは困りものだ。
ずいぶん元気になったと油断して、外気に長く当たり過ぎたせいだろう。
フロリンダは、人間の体力をきちんと
「ママがきちんと気を付けていなかったからだわ。ごめんね、ニコラ」
熱を帯びた短い
「ママのせいじゃないよ。ママとお散歩するの、うれしい」
「ありがとう。もっとあたたかい
いじらしいニコラの姿に、愛しさが胸にこみ上げる。
熱い
「ママ、僕、ずっとママといるね。僕、ママがいちばん好き」
「ママもニコラが大好きよ」
「僕、ママを大事にするから、ずっとそばにいてね」
幼い子ども相手にさえ、いい
ニコラのことは、自分の足で地に立って、自分で未来を選択していけるように育てるつもりだ。
それが一人前になるということだと、フロリンダは思っている。
「まずは元気になりましょう。でないと、薔薇の咲くのを見たり、雪だるま作ったりできないわ」
「雪、降ったの?」
「少しね」
「早くげんきになるね」
「
冗談めかしてフロリンダが言うと、ニコラは小さい鼻に皺を寄せた。
「…僕、あの姉ちゃん、あまり、すきじゃない」
「あら。なぁぜ?」
カタリーナとは、まだ顔を合わせて紹介するくらいの
「ママをこまらせるから。ほかのひとが、あのお姉ちゃんのこと話してたの、聞いたんだ」
フロリンダは
風精は、得てしてお喋り好きだ。
宮仕えの誰かがカタリーナの話をしていたのを、ニコラは耳にしたのだろう。
—……子どもだと思って、油断してはいけないわね……。
人間の子供だから余計に
「カタリーナも、
「うーん…ママのためなら……」
次第にうとうとしてきたニコラは、ごにょごにょと口元を動かしながら眠りに引き込まれていく。
「ママにも、ぼくを、いちばん好きになってほしいもん……」
甘えた言葉を最後に、ニコラは
「可愛いこと言ってくれるわ……」
フロリンダはやわらかな頬にキスをして、ニコラの柔らかい髪を撫でた。
妖精には、捨て子や、はたまた気に入った人間の赤子を
心身ともに立派に成長し、魂も磨き上げられたならば、妖精王と女王の祝福を受け
そうなれば寿命も人間の
だが、フロリンダはニコラをそのような存在にするつもりはなかった。
次期女王として養育されたフロリンダが選ぶ相手は、次代の妖精王となるからだ。
命は女から生まれる。
ゆえに、自然の巡りを司る
それが、王と女王に受け継がれる
大好きな相手は無数にいるが、未だ、恋をしたことはない。
「アルスが妹ちゃんの独り立ちに気を
笑って独り
『フロリンダさま~、大変ですの。急な大物のお客さまデスの~』
プリムラの慌てた知らせを受けて、フロリンダは飛び上がるように驚く。
「
先触れもなしの突然の訪問とは、折り目正しい璃守らしからぬ
「何はともあれ、失礼のないようにお迎えしないと……」
フロリンダは
素早く誰に見られても恥ずかしくないような身支度を整え、出迎えのために南門へ急ぐ。
途中、カタリーナの様子を
彼女は目を覚ましていて、フロリンダに気が付くと、いかにも
昨日のようなことがあってはいけないと思い、フロリンダは部屋に入って声をかける。
「また急なお客さまの
努めて明るく冗談めかして
「……フロリンダさまは……本当に…たくさんの方に……
「私は役目上、あちこちを飛び回るから、必然的に顔が広くなるのよ。あなたも元気になったら、あちこち連れて行くわ。世界の色々な所を見てみましょうね」
答えを待っていたら、また
物言いたげなカタリーナの視線を背中に感じたが、今は迦楼羅王兄妹を出迎える方が優先だ。
薔薇の庭園を抜けると、シャルロットが先に来て、
フロリンダが門の
腕の中には、ティールブルーのモスリンのドレスを身に纏った
緑がかった鮮やかな青いドレスは、彼女自身はもちろん兄の璃守の髪色や羽も、より
驚いたことに、
色とりどりの六角形の石を敷き詰めた足場に音もなく降り立ち、璃守は美惟那を下ろすと、フロリンダに微笑みかけた。
「フロリンダ姉さま!!」
美惟那が駆け寄ってしがみついてくるのを、抱き止める。
「わたくし、姉さまが心配で心配で……居てもたってもいられなかったの」
「ありがとう。迦楼羅族の皆様には
「姉さまが意味もなく
「これ、美惟那。ご挨拶もなしに、そのような振る舞いは王族に
フロリンダは美惟那を抱き上げて微笑み、やんわり言葉を返す。
「高貴な身分の方であれば、
フロリンダの言葉に、璃守は小さく苦笑して
「私も、先触れもなしの突然の訪問した身でした。妹のことは
常と変わらぬ穏やかな口調で
「とんでもない。本来なら、お便りだけではなく、私の方がそちらにお詫びに出向くべきところですのに…。
フロリンダは丁寧に言って、高貴な兄妹を風の宮に招き入れた。
きょろきょろと興味深げに顔を巡らせる美惟那の様子が可愛らしくて、フロリンダの心が和む。
—……いとけない存在を愛しく思う妖精の性には、
そんなことを思いつつ、昨日、ロゼッタたちを招いた応接室ではなく、もっと奥まった
めったに使うことはない部屋だが、釘を刺しておいたとはいえ、昨日のように他者に気安く
フロリンダは美惟那を、細やかな模様を織り込んだソファに下ろす。
隣り合った美しい猫足のそれを璃守に勧めても、自分は席につかず、まずは深々と頭を下げた。
「改めて、ご
「どうか、頭を上げてください。あなたを責めるために訪れたのではありません」
璃守は慌てて立ち上がり、フロリンダの両腕に手を置いた。
顔を上げると、甘い苦笑いが間近にあって少したじろぐ。
「今日は、美惟那もですが……亜仁玖も願い出て、ここに来たのです。どうか、まずは彼の話を聞いてやってはくれませんか?」
「亜仁玖の?」
フロリンダは驚いて目を丸くした。
璃守の背後に控える亜仁玖は、いつもながらの生真面目な表情を崩さぬまま、深く頷いた。
「どうぞ、あなたも座ってください。レディを立たせておいて、私が座ることなどできません」
そっと背を押して促され、フロリンダは璃守の向かいの席に着く。
背の低いテーブルの上では、プリムラが支度してくれたお茶と焼き菓子が、かぐわしい湯気をたてていた。
フロリンダが勧めると、真っ先に美惟那が光を受けて色を変える、めずらかな宝石のような瞳を輝かせた。
そっとフルーツの乗った小さなタルトを
幼いながら上品な
その様子に一度あたたかな眼差しを向け、璃守はフロリンダを真っ直ぐ見つめた。
「最初の報告を受けた時にもあなたにお伝えしましたが、私はあなたを信じます。
何にでも、型通りにはいかないことがある。臨機応変な対応は、上に立つ者には必要な資質です。
整然と言って、璃守は強いまなざしをフロリンダに注いだ。
「天はあなたを司守から解任していない。誰が何を言おうと、それがあなたの行為に裏切りがない何よりの証です」
—……さすがの器だわ……。
フロリンダは胸が熱くなる。
「……迦楼羅族は、あなたのような方を王に持ち、この上なく幸せですね」
「あなたに率直に褒められると、照れくさいな」
璃守は
甘さを持った
「それはそうと、亜仁玖も私と同じ意見です」
え?とフロリンダは瞠目して亜仁玖を
「亜仁玖は、ことのすべてを理解したうえで、またこちらの警護に就くことを望んでいます」
「まさか…本当なの?亜仁玖」
戸惑うフロリンダの視線を受けて、亜仁玖は
「王の仰る通りです」
「部下たちに示しが付かないのでは?あなたの
「納得がいかぬだろうと、あらかじめ部下たちは私の
迷いなく言って、亜仁玖は真っ直ぐフロリンダを見た。
「お許しが頂ければ、このまますぐに風の領地を見回る任に戻りたく存じます」
「それはもう…ありがたいわ……ただ、申し訳なくて……多くの者に批判されている私のもとで動くなんて……」
「王には申し上げましたが、私共、迦楼羅族は、気配を察知する能力に長けております。昨今、こちらの世界のそこここで、あちら側の『目』の気配を感じるのは星回り的に致し方ないことといえ、特に、風の領地にはそれを多く感じます。あなたの下で動くことは、世の
「フロリンダ、もう一度、亜仁玖に任せてやってはくれませんか?」
璃守の言葉に、フロリンダはもちろんと頷く。
「頼りにしています、亜仁玖」
変わらぬ
その頬は
「フロリンダ姉さま、わたくし、姉さまにお渡ししたいものがあるの」
そっと口をナフキンで拭い、美惟那は手を胸の前で合わせた。
「まあ、なあに?」
美惟那の重なった
それを両掌に乗せて、美惟那はフロリンダにおずおずと差し出す。
「わたくしの演奏が、ここにしまってあります」
フロリンダは目を瞠った。
「わたくしは、迦楼羅族の姫でありながら、ひ弱な身です。姉さまのお力になれない。だけど、少しでもお
「嬉しいわ」
フロリンダは両手で、小箱を差し出す美惟那の手を包みこんだ。
「とても嬉しい。美惟那姫の奏でる楽の音は、魂に響くもの。それは、時に千の
「フロリンダ姉さま……」
美惟那の
美惟那という名は『宝石』の意があると聞いたが、本当に宝石のよう双眸だ。
フロリンダが受け取った小箱を無限の収納を持つスカートのポケットに納める前で、璃守が妹姫の頭を撫でている。
あたたかな兄妹の絆に、フロリンダの胸がチクリと痛んだ。
微かな
そんなことは知らぬ璃守は、流れるように窓の外へ顔を向ける。
「美しい庭ですね」
窓の外に
「あなたを案内に、散策させていただいてもよろしいですか?」
「ええ、もちろん。美惟那姫も……」
「わたくしは、もう少しここで休ませていただきたいわ。城から出ることは、あまりないので…疲れてしまいましたの。よろしくて?」
二つ目になるチーズタルトを口に運びながら、美惟那はにっこり笑って言った。
「フロリンダ姉さま、兄さまをよろしくお願いしますわ。亜仁玖、あなたも一つくらいお菓子をいただきましょうよ」
美惟那にタルトを差し出されて、亜仁玖は
美惟那の様子がいささか不自然ではあったが、フロリンダは立ち上がり、扉へと璃守を誘った。
閉まる扉の向こうで美惟那がニコニコと手を振るのに、同じく手を振って
フロリンダの
「あなたと二人きりになれるよう、気を利かせてくれたのです」
困惑を悟られぬよう、フロリンダはわざとのように無邪気に笑った。
「美惟那姫は独りで、退屈しないかしら?」
「私の目から解放されて、甘い茶菓子を目いっぱい楽しんでいるでしょう。亜仁玖もね。彼はあれで、
「意外だわ。だけど、ちょっとの間でも彼が
東塔の側は、知らず足が
そこには、レイと過ごした温室がある。
どうしてだか、その傍を他の誰かと歩きたくはなかった。
「北側には、主にハーブを植えていますの。今はローズマリーが花の時期ですわ」
「葉だけでも、良い香りがするものが多いですね」
璃守は足元のラベンダーの葉に触れ、そっと高い
「良い香りだ。美惟那がこの香りが好きなのです」
「では、春に楽しめるように、株をお分けしましょう」
「とても喜びます。あの子は、あなたのことを実の姉のように慕っているので」
「光栄ですわ」
そう言って微笑むと、璃守に素早く手を取られた。
戸惑いを隠して長身の彼を見上げると、いつもながらの優しい眼差しの中に、真剣な意志が
「あの子に姉に、なってくださいませんか?」
いや、と璃守は
「持って回った言い方は
言いながら、璃守は改めて両手でフロリンダの手を包み込む。
「
はぐらかしてきたことを突きつけられて、フロリンダは言葉に詰まる。
「今のあなたの状況は理解しています。気丈に
あなたはとても感性が豊かだ。そしてその分、とても繊細なところもある。私はあなたを守りたい。矢面に立ったままでいる、あなたの盾になりましょう」
熱い言葉は、フロリンダの心を揺さぶった。
日々届く、誹謗中傷に削られていく心が、頼もしい璃朱の情熱に強く惹きつけられる。
そんな心もとなさが
あたたかい腕の中は、
力強いこの胸に守られていれば、どんな攻撃を受けることも、もうないだろうと思えるほどの頼もしさ。
いっとき揺らいだフロリンダの心の中で、けれど、立ち上ったのは
冬の夜空に浮かぶ三日月のような、冷たく整った横顔—――……。
「璃守さま…とても、嬉しく思います」
言いながら、フロリンダはそっと広くあたたかな胸を押し戻した。
「あなたの言葉を快くお受けできたら、きっと私は愛されて守られる、幸福な妃になるでしょう……けれど、それはできないのです」
フロリンダは、まっすぐ璃守の
「私の生まれの事情は、璃守さまならば、ご存じでしょう?」
「……ええ」
璃守はためらいがちに、頷いた。
王たるもの、
迦楼羅王は神格を持つ。
天界の情報も、その気になれば引き出せる立場だ。
「産みの母に忘れ去られた私は、妖精の女王であるティタニアさまに育てていただきました。父親は存在のまま、どこ吹く風ですし。
次代の女王と見込まれ、女王自ら、私は後継者として育てられた。私自身、あの美しい緑なす故郷を守っていくのだと心決め、そのためだけに生きてきました」
迦楼羅王の妃になれば、領地に座して王を支える役目を果たすのが筋。
そうなれば、フロリンダは
「私は女王になる未来を、
—――ですが、あなたは
この世界で言うところの王は、軽々しい称号ではない。
神格が関わってくることであれば、簡単に両立ができるような立場ではない。
領地云々で決まる、人間の王とは訳が違う。
璃守の瞳に、影が落ちた。
「このまま、苦難の道を行く、と……?」
「はい」
ためらいなく頷いたフロリンダを、璃守はじっと見つめた。
その眼差しは哀しげで、けれど、どこか眩し気でもあった。
「……わかりました」
良い唇が、小さく息を逃がす。
情に
「あなたの意志を尊重しましょう。そして、変わらず手助けをしていきたいと思います。……友人として」
優しい言葉が胸に迫り、フロリンダは泣きそうになった。
「ありがとうございます」
何とか笑顔を作って、心からの謝意を伝えた。
「変わらず城にも遊びに来てください。そうでなければ、私が美惟那に叱られてしまう」
「もちろんです。私も美惟那姫に会いたいですもの。落ち着いたら、必ず伺います」
「お待ちしています」
二人の間に
「そういえば……面倒を見ている人の子は、まだこちらに
話題が変わってホッとしたことがばれぬよう、フロリンダは努めて自然に頷いた。
「ええ、どうやら帰る家がないようなので、私が独り立ちできるまで、面倒を見ようと思っています。ただ、どうにも具合が悪くなりがちで……」
フロリンダの言葉に、璃守は軽く目を瞠り、次いで顎に手を当てて思案顔になった。
「それはまた立派な
人の子は、地に足を付けて生活するように身体ができています。この標高の高さでは、精和界の住人であれば問題なくとも、人間にとっては生きるに難しい」
璃守は再び庭をそぞろ歩きながら、人間には適応が難しい気圧や酸素の問題点を挙げた。
人間の『良き隣人』でありながら、そうした細やかな点に気づかなかった自分を、フロリンダは強く恥じる。
「結界で安定させているとはいえ、そこはやはり我々よりも
「ご自分を責めることはありません。ここしばらく、あなたがまともに休んでいないのは明らかです。
良ろしければ、私にその子を見せて頂けますか?私の城になりますと、ここより高い空にあるので、精和界の者でさえ来訪の際に具合を崩す者がいる。そうした症状を見慣れていますので、力になれることがあるかもしれません」
「それは頼もしいですわ」
知恵は多いに越したことはない。
厚意に甘えることにして、フロリンダはニコラに関する事情を説明しながら西塔内に戻った。
ニコラの部屋に入ると、枕辺についていた侍女が席を立ち、いささか驚いたように礼を取る。
「良くお休みになっています」
フロリンダは侍女をねぎらって、璃守をベッドの傍らに招いた。
「この子です」
眠りを妨げないよう、ごく小声で言ったが、ニコラは
「……ママ……?」
呟いて目を開け、ニコラは璃守を目にして怯えたようにブランケットの中に
「おや、驚かせてしまったかな」
「ニコラ、ごめんなさい。ママのお友だちよ。ニコラの具合を見てくださるの」
「やだ!」
ニコラは潜ったまま、
「男のひと、やだ!こわい!!」
意外な反応に、フロリンダは
璃守はフロリンダを見ると、頷いて退出した。
「ニコラ、ごめんね、男の人はもういないわ」
ニコラは返事をせず、ただただ身を震わせている。
「やだ!あっちいって!!」
仕方なしに、フロリンダは再び侍女にニコラを任せて部屋を出る。
廊下では、いささか難しい顔になった璃守が待っていた。
フロリンダはニコラの無作法に
「申し訳ありません。あの子については、まだ私も色々とわからないことがあって…まだまだ心も不安定なのです」
璃守はハッとして、微笑みを見せた。
「あなたが謝ることではありません。得てして、子どもとは難しい生き物ですから。
それに、見たところ
ふと言い
「珍しい瞳の色、ですね」
「え?」
山吹色で、光が当たると金色に見える璃守と美惟那の目の方が、よほど
「紫系の瞳は、こちらならば良くある色ですが…ただ、人の子となると、我々より倍以上の繁殖の中でも、めったにいないはずです」
そこにもまったく思い至らなかった自分の無知を、フロリンダはつくづく恥じた。
「気が回らないことばかりで、お恥ずかしいですわ……。
もしかして、そうした
フロリンダの呟きに、璃守がはっと息を止めた。
「……あなたは、本当に優しいひとだ」
言われて見上げると、困ったように微笑む璃守の顔に出会った。
「幼い命を、あなたは愛さずにいられないのですね。それも妖精という一族の本質であれば、あなたは確かに、妖精の女王としての資質を誰よりも持っている」
璃守はフロリンダの手を取ると、唇を押し当てた。
「あなたの最良の友として、何かの時には、どうぞ頼ってください」
璃守の態度の
「これにてお
貴賓室に戻ると、期待に満ちた美惟那の眼差しが待っていた。
兄王がフロリンダに求婚することを、美惟那は
フロリンダの視界の端で、璃守がそっと首を左右するのが見える。
たちまち、美惟那の顔が
「美惟那、フロリンダさまにご挨拶をしなさい」
璃守に促されても、美惟那はうつむいて両足の爪先をもじもじと突き合わせて答えない。
「美惟那姫……また、こちらにも遊びに来てね?私もそちらに
フロリンダが声をかけると、微かに頷いたが、唇は不満げに引き結んだままだ。
「ほんとうのおねえさまに、なっていただきたいのに……」
フロリンダは戸惑いを押し隠して微笑み、美惟那の頭を撫でる。
美惟那はその手から逃げるようにソファから降り、兄王にしがみついた。
璃守が妹姫を諫めようとするのを、フロリンダはやんわり手で制す。
申し訳なさそうに、璃守は眉を下げると妹姫を抱き上げた。
「さあ、帰るよ」
亜仁玖は玄関で既に直立し、王を見送るために待っている。
離れたところで見守るフロリンダの視線の先で、璃守は美惟那を抱き上げたまま亜玖仁の肩に片手を置くと、何事か素早く耳打ちした。
それは
「ではまた、ご機嫌よう」
美惟那は兄王にしがみついて顔を上げなかったが、璃守はあたたかな笑みを残すと、潔く帰還していった。
胸に、何か忘れ物をしたような寂しさがある。
—……きっと……あの方に
『リシュ』とは、彼らの一族の言葉で、『賢者』を意味するという。
間違いなく彼の本質そのものだと、フロリンダは思った。
強く
そんな璃守を、尊敬はしている。
けれどそれは、恋や愛と呼ぶ感情ではなかった。
長く共にいたら、そう呼んでも
「ラベンダーの株わけ…しそびれちゃった……後で届けても受け取ってくれるかな……?」
美惟那の期待に応えられなかったことには、心が痛む。
自分を慰めようと、心を尽くしてくれた美惟那を心底
自分を慕う相手の想いを裏切ることは、相手の痛みも感じ取って、フロリンダには倍も辛いことだ。
—……けれど……譲れないのよ……。
フロリンダは固く目を閉じて、心にわだかまるものを押し殺した。
「……ニコラの様子を見てあげないと……」
独り呟き、フロリンダは
と、ニコラの部屋に向かって歩く廊下の先に、ふらりと行く手を塞ぐ人影が現れる。
青白い顔をした、カタリーナだった。
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