第5話 つむじ風
忙しい朝だった。
大急ぎで身支度をし、朝食を抜き、紅茶一杯で体を温めてフロリンダは朝の祈りを行う。
情報を仲間たちに共有し、私的な通信も確認する。
訪問の希望が、内二件。
ありがたいことであれば、きちんと顔合わせをしなければいけない。
最北の地に住む、
その段取りを取り付け、次は子供たちの様子を見て回った。
預かった少女は、
こちらのケースに関しては、多くの経験と知識を持つ、妖精王の知恵を借りることも必要かもしれない。
そんな思案をしつつ、ニコラに朝食を食べさせた。
パン
ベッドに座って、フロリンダが差し出す木の
「今日はたくさん食べることができたわね。
調合したバーブティーを差し出すと、味が苦手なのか、二コラは少しばかりぐずり出す。
「おくすり、おいしくない……」
「じゃあ、少し甘くする?蜂蜜かジャムを入れましょうか」
言ってフロリンダが手を軽く振ると、ニコラの前に置かれた足つきトレイの上に、蜂蜜とジャムの瓶が現れる。
ニコラは目を丸くした。
「ジャムの方がいいかな。ママのお友だちに貰ったものなのだけれど、
ロゼッタのジャムである。
味も良く、
ニコラは、少し怯えたようにもじもじとブランケットをいじり始めた。
「僕…フルーツ食べると、
「まあ」
人間には、そういう体質の者がいるとは聞いている。
フロリンダは、ニコラの髪を撫でた。
「良く覚えていたわね。教えてくれてありがとう。
「うん!すごく甘くして!」
打って変わった笑顔で
「僕、まぜる!」
—……子どもって本当に
まだ抜けきらない身体の疲れも、癒される思いだ。
同時に、早くニコラを人界の親元へ帰してやらねばと気持ちが
赤の他人である自分がこれほど愛しく思えるのだから、実母の
しかし、広げた情報網に、ニコラの親らしい存在の話は未だ引っかかっていない。
「そうだ、ニコラ、新しいお友だちが来たの。まだ事情があって眠っているけれど、起きたら仲良くしてあげてね」
沈みそうな気持ちを払うように、フロリンダは明るく告げた。
「おともだち?僕みたいな子が、このおうちにきたの?」
「うん。女の子なの」
「その子、起きたら、僕と遊んでくれるかな」
ニコラの目が、期待に輝いた。
フロリンダもずっと
「ええ、起きたら遊んであげてね。まずは、お薬飲んで元気にならないと」
促すと、ニコラは意を決したようにハーブティーを一息に飲み干した。
「どう?」
得意げにこちらを見る顔が、また可愛らしい。
フロリンダは塗れた口元をハンカチで拭いやり、柔らかな頬にキスをした。
「良くできました!」
ニコラを寝台に戻し、また来ると言い置いて、今度は
司守は王ではないので、
応接室に案内して
迦楼羅族の戦士を五名、遣わせてくれると、璃守から連絡が入っている。
「お待たせしましたわ」
言いながら両開きの扉から中に立ち入って、フロリンダは一瞬、歩を止めた。
戦士たちは、卓に用意された茶にも手を付けず、背筋を伸ばして凛然と立ってフロリンダを出迎えた。
その姿は
中でも、四人の戦士を背後に控えさせた、リーダーらしき男性。
アーチ型の上に花のステンドグラスの
髪をすべて頭頂で
「えーっと、確か、そう、
言いながらポンと
「忘れずにいていただき、光栄です」
「忘れるものですか。あなたが来てくれると思わなかったわ」
「王のご命令ですので」
誇り高く、それ以上に迦楼羅王への忠義に
神の
コテンパンにはしたけれど。
「あなたが警護に加わってくれるのならば、とても心強いわ。けれど、あなた失くして迦楼羅王の周辺は仕事が回るの?」
フロリンダの言葉にやや驚いた様子で、けれど亜仁玖は心配には及びません、と力強く答えた。
「私と配下数名が抜けたとて、我が一族は
「璃守さまに最も信頼されるあなたがそう言うのでしたら、ありがたくご厚意に甘えましょう。
話はすでに聞いていると思いますが、宮はまだ良いとして、ここ最近、風の領地では
「過分なまでのご信頼、痛み入ります」
「
フロリンダは右手を差し出し、握手を求めた。
「よろしくね、亜仁玖」
亜仁玖は
力強い大きな硬い手だった。
「必ずご期待に応えます」
まずはお茶を、とソファをフロリンダが
「私は客人として来たのではありません。すぐに役目にあたります」
やはり、いささか頭が固い。
「わたりました」
亜仁玖の姿勢を尊重し、フロリンダは耳飾りに触れ、シャルロットを呼び出した。
すぐさまノックが響いて、フロリンダの許可に応じて扉が開き、シャルロットが入室する。
「今日から風の領地の警護に参加してくださる、迦楼羅族の戦士の皆さんよ。彼らに警護地点の指示をお願い」
「はい」
亜仁玖とシャルロットは真っ直ぐに違いを
互いに力量を見定め、認め合ったのだろう。
そのまま礼を取って全員が退出すると、プリムラがひょっこり顔を出して室内を覗き込んだ。
「…フロリンダさまは、心を
「あら、いたの?プリムラ。詩を作っているのかしら。素敵ね」
それとも…と言葉を切り、フロリンダはちらりとプリムラをいたずらめかして
「部屋の中での話を立ち聞きしていたのかしら。だとしたら、お
プリムラは軽く首をすくめる。
背中の髪と同じマゼンタ色の羽が震えて、きらめく
「次のお客さまの来訪をお伝えしに来たら、たまたま聞こえちゃっただけデスの!わざとじゃないんデスの~!」
「はいはい、次のお客さまね。どうぞお通しして」
別に聞かれて困る話はしていない。
秘密にしなければいけない会話なら、前もって部屋に結界を重ねる。
それがわかっているから、プリムラも妖精らしい
「かしこまりましたデスの~!」
プリムラは先に用意された茶器を魔法で片し、通路側の扉からいったん出ていった。
そして、部屋に
雪のように白い肌に、髪は
瞳はアイスブルーだが、全体的にたおやかな雰囲気の美女が姿を見せた。
ヴァルフロース山脈を越えた最北、
美女は、
「ユリアと申します。フロリンダさまに冬のご挨拶をと伺いました」
フロリンダはソファを勧め、自分も上座の一人掛けのそれに腰を落ち着けた。
プリムラがお茶を出して、退出したところで話を始める。
「本格的な冬の
「はい。ここしばらくの間、冬の到来を明確に告げることができないままで…
「それはあなた方のせいではないわ」
「けれど……」
言ってユリアは、長い
「初雪などの時期を決めるのは、私共の長の役目。長は、いわば冬を統べる存在です。
ご存じのことと思いますが、その長が奥様、ご子息と血の
ゆえに、風の皆様に頼ることが多くなって……。未だに長たちを見つけることができないのは、私たちの力不足です」
フロリンダは、一昨日の朝、プリムラが話していたことを思い出した。
—―突然消えた、冬の始まりと終わりを決める、氷の精霊—―。
「長の代わりとなる者は、現れないの?」
「はい。精霊は自然の巡りに不足がないよう、欠ければ生まれます。妖精の皆様と、そこは変わりません。
長に代わる力を持つ者が誕生しないということは、長の血に連なる者が、世界のどこかに、まだ存在しているということです」
ユリアの口調には、どこか
「もしかして…、あなたは、長の血に連なる方々と
ユリアの瞳に、影が差した。
「……長の……二番目のご子息と、婚約……しています」
膝の上に乗せられたユリアの白い手が、固く
「長の許しも得て、祝福されていました。優しく、責任感もある彼が、突然何も言わずに自ら姿を消すなんて、あり得ない。けれど、何の手がかりもなく……。
仲間たちは、長たちが姿を消した当初から
「ごめんなさい。つらいことを聞いたわ」
フロリンダは立ち上がり、ユリアの腰かける長椅子の隣に座った。
震える膝上の拳に、自分の掌を重ねる。
ユリアは髪を揺らしてかぶりを振った。
「いいえ、いいえ。聞いていただきたかったのです。どうぞ風の君、どんな
あなたは情報を司るお方。風の司守さまにお会いできたら、お願いしようと常々思っておりました」
ユリアは、
「あのひとが消えて、百二十年になります。人間ならば一生を終え、時代が変わるほどの時。私たちには、子どもが大人になるほどのひととき。
けれど、愛するひとが突然姿を消した世界で生きる時間となれば、恐ろしく長い。それでも彼が帰ってくるのならば、この先、何百年何千年が過ぎようと、私は彼を探します。待ちます」
熱い想いに、フロリンダは胸を突かれる。
ユリアの姿に、以前、魔力を使い果たして
「わかったわ。私も気合い入れて、探すのを手伝う」
「ありがとうございます……」
はらはらと涙を流しながら、ユリアはフロリンダの手を強く
その手を強く
今朝方、ロゼッタが『新作です』とメッセージ付きで送ってくれたジャムだ。
「気持ちが落ち着くわ。ひとくちでも、どうぞ」
言われてユリアは口を付けると、少し目を丸くした。
「私共の住む里の
「そうなの?『希望の妖精』が送ってくれたのよ」
「まあ…先の
ほんの少し頬を和ませ、またひとくち紅茶を口にすると、改めてユリアはフロリンダの顔を見た。
「私がお伝えできる情報は、彼らの名前しかありません。
私の愛しいひとの名前はクラウス。長のお名前はハルヴァルドさま、奥様はリ-ヴさま。そして、クラウスのお兄さまの名は、レイ」
その名を耳にした瞬間、フロリンダの中で散らばった情報がパズルのピースの
※※※
温室の扉が開閉し、カタカタと軽やかな音を立てながら何かが近づいてきた。
その音で、レイはゆるやかに眠りから引き戻される。
目を閉じて眠ったふりをしたままのレイのかたわらで、紅茶を入れ始める。
「今日は朝食をとる時間もなかったの。だからブランチよ。お腹減ったわ。
バレていたかと、レイはあっさり目を開けて半身を起こす。
「朝食より、ここから解放してもらいたいね」
髪をかき上げながら
すると一脚の椅子が現れ、流れるような動作でそれに腰かける。
「まあそう焦らずに、まずはどうぞ」
ティーワゴンには、焼きたての香りを放つ、数種類のパンが乗っている。
フロリンダはその内一切れを手に取ると、ガラス
それを口に運び、嬉しそうに
無防備な笑顔に
爽やかな渋みが口の中を
久しく口にしていない、毒のない味が心にまで染み渡ってしまいそうだった。
フロリンダは次にクロワッサンを手に取り、ココットにジャムを取り分けて、ちぎってはたっぷり付けて口に運ぶ。
「はい、あなたも食べてみて!損はないから!」
二つ食べ終えたところで、フロリンダは白い皿にパンをとり、素早く空になったティーカップをレイの手から
気が付けば紅茶も飲み干してしまった手持ち
どうにも、ペースが乱される。
知らず、フロリンダの生み出す流れに乗せられている。
苦々しい思いで見遣ると、フロリンダはマフィンを新たに手に取り、またジャムをたっぷり乗せてかぶりついていた。
ジャムから
舌に感じたのは、故郷の味だった。
微かにスパイスのような酸味のある、懐かしい果実の風味。
「故郷の味がするでしょう」
胸の内を読んだようなフロリンダの問いかけに、思わず目を
「
フロリンダはマフィンの最後のひとくちを押し込むと、
レイは視線を外し横顔を見せて、感情を消した。
それは百二十年の中で、身についたもの。
「そんな冷たい顔しないで。今日、ユリアさんって方が冬の挨拶に見えてね。行方不明になった婚約者を探しているって話を聞いたの。ずっと探して、待ってるって」
懐かしい名前に、胸が
ユリアが今でもクラウスを想い続けていると知り、それだけでも
—……やはり、逃がさなければならない。クラウスだけでも—――。
「私は風の司守。情報は自ずと集まってくる立場よ。あなたは百年以上前に、突然姿を消した冬を司る、氷精の長の血を引く者なのね。違う?」
「もうわかっているなら、確認する必要もないだろう」
「確認しなければ、推測でしかないわ。あなたからの事情も聞きたいし」
「首を突っ込まないでくれ」
吐き捨ててフロリンダを
口の
「どうしたの?私の顔に何かついてる?」
本気で気付いていないのかと
「ついてるね。ジャムが」
「えっ!?どこ?」
フロリンダは顔を探り、口元のジャムに気づいて親指で拭ってそれを
さらにナフキンで、こしこしと
乳白色の肌に、ポッと薔薇色が散った。
恥ずかしいとは思うらしい。
「失礼しました。というか、気づいたらまず教えてよ」
「それは失礼しました。さっきの君のように、敵を前にしてもりもりと食事を平らげるレディに
皮肉たっぷりの返しに、フロリンダは、ぷうっと頬をふくらませた。
「意地悪ね、というか」
ぷすっと頬から息を抜き、表情を和らげて軽く唇を尖らせる。
「私は、あなたは敵ではないと判断したわ」
何を言わんやと見ている前で、「良く考えたの」と、フロリンダはひとり
「あなたは邪気に
お人好しにもほどがあると、レイは呆れ果てた。
特盛でジャムを食べているから頭の中まで甘くなるのかと、また皮肉ってやろうと口を開きかけた瞬間、
「あなた、
「あなたの怪我は、邪気に
身内を人質にとられているのね?」
レイは内心の
「正解。大したものだと言っておこう」
「あなたを利用している奴は、何をしようとしているの?」
レイは口を引き結んだ。
知っていることをすべて打ち明けたら、フロリンダは正義の名のもとに
だがそれが
自分が最も傷つく、むごい手段で―――。
「……言うわけにいかない」
「そう……そうよね。浅はかな質問だったわ。人質に危険が及ぶものね……」
ごめんなさい、と素直に引き下がり、フロリンダは
レイの胸に、チクリと針が刺さったような痛みが走る。
「……名前すら、まだつかめていないんだ」
思わず力なく
すべてを
「僕を操る『主人』は、とても
君のようなお人好しが、まともに相手をして勝てる相手じゃない。僕にも考えがある。君は関わらないでくれないか」
しばし沈黙が流れる。
やがて、フロリンダは小さく吐息した。
「私に協力できることは、ない?」
「カタリーナを任せた、それで
「わかったわ。お願い、もう一つ聞かせて。ケルピーは、あなたが
「あれも、命令に従ったまでだ。理由は聞かされていない。だが、人間の子どもには、帰る家はないということはわかっている」
え?とフロリンダの顔に、
「あの子供は、悪魔への
人目を
そんな真似をすれば、未来永劫使役されるのは自分の方だとも知らずに。
「なんてこと……隣人たちは、まだそんな真似をする
「そうした連中は、消えることはない。これからも形を変えて、そうした奴らは出てくるだろう」
フロリンダは両手で顔を
人間たちの『良き隣人』を
だが、悪魔に使役されるようになってから、そんなものはごまんと見てきた。
そして、指示に従い、それらに手を貸してもきた。
そして、その事実に
あらゆる手段で精神にゆさぶりをかけ、自身が与える影響を噛み締め、
しかし、どんな理由があろうと、結果として悪事に手を染めている己には、人の世に
自分を
「よし!決めた!!」
吹っ
「私、本当のママになる!私がニコラを育てる!」
両手を
妖精が美しい捨て子を拾って育て、鍛え上げるのは良く聞く話だが……。
「自分の騎士にして、恋人にするのか?」
「うーん、その発想は私にはないな!真面目な子育てよ。育ったら独り立ちさせるわ。
アルスのとこに子供たちが学びに行くの、ちょっと
話の流れ的に場違いなほど明るいフロリンダの口調に、レイは
どうもこの妖精は、
「私、あなたを尊敬するわ」
また唐突に話が変わり、レイは思わずフロリンダをまじまじと見た。
「ユリアさんが言っていたわ。百二十年は、人間ならば一生を終え、時代が変わるほどの時。私たちには、子どもが大人になるほどのひととき。けれど、愛するひとが突然姿を消した世界で生きる時間としては、恐ろしく長いって。
楽しく過ごす時間はあっという間だけれど、心ならずも従う百二十年は苦痛で、とてつもなく長かったでしょう。
その中でも、あなたは自分を見失っていない。なかなかできないことよ」
レイは顔を背けた。
言葉が光となって胸に差し込んでくる。
屈服しないよう、抑え込み、塗りつぶした心の部分が照らされて、浮き上がってくる。
「いけない、ニコラにもお昼ごはんをあげないと」
言ってフロリンダは立ち上がった。
目の
「寝てしまった私に、ストールを掛けてくれたのもあなたでしょ?
ありがとう。優しいのね」
「私にカタリーナを任せることも、勇気がいることだわ。これまでの
それはそうと、ここに長くいるわけにはいかないでしょ?夜が
明るく言って、羽をきらめかせながらフロリンダは足早に温室を後にした。
花の香りのする、つむじ風が過ぎ去ったようだ。
レイは立てた
陽気で人好きのする典型的な妖精だと思えば、司守として
けれど、どんな顔を見せても
—……なんだあの生き物は……。
理解が付いて行かない。
目の前から去った後まで、あの妖精について考えてしまう。
レイは顔を上げ、脇に置いた皿を見た。
苛立ちまぎれに手に取ってパンをちぎり、ココットのジャムに押し付ける。
早く—―一刻も早く、ここを出よう。
そうしないと、頭がおかしくなる。
自分には『主人』から一族を解放するという
ブレるなと強く自身に言い聞かせながら、レイはパンを飲み込むようにして食べた。
—……余計な思考はいらない。感情は
自分の中に芽生えた、得体の知れない何かに捕まってしまうような
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