第5話 つむじ風

 忙しい朝だった。

 大急ぎで身支度をし、朝食を抜き、紅茶一杯で体を温めてフロリンダは朝の祈りを行う。

 情報を仲間たちに共有し、私的な通信も確認する。

 訪問の希望が、内二件。

 迦楼羅王かるらおう璃守リシュが送り出してくれた警備役の戦士が本日中に着任するとのこと。

 ありがたいことであれば、きちんと顔合わせをしなければいけない。

 最北の地に住む、氷精ひょうせいの代表が挨拶にも来る。

 その段取りを取り付け、次は子供たちの様子を見て回った。

 預かった少女は、依然いぜんとして昏々こんこんと眠り続けている。

 こちらのケースに関しては、多くの経験と知識を持つ、妖精王の知恵を借りることも必要かもしれない。

 そんな思案をしつつ、ニコラに朝食を食べさせた。

 パンかゆを、昨日よりは食べてくれたので一安心だ。

 ベッドに座って、フロリンダが差し出す木のさじから粥を口にするニコラは、とても健気けなげに見えて、可愛かった。

「今日はたくさん食べることができたわね。えらいわ、ニコラ。お薬も飲みましょうね」

 調合したバーブティーを差し出すと、味が苦手なのか、二コラは少しばかりぐずり出す。

「おくすり、おいしくない……」

「じゃあ、少し甘くする?蜂蜜かジャムを入れましょうか」

 言ってフロリンダが手を軽く振ると、ニコラの前に置かれた足つきトレイの上に、蜂蜜とジャムの瓶が現れる。

 ニコラは目を丸くした。

「ジャムの方がいいかな。ママのお友だちに貰ったものなのだけれど、身体からだも心も元気になるわ」

 ロゼッタのジャムである。

 味も良く、滋養じようもあって祝福が付与ふよされているので最適さいてきだ。

 ニコラは、少し怯えたようにもじもじとブランケットをいじり始めた。

「僕…フルーツ食べると、のどかゆくなったり、お腹が痛くなったりするから……決まったのしかダメって……」

「まあ」

 人間には、そういう体質の者がいるとは聞いている。

 フロリンダは、ニコラの髪を撫でた。

「良く覚えていたわね。教えてくれてありがとう。蜂蜜はちみつを入れましょうね」

「うん!すごく甘くして!」

 打って変わった笑顔で催促さいそくするニコラに笑顔を返し、ハーブティーに蜂蜜を落としていく。

「僕、まぜる!」

 意気込いきごんで、小さな手でティースプーンを動かす姿も愛らしい。

 —……子どもって本当になごむなぁ……。

 まだ抜けきらない身体の疲れも、癒される思いだ。

 同時に、早くニコラを人界の親元へ帰してやらねばと気持ちがあせる。

 赤の他人である自分がこれほど愛しく思えるのだから、実母の心痛しんつうは、いかばかりか。

 しかし、広げた情報網に、ニコラの親らしい存在の話は未だ引っかかっていない。

「そうだ、ニコラ、新しいお友だちが来たの。まだ事情があって眠っているけれど、起きたら仲良くしてあげてね」

 沈みそうな気持ちを払うように、フロリンダは明るく告げた。

「おともだち?僕みたいな子が、このおうちにきたの?」

「うん。女の子なの」

「その子、起きたら、僕と遊んでくれるかな」

 ニコラの目が、期待に輝いた。

 フロリンダもずっとそばにいてあげることはできないので、やはり、心細いのだろう。

「ええ、起きたら遊んであげてね。まずは、お薬飲んで元気にならないと」

 促すと、ニコラは意を決したようにハーブティーを一息に飲み干した。

「どう?」

 得意げにこちらを見る顔が、また可愛らしい。

 フロリンダは塗れた口元をハンカチで拭いやり、柔らかな頬にキスをした。

「良くできました!」

 ニコラを寝台に戻し、また来ると言い置いて、今度は迦楼羅族かるらぞくの戦士たちとの顔合わせだ。

 司守は王ではないので、謁見えっけんの間を持たない。

 応接室に案内して歓待かんたいするように、シャルロットに伝えてあった。

 迦楼羅族の戦士を五名、遣わせてくれると、璃守から連絡が入っている。

「お待たせしましたわ」

 言いながら両開きの扉から中に立ち入って、フロリンダは一瞬、歩を止めた。

 戦士たちは、卓に用意された茶にも手を付けず、背筋を伸ばして凛然と立ってフロリンダを出迎えた。

 その姿はほこらかで、彼らの矜持きょうじの強さを物語っている。

 中でも、四人の戦士を背後に控えさせた、リーダーらしき男性。

 アーチ型の上に花のステンドグラスの意匠いしょうをあしらった、華やかな大きな窓の前に立つには少々武骨ぶこつなその顔には、見覚えがあった。

 髪をすべて頭頂でまとめた、頑固がんこそうな顔立ちのその男は、以前、王である璃守の許可を得て、御前ごぜんでフロリンダがコテンパンにした相手だった。

「えーっと、確か、そう、亜仁玖アニク!」

 言いながらポンと片掌かたてのひらこぶしを打ち下ろすフロリンダの方へと歩み寄り、戦士・亜仁玖アニクは礼を取った。

「忘れずにいていただき、光栄です」

「忘れるものですか。あなたが来てくれると思わなかったわ」

「王のご命令ですので」

 誇り高く、それ以上に迦楼羅王への忠義にあつい彼にとって、王に意見したのはフロリンダが風の司守に選ばれた時だけだ。

 神の選定せんていに真っ向から不満を言うほど亜仁玖の璃守への敬愛けいあいは強く、厄介やっかいこうむったものの、フロリンダはそんな忠義を好ましく思っている。

 コテンパンにはしたけれど。

「あなたが警護に加わってくれるのならば、とても心強いわ。けれど、あなた失くして迦楼羅王の周辺は仕事が回るの?」

 フロリンダの言葉にやや驚いた様子で、けれど亜仁玖は心配には及びません、と力強く答えた。

「私と配下数名が抜けたとて、我が一族は精鋭揃せいえいぞろい。何事もありませぬ」

「璃守さまに最も信頼されるあなたがそう言うのでしたら、ありがたくご厚意に甘えましょう。

 話はすでに聞いていると思いますが、宮はまだ良いとして、ここ最近、風の領地では不穏ふおんな出来事が多い。あなた方の翼を信じて、境の聖地周辺を重点に、領地の全体の見回り、警護をお願いします」

「過分なまでのご信頼、痛み入ります」

過分かぶんではないわ。私はあなたと手合わせしたのだから、その実力は誰よりも知っているわ。詳しいことは、側近のシャルロットに聞いてください」

 フロリンダは右手を差し出し、握手を求めた。

「よろしくね、亜仁玖」

 亜仁玖は精悍せいかんな浅黒い頬に朱を乗せながら、フロリンダの手を握った。

 力強い大きな硬い手だった。

「必ずご期待に応えます」

 まずはお茶を、とソファをフロリンダがすすめるのを、亜仁玖は固辞こじした。

「私は客人として来たのではありません。すぐに役目にあたります」

 やはり、いささか頭が固い。

「わたりました」

 亜仁玖の姿勢を尊重し、フロリンダは耳飾りに触れ、シャルロットを呼び出した。 

 すぐさまノックが響いて、フロリンダの許可に応じて扉が開き、シャルロットが入室する。

「今日から風の領地の警護に参加してくださる、迦楼羅族の戦士の皆さんよ。彼らに警護地点の指示をお願い」

「はい」

 くせのない髪を揺らし、シャルロットは頭を下げて指示を受け止める。

 亜仁玖とシャルロットは真っ直ぐに違いを見交みかわし、名乗り合って握手を交わした。

 互いに力量を見定め、認め合ったのだろう。

 そのまま礼を取って全員が退出すると、プリムラがひょっこり顔を出して室内を覗き込んだ。

「…フロリンダさまは、心を翻弄ほんろうするうるわしきつむじ風、デスの」

「あら、いたの?プリムラ。詩を作っているのかしら。素敵ね」

それとも…と言葉を切り、フロリンダはちらりとプリムラをいたずらめかしてにらんだ.

「部屋の中での話を立ち聞きしていたのかしら。だとしたら、お行儀ぎょうぎが悪いわねぇ。お仕置しおきしちゃおうかな?」

 プリムラは軽く首をすくめる。

 背中の髪と同じマゼンタ色の羽が震えて、きらめく鱗粉りんぷんいた。

「次のお客さまの来訪をお伝えしに来たら、たまたま聞こえちゃっただけデスの!わざとじゃないんデスの~!」

「はいはい、次のお客さまね。どうぞお通しして」

 別に聞かれて困る話はしていない。

 秘密にしなければいけない会話なら、前もって部屋に結界を重ねる。

 それがわかっているから、プリムラも妖精らしい悪戯心いちずらごころで聞き耳を立てただけなことはわかっていた。

「かしこまりましたデスの~!」

 プリムラは先に用意された茶器を魔法で片し、通路側の扉からいったん出ていった。

 そして、部屋につながっている控えの間から、次の客人きゃくじんともなって現れた。

 雪のように白い肌に、髪は深雪しんせつの上にさす、優しい夕焼けを映したような淡い撫子色なでしこいろ

 瞳はアイスブルーだが、全体的にたおやかな雰囲気の美女が姿を見せた。

 ヴァルフロース山脈を越えた最北、氷霧ひょうむの彼方にある雪深い地に住む、氷精たちの代表だ。

 美女は、白絹しらきぬふちをやわらかく茜色に染色したドレスのすそまみ、優雅に礼を取る。

「ユリアと申します。フロリンダさまに冬のご挨拶をと伺いました」

 物腰ものごしも、口調も優しやかで好もしい。

 フロリンダはソファを勧め、自分も上座の一人掛けのそれに腰を落ち着けた。

 プリムラがお茶を出して、退出したところで話を始める。

「本格的な冬の到来とうらいを告げて回るのね」

「はい。ここしばらくの間、冬の到来を明確に告げることができないままで…力及ちからおよばず、申し訳ありません」

「それはあなた方のせいではないわ」

「けれど……」

 言ってユリアは、長い睫毛まつげを伏せた。

「初雪などの時期を決めるのは、私共の長の役目。長は、いわば冬を統べる存在です。

 ご存じのことと思いますが、その長が奥様、ご子息と血のつながった親族共々行方不明となってから、私たちの役目は、うまく回らなくなりました。

 ゆえに、風の皆様に頼ることが多くなって……。未だに長たちを見つけることができないのは、私たちの力不足です」

 フロリンダは、一昨日の朝、プリムラが話していたことを思い出した。

 —―突然消えた、冬の始まりと終わりを決める、氷の精霊—―。

「長の代わりとなる者は、現れないの?」

「はい。精霊は自然の巡りに不足がないよう、欠ければ生まれます。妖精の皆様と、そこは変わりません。

 長に代わる力を持つ者が誕生しないということは、長の血に連なる者が、世界のどこかに、まだ存在しているということです」

 ユリアの口調には、どこか悲痛ひつうな熱意がある。

「もしかして…、あなたは、長の血に連なる方々と懇意こんいにしていらしたの?」

 ユリアの瞳に、影が差した。

「……長の……二番目のご子息と、婚約……しています」

 膝の上に乗せられたユリアの白い手が、固くこぶしにぎられた。

「長の許しも得て、祝福されていました。優しく、責任感もある彼が、突然何も言わずに自ら姿を消すなんて、あり得ない。けれど、何の手がかりもなく……。

 仲間たちは、長たちが姿を消した当初から魔獄界まごくかい仕業しわざを疑い、懸命に探りました。方々にも力添えをお願いし、けれど、時が経てば忘れられていく。私を始め、まだ探し続ける仲間もいますが……」

「ごめんなさい。つらいことを聞いたわ」

 フロリンダは立ち上がり、ユリアの腰かける長椅子の隣に座った。

 震える膝上の拳に、自分の掌を重ねる。

 ユリアは髪を揺らしてかぶりを振った。

「いいえ、いいえ。聞いていただきたかったのです。どうぞ風の君、どんな些細ささいなことでも長たちのことがわかったら、教えていただきたいのです。

 あなたは情報を司るお方。風の司守さまにお会いできたら、お願いしようと常々思っておりました」

 ユリアは、すがりつくような眼差まなざしをフロリンダに向ける。

「あのひとが消えて、百二十年になります。人間ならば一生を終え、時代が変わるほどの時。私たちには、子どもが大人になるほどのひととき。

 けれど、愛するひとが突然姿を消した世界で生きる時間となれば、恐ろしく長い。それでも彼が帰ってくるのならば、この先、何百年何千年が過ぎようと、私は彼を探します。待ちます」

 熱い想いに、フロリンダは胸を突かれる。

 ユリアの姿に、以前、魔力を使い果たして息絶いきたえたロゼッタをかき抱いた黒曜の姿が思い出されて、なお切なくなる。

「わかったわ。私も気合い入れて、探すのを手伝う」

「ありがとうございます……」

 はらはらと涙を流しながら、ユリアはフロリンダの手を強く両掌りょうてのひらで包み込んだ。

 その手を強くにぎり返し、少し冷めてしまった紅茶にジャムを入れてユリアに手渡す。

 今朝方、ロゼッタが『新作です』とメッセージ付きで送ってくれたジャムだ。

「気持ちが落ち着くわ。ひとくちでも、どうぞ」

 言われてユリアは口を付けると、少し目を丸くした。

「私共の住む里の林檎りんごを使ったジャムが……?」

「そうなの?『希望の妖精』が送ってくれたのよ」

「まあ…先のわざわいを退しりぞけた、希望の妖精・ロゼッタさまに、こうして今評判のジャムにしていただけて…幸せな林檎たちですこと」

 ほんの少し頬を和ませ、またひとくち紅茶を口にすると、改めてユリアはフロリンダの顔を見た。

「私がお伝えできる情報は、彼らの名前しかありません。

 私の愛しいひとの名前はクラウス。長のお名前はハルヴァルドさま、奥様はリ-ヴさま。そして、クラウスのお兄さまの名は、レイ」

 その名を耳にした瞬間、フロリンダの中で散らばった情報がパズルのピースのごとまたたく間に繋がり、一つの確信となって脳裏に立ち現れた。

※※※

 温室の扉が開閉し、カタカタと軽やかな音を立てながら何かが近づいてきた。

 その音で、レイはゆるやかに眠りから引き戻される。

 こうばしい香りと共に、銀色の髪を揺らしてフロリンダがティーワゴンを押しながら横たわった寝台しんだいわきまで来た。

 目を閉じて眠ったふりをしたままのレイのかたわらで、紅茶を入れ始める。

「今日は朝食をとる時間もなかったの。だからブランチよ。お腹減ったわ。狸寝入たぬきねいりはやめて、あなたも食べましょう」

 バレていたかと、レイはあっさり目を開けて半身を起こす。

「朝食より、ここから解放してもらいたいね」

 髪をかき上げながら物憂ものうげに吐いた言葉は聞き流され、フロリンダは細い指をパチリと鳴らした。

 すると一脚の椅子が現れ、流れるような動作でそれに腰かける。

「まあそう焦らずに、まずはどうぞ」

 なかば投げやりな気持ちでティーカップを受け取り、しかし口はつけずにいるレイのかたわらで、フロリンダは優雅に紅茶をすすった。

 ティーワゴンには、焼きたての香りを放つ、数種類のパンが乗っている。

 フロリンダはその内一切れを手に取ると、ガラスびんからたっぷりジャムをすくって乗せた。

 それを口に運び、嬉しそうにめる。

 無防備な笑顔になかば呆れ、レイは思わず紅茶に口をつけた。

 爽やかな渋みが口の中をうるおす。

 久しく口にしていない、毒のない味が心にまで染み渡ってしまいそうだった。

 フロリンダは次にクロワッサンを手に取り、ココットにジャムを取り分けて、ちぎってはたっぷり付けて口に運ぶ。

「はい、あなたも食べてみて!損はないから!」

 二つ食べ終えたところで、フロリンダは白い皿にパンをとり、素早く空になったティーカップをレイの手からうばうと、ジャムの入ったココットをえて差し出してきた。

 気が付けば紅茶も飲み干してしまった手持ち無沙汰ぶたさで、あらがえずに受け取る。

 どうにも、ペースが乱される。

 知らず、フロリンダの生み出す流れに乗せられている。

 苦々しい思いで見遣ると、フロリンダはマフィンを新たに手に取り、またジャムをたっぷり乗せてかぶりついていた。

 ジャムからただようどこかなつかしい香りにられて、レイは気づいたらパンをちぎり、ジャムをつけて一口、かじっていた。

 舌に感じたのは、故郷の味だった。

 微かにスパイスのような酸味のある、懐かしい果実の風味。

「故郷の味がするでしょう」 

 胸の内を読んだようなフロリンダの問いかけに、思わず目をいた。

詮索せんさくするつもりはなかったんだけど、どんな巡り合わせなのか、わかってしまったわ」

 フロリンダはマフィンの最後のひとくちを押し込むと、咀嚼そしゃくしながらレイを見る。

 レイは視線を外し横顔を見せて、感情を消した。

 それは百二十年の中で、身についたもの。

「そんな冷たい顔しないで。今日、ユリアさんって方が冬の挨拶に見えてね。行方不明になった婚約者を探しているって話を聞いたの。ずっと探して、待ってるって」

 懐かしい名前に、胸がざわめく。

 ユリアが今でもクラウスを想い続けていると知り、それだけでもまわしい『主人』の奴隷に甘んじてきたことがむくわれる思いだった。

 —……やはり、逃がさなければならない。クラウスだけでも—――。

「私は風の司守。情報は自ずと集まってくる立場よ。あなたは百年以上前に、突然姿を消した冬を司る、氷精の長の血を引く者なのね。違う?」

「もうわかっているなら、確認する必要もないだろう」

「確認しなければ、推測でしかないわ。あなたからの事情も聞きたいし」

「首を突っ込まないでくれ」

 吐き捨ててフロリンダをにらもうとしたが、上手くいかなかった。

 口のわきにべったりジャムをつけたまま、至極しごく真面目な顔をしているフロリンダの間の抜けた様子に、毒気どくけを抜かれて凝視ぎょうししてしまった。

「どうしたの?私の顔に何かついてる?」

 本気で気付いていないのかとあきれた眼差まなざしを投げかけると、フロリンダは少し狼狽うろたえた。

「ついてるね。ジャムが」

「えっ!?どこ?」

 フロリンダは顔を探り、口元のジャムに気づいて親指で拭ってそれをめとった。

 さらにナフキンで、こしこしとこする。

 乳白色の肌に、ポッと薔薇色が散った。

 恥ずかしいとは思うらしい。

「失礼しました。というか、気づいたらまず教えてよ」

「それは失礼しました。さっきの君のように、敵を前にしてもりもりと食事を平らげるレディに遭遇そうぐうしたことがないので、対応に困った」

 皮肉たっぷりの返しに、フロリンダは、ぷうっと頬をふくらませた。

「意地悪ね、というか」

 ぷすっと頬から息を抜き、表情を和らげて軽く唇を尖らせる。

「私は、あなたは敵ではないと判断したわ」

 何を言わんやと見ている前で、「良く考えたの」と、フロリンダはひとりうなずいて見せる。

「あなたは邪気におかされているけれど、完全に堕落してはいない。境の聖地を穢したけど、攻撃としては手緩てぬるいし、このアルヴァレーゼ山に入り込んだのも、悪意あってのことじゃなかった」

 お人好しにもほどがあると、レイは呆れ果てた。

 特盛でジャムを食べているから頭の中まで甘くなるのかと、また皮肉ってやろうと口を開きかけた瞬間、

「あなた、魔獄界まごくかいの何者かに、人質を取られているのではなくて?」

 正鵠せいこくられて押し黙る。

「あなたの怪我は、邪気にまみれていた。あなたも相当な力を持っているのに、魔獄界の者に唯々諾々いいだくだくしたがったり、易々やすやすと傷つけられるのは不可解だわ。人質がいると考えれば、あなたの行動すべてに筋が通るの。

 身内を人質にとられているのね?」

 間抜まぬけかと思えば、突然鋭く真実に切り込んでくる。

 レイは内心の感嘆かんたんかくし、素っ気そっけなく言った。

「正解。大したものだと言っておこう」

「あなたを利用している奴は、何をしようとしているの?」

 レイは口を引き結んだ。

 知っていることをすべて打ち明けたら、フロリンダは正義の名のもとに敢然かんぜんと動くだろう。

 だがそれが露呈ろていすれば、自分を操る『主人』は、人質を即時に消す。

 自分が最も傷つく、むごい手段で―――。

「……言うわけにいかない」

「そう……そうよね。浅はかな質問だったわ。人質に危険が及ぶものね……」

 ごめんなさい、と素直に引き下がり、フロリンダは悄然しょうぜんと謝った。

 レイの胸に、チクリと針が刺さったような痛みが走る。

「……名前すら、まだつかめていないんだ」

 思わず力なくつぶやいて、そんな自分に、レイは動揺どうようする。

 すべてを吐露とろしそうになるのをおさえ、冷淡な口調を取りつくろって言葉を続けた。

「僕を操る『主人』は、とても狡猾こうかつだ。名をかくし、はかりごともほのめかしだけで加担させ、内容を伏せたまま秘密裏ひみつりに事がんだあと、関わったすべての者が精神によりダメージを負うように仕向ける。それを最上のよろこびとしているんだ。

 君のようなお人好しが、まともに相手をして勝てる相手じゃない。僕にも考えがある。君は関わらないでくれないか」

 しばし沈黙が流れる。

 やがて、フロリンダは小さく吐息した。

「私に協力できることは、ない?」

「カタリーナを任せた、それで充分じゅうぶん過ぎるくらいだ」

「わかったわ。お願い、もう一つ聞かせて。ケルピーは、あなたがあやつっていたの?ケルピーがさらってきた子どもを、人界の親元に返してあげたいのだけど…」

「あれも、命令に従ったまでだ。理由は聞かされていない。だが、人間の子どもには、帰る家はないということはわかっている」

 え?とフロリンダの顔に、動揺どうようが浮かんだ。

「あの子供は、悪魔へのにえにとさし出された子どもだ」

 つとめて何でもないことのように言った。

 脆弱ぜいじゃくだが、繁殖力はんしょくりょくの強い人間たちは、時折そうした邪悪でおろかなことをする。

 人目をけ、にえを捧げ、悪魔を使役しえきしようなどという浅ましいことをする。

 そんな真似をすれば、未来永劫使役されるのは自分の方だとも知らずに。

「なんてこと……隣人たちは、まだそんな真似をするやからがいるの……」

「そうした連中は、消えることはない。これからも形を変えて、そうした奴らは出てくるだろう」

 フロリンダは両手で顔をおおってうつむいた。

 人間たちの『良き隣人』を自負じふしている妖精であれば、つらい事実だろう。

 だが、悪魔に使役されるようになってから、そんなものはごまんと見てきた。

 そして、指示に従い、それらに手を貸してもきた。

 狡猾こうかつな『主人』は、レイが苦悩する姿に愉悦ゆえつを感じるがゆえに、何も打ち明けず、指示通りにした果てに悪だくみに加担したと気づかせる。

 そして、その事実に懊悩おうのうする自分を愉快ゆかいわらうのだ。

 あらゆる手段で精神にゆさぶりをかけ、自身が与える影響を噛み締め、えつひたる。

 しかし、どんな理由があろうと、結果として悪事に手を染めている己には、人の世に蔓延はびこる悪意をうれう資格はない。

 自分をあわれと思う資格すら、ない。

「よし!決めた!!」

 吹っふっきるように言って、フロリンダは豊かな銀の髪を揺らして力強く顔を上げた。

「私、本当のママになる!私がニコラを育てる!」

 両手をこぶしに握り、気合いと共に宣言した。

 妖精が美しい捨て子を拾って育て、鍛え上げるのは良く聞く話だが……。

「自分の騎士にして、恋人にするのか?」

「うーん、その発想は私にはないな!真面目な子育てよ。育ったら独り立ちさせるわ。

 アルスのとこに子供たちが学びに行くの、ちょっとうらやましかったのよねぇ。私も子どもを預かろうかなって思ってたから、タイミングばっちり」

 話の流れ的に場違いなほど明るいフロリンダの口調に、レイは鼻白はなじろむ。

 どうもこの妖精は、一筋縄ひとすじなわではいかない。

「私、あなたを尊敬するわ」

 また唐突に話が変わり、レイは思わずフロリンダをまじまじと見た。

 瑠璃色るりいろの、勝気そうな大きな瞳がこちらを見てきらきらと輝いている。

「ユリアさんが言っていたわ。百二十年は、人間ならば一生を終え、時代が変わるほどの時。私たちには、子どもが大人になるほどのひととき。けれど、愛するひとが突然姿を消した世界で生きる時間としては、恐ろしく長いって。

 楽しく過ごす時間はあっという間だけれど、心ならずも従う百二十年は苦痛で、とてつもなく長かったでしょう。

 その中でも、あなたは自分を見失っていない。なかなかできないことよ」

 レイは顔を背けた。

 言葉が光となって胸に差し込んでくる。

 屈服しないよう、抑え込み、塗りつぶした心の部分が照らされて、浮き上がってくる。

「いけない、ニコラにもお昼ごはんをあげないと」

 言ってフロリンダは立ち上がった。

 目のはしで、彼女がまとうオペラモーヴ色の生地がひらめく。

「寝てしまった私に、ストールを掛けてくれたのもあなたでしょ?

 ありがとう。優しいのね」

 おさえきれずに、レイの頬にしゅが走った。

「私にカタリーナを任せることも、勇気がいることだわ。これまでの経緯けいいからして、私にブッ飛ばされても不思議はないのに、頭を下げてたくすなんて、なかなかできることじゃないもの。

 それはそうと、ここに長くいるわけにはいかないでしょ?夜がけたら、出してあげる。そのために、ジャムを食べておいてね。それを食べると、回復が早まるわよ。そのジャムは特別だから!」

 明るく言って、羽をきらめかせながらフロリンダは足早に温室を後にした。

 花の香りのする、つむじ風が過ぎ去ったようだ。

 レイは立てた片膝かたひざ脱力だつりょくして額を付け、顔を伏せる。

 陽気で人好きのする典型的な妖精だと思えば、司守として峻烈しゅんれつな顔を見せ、時に間抜けで、かと思えば鋭い観察眼かんさつがんと分析力で真実を貫く。

 けれど、どんな顔を見せてもしんは、慈愛じあいに満ちている。

 —……なんだあの生き物は……。

 理解が付いて行かない。

 目の前から去った後まで、あの妖精について考えてしまう。

 レイは顔を上げ、脇に置いた皿を見た。

 苛立ちまぎれに手に取ってパンをちぎり、ココットのジャムに押し付ける。

 早く—―一刻も早く、ここを出よう。

 そうしないと、頭がおかしくなる。

 自分には『主人』から一族を解放するという切願せつがんがあるのに、そこに辿たどりり着くまでの自分を保てなくなる。

 ブレるなと強く自身に言い聞かせながら、レイはパンを飲み込むようにして食べた。

 —……余計な思考はいらない。感情はすきを作る。無駄だ……。

 自分の中に芽生えた、得体の知れない何かに捕まってしまうような焦燥しょうそうが、レイを知らず怯えさせていた。

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