わたしにとって最も長かった日々

 「ナタリー、もう、こんなにぐっすりと眠ってしまって」

わたしはあなたの冷たくなった手をそっと触った、そしてもう二度と、あのやわらかい声が聞こえないことを思い知らされた。

「ママ、今日も疲れたー」って、玄関のドアを開けて入ってきたあの音。「アイスある?」って冷蔵庫をのぞき込む背中。全部、もう戻ってこないのよね。


 それなのに、こんなにもきれいにしてもらって。まるで、いつものようにだらしなく朝方までテレビ見てそのままうたた寝しちゃったときみたいな寝顔だね。処置をしてくれたスタッフさんたち、ありがとうね。ほんとうに、あなたらしい穏やかなお顔にしてくださって。あのパーカー、ちゃんと着せてもらえてよかった。お気に入りだったものね。


 あなたが苦しまないようにって、そればかり祈っていたのに。こうして静かになってしまったあなたを前にすると、本当はまだもっと話したかった、もっと、ぎゅっと抱きしめたかった。という思い出いっぱいになった。わたしはもうあの病室の白いシーツの上で、最後に何を言ったかさえ思い出せない。間に合わなかった。母親なのに。本当にごめんね。


 ナタリー。生まれてきてくれて、ありがとう。あなたの命のすべてが、私の宝物だった。どんな形になっても、わたしはあなたのママ。いつまでも、ずっと。


 そしてスタッフの方が「では、これからお棺を閉めさせていただきます」と言ったとき、わたしは一瞬、胸が締めつけられるような感覚に襲われた。う、うん。これはただの儀式、段取りなの。でもその「ふたを閉める」という言葉が、どうしても「もう、あなたに触れられなくなる」という意味に聞こえてしまって……


 わたしはスタッフの方に「ちょっと待って」と言った後、何かにすがるように、あなたの頬をそっとなでた。すべすべしていて、まだ少し温もりがあるような気がしてしまって。

「ごめんね、行かせたくないのに。ママ、ちゃんと笑って送り出さなくちゃね」

わたしはそう言おうとして、うまく声が出なかった。「寝室」のとびらが閉まっていくあいだ、私は手を胸の前に組んで、祈るようにじっと見つめていた。


 でもわたしは、心の中でずっと叫んでた。「待って! もう一度だけ目を開けて! 声を聞かせて!」そんなこと、できないって、わかっているのに。係の人が静かにあなたの枕元のネジを回して枕の高さを下げているとき、それがまるで、わたしの中の「母としての時間」に静かにふたをしていくように思えた。


 ナタリー、あなたはもう、わたしの手の届く場所から旅立っていくんだね。でも、ママの心の中ではずっと生きてる。あの日の笑顔も、反抗期のちょっと憎たらしい言葉も、ぜんぶ全部、わたしの宝物だからね。


 台車にのせられ、あなたが「寝室」ごとホールの出口に向かってゆっくり動き出したとき、私は思わず後ろから叫びそうになった。でも、隣でヘイリーが私の手をぎゅっと握ってくれていた。


「行ってらっしゃい」

わたしは心の中でそうつぶやいた。わたしの涙は止まることはなかったけれど、できるだけ優しい顔をして。あなたが、「ワンルームマンション」でずっと心配しないで過ごせるように。


 そして、わたしたちはあの「ワンルームマンション」に向かう車に乗った。そこに着いたとき、あなたを乗せた台車は「個室」の前に着いていたの。そして、それが、そっと持ち上がった後、ゆっくりと、あのコンクリートの“個室”へと押し込まれていったんだよね。こんなにも丁寧に運ばれるあなたを見るのが、なんだか不思議だった。



 以前、ふたりで一緒に見学に来たあの時、あなたは「ちょっと寒そうだけど、静かでいいね」なんて、笑ってたね。あのときは、まさか本当にこんなに早くここに来ることになるなんて、思ってもいなかったんだよね。


 ねえナタリー、今、聞こえてる? 「個室」っていうけど、ここはちゃんとした「住まい」なんだよね。たしかにドアはないし、窓もないけど、あなたがここで静かに暮らせるようにって、私が選んだ場所。ごめんね、あんなに病院でがんばってたのに、こんなことになってしまって。


 係の人がふたをする準備を始める音がする。コーキング剤の匂いが少し鼻をついた。 私はひとつ深呼吸して、「個室」の外壁をそっとなでた。あたたかさはもうない。でもね、手のひらは覚えていてちゃんと思い出せるのよ。赤ちゃんだったころの、あなたの体温を。

「おつかれさま、ナタリー。よくがんばったね」

私のつぶやき声が、ふたの閉まる音にかき消された。


 ピタリと密閉される音がして、その瞬間、胸の奥がじわりと痛んだ。あなたを完全に手放す、その決定的な音だった。でも、泣かない。泣かないと決めてきたの。あなたが、ここで新しく始める静かな日々のために、私は笑って送り出したいの。


 「ナタリー……お隣さんに、ちゃんと“こんにちは”って挨拶するのよ。あなた、昔からそういうのちょっと苦手だったけど、大丈夫。向こうの人たち、きっとみんなやさしいから」


 わたしはそうつぶやいてから、手を合わせた。そして、少し名残惜しくも、その場をゆっくりと離れた。あなたが眠る「個室」の前に、季節の小さな花を一輪だけ、静かに置いて。


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