第20話 『勝利と麦茶と、背中と』
八回表。スコアは2対1。球場に響くのは、スパイクが掘る土の音と、キャッチャーミットの乾いた音。
「……来たぞ、5番。白川南の“曲者”」
ベンチの隅で、千紗が手帳をぎゅっと握る。飯塚が持ち込んだ“5年分の得点パターン”と、石原の“配球予測”、そして千紗がまとめた“心理傾向表”。三人で作り上げた“5番封じ”のプランが、いま試される。
「初球は外角低め……」
「二球目、フォークで空振り取って──」
「次、投げるなら──」
カキンッ!
乾いた打球音に一瞬、全員の視線が飛ぶ。だが、サード小野寺が鋭い反応でつかみ、そのまま一塁へ送球。
「よっしゃあああッ! 三者凡退だァ!!」
石原がミットを振り上げ、球児と軽くグラブを合わせる。その横で、飯塚がペンを止め、口元をゆるめた。
「……数字、裏切らなかったな」
八回裏。三島が高めのストレートをフルスイングで弾き返す。
打球は快音とともにレフト前へ抜けた。
「ナイスバッティン、キャプテン!」
「さっすが主将!」
ベンチの声援が一気に高まる。その後もチャンスを活かし、桜が丘はこの回に1点を追加。スコアは3対1。
そして、九回表──。
「あと一人だ。風祭、いけ」
ベンチから修司の声が短く飛ぶ。
球児はうなずき、マウンドに立つ。その背中を、石原がじっと見つめる。
「……頼んだぞ、相棒」
打者は最後の望みをかけてバットを構える。
初球、ストレート。ボール。
二球目、外角低めフォーク。見送り。
三球目、もう一度フォーク──
ストライク、ツー!
「あと一球……」
球場全体の鼓動が止まるような沈黙の中、風祭球児は大きく振りかぶる。そして──
スパーンッ!
ミットに収まる音が響いた。
見逃し三振。
「試合終了──! 3対1、桜が丘高校の勝利!」
スタンドの小さな応援団から歓声があがり、ベンチでは選手たちが思わず立ち上がる。
「っしゃあああ!! 勝ったぞオオ!!」
「これが……初戦突破か!」
整列後、球児がベンチに戻ると、修司が無言で帽子のつばを持ち上げ、小さくうなずいた。
父としてでも、監督としてでもない。ただの「野球人」として。
球児はほんの一瞬、目を合わせ、軽く会釈する。
グラウンドのざわめきが、徐々に薄れていく。
整列を終えたナインたちが次々とベンチを離れ、荷物をまとめにかかる。勝利の余韻が、あちこちに漂っていた。
声をかけあい、軽口を叩き、ユニフォームの汚れを誇らしげに眺める者もいる。
だが、風祭修司だけは、ベンチに残っていた。
帽子を手にし、無言のまま、ゆっくりと座りなおす。
誰もいないグラウンドを、しばらく見つめていた。
白いラインの引かれたダイヤモンド。汗の染み込んだピッチャーマウンド。ホームベースの縁に、わずかに残るスパイクの跡。
「……あいつら、ちゃんと“野球”してたな」
ぽつりと、独り言のように呟く。
この日まで、何度も迷った。父として、監督として。
ベンチで叫ぶのは簡単だった。言葉で引っ張るのも、形を整えるのも、指導者の仕事として慣れていた。
だが――**「預ける」**ということは、想像よりずっと難しかった。
ましてや、背番号1をつけたのは、かつて自分が育てきれなかった“息子”だ。
修司は、ベンチの壁に掛けられたスコアボードをふと見上げた。
桜が丘 3-1 白川南
「たった2点。でも、その2点の意味くらいは……わかるようになってきたみたいだな、あいつ」
ふと、誰かの気配がして振り向くと、外野のあたりで球児たちが帰り支度をしていた。
その中心にいるのは、風祭球児。まだ周りと完全に溶け込んだわけじゃないが、確かに今、「チームの中のエース」として、そこに立っていた。
修司は帽子のつばを戻し、静かに立ち上がる。
「……さて、俺も行くか」
スコアブックを胸に抱え、ベンチをあとにする。
勝ったから満足、じゃない。
だが、今日の一勝には、監督としても、父としても、何かを渡せたような気がしていた。
グラウンドの外に出る寸前、修司は一度だけ、振り返った。
そこにはもう、息子の背中はなかった。代わりに“桜が丘のエース”の背中があった。
■
試合が終わったあと、ベンチ裏に戻った石原は、真っ先にキャッチャーマスクを外した。
汗が額からぽたぽたと垂れる。蒸れた匂いと、土埃がまだ残るマスクを手に、石原はしばらく動けなかった。
――三者凡退。
あの八回表、相手の5番打者をどう封じるか。
試合前から何度もシミュレーションして、千紗のデータ、飯塚のパターン集、修司の戦術メモ……全部を頭に叩き込んだ。
でも、最終的にフォークを選んだのは、自分だった。
「……打たせてもよかった。でも、今日は“振らせたかった”んだよな」
石原はぽつりと独り言を漏らす。
グラブに響いた“ズドン”という音。
捕った瞬間、手が痺れるほどの重さ。でも、それは不思議な心地よさだった。
「やっと、あいつの球が“俺の構え”に来た気がしたんだよな」
ミット越しに見えた球児の目は、真っ直ぐだった。
誰の言葉でもなく、自分で選び、自分で投げた球。
その信頼が、キャッチャーとして何より嬉しかった。
マスクを両手で包み込む。
いつもは乱暴にバッグへ放り込むクセがあるのに、その日はなぜか丁寧に布でぬぐっていた。
「今日は、お前にも助けられたな……相棒」
冗談交じりにマスクに語りかけて、ようやく立ち上がる。
マウンドで受けたあの一球は、きっと一生忘れない。
守ったのは点じゃない。**「誰かの本気」**だった。
試合後の歓声が、まだ少しだけ残る球場。
その中で、石原はキャッチャーマスクを胸に抱え、そっとベンチへと戻っていった。
■
試合が終わったあと、球場の控室で、飯塚は一人ベンチに座っていた。
手元のスコアブックは、整然と埋められたマス目の中に、数字と記号が整列している。
ヒット、フォアボール、失策、盗塁──
書き間違いはない。配球も、投球数も、全て記録してある。
完璧な“記録”だ。でも──何かが足りない気がした。
飯塚は、ペンを置いて、ふと天井を見上げる。
「なあ……この一冊で、今日の全部は伝えられねぇよな」
あの4回裏、三島先輩がタイムリーを打った瞬間。
石原が、フォークのサインを出すまでの呼吸。
千紗が渡した麦茶の味に、風祭が笑ったあの瞬間の空気。
全部、マス目には入らなかった。
飯塚は、そっとスコアブックの裏表紙を開いて、そこにこう書き加える。
《余白のメモ》
・セカンド松井、エラー後に一度だけ手が震えてた。次の回、全力で声出してた。
・滝川の送球ミス、風祭は一言も文句言わなかった。
・8回表、石原と千紗の“目配せ”の意味……多分、打者の癖を読んでた。
・麦茶、ほんとにちょっとしょっぱかったらしい。
・風祭、整列のとき帽子のつばをちゃんと握ってた。たぶん、泣いてなかった。
書き終えると、飯塚は深く息を吐いた。
「よし……これで、記録としても、物語としても、残った」
数字の隙間にこぼれた想いを、そっと“余白”に詰めていく──
それが、スコアラー・飯塚のもうひとつの仕事だった。
■
勝利の整列を終え、全員がベンチに引き上げてくる。
そのとき、主将・三島大地はほんの数秒、白線の外――ファウルゾーンの土の上に立ち止まっていた。
グラウンドを見渡すのでもなく、誰かを待つのでもなく。
ただ、黙って、目を閉じていた。
「ここに戻ってくるの、あと何回だろうな」
声には出さず、胸の奥でつぶやいた。
この球場に来るまで、いくつの白線を越えてきたか。
ノックで転んで、手のひらを擦りむいたグラウンド。
笑えない練習試合、怒鳴り声、誰かの涙。
全部、もう戻らない時間だ。
でも、今日――
あの一打席。
あのタイムリー。
あの追加点。
「やっと“主将”として打てた気がする」
目を開ければ、ベンチ前で仲間たちが麦茶をまわしている。
風祭が照れくさそうに笑って、石原が肩をぶつけた。
千紗が手帳を閉じ、修司監督がそっとベンチの隅に座った。
三島は、少しだけ遅れて歩き出す。
白線の外で立ち止まった数秒が、夏の記憶に変わる音を、たしかに彼の胸に刻んでいた。
「あと何回だろうが、関係ねぇよな。……全部やりきってやるだけだ」
誰にも聞かれない声で、そうつぶやく。
背番号“8”の背中が、ベンチに向かって歩き出した。
それは、ひとつ勝ったチームの“次の一歩”だった。
■
帰り道、球児は千紗が差し出した麦茶を受け取る。
「……ちょっと塩、強くない?」
「気のせいだよ」
二人の足元には、西日に伸びた影が重なっていた。
夕焼けに染まるグラウンドの外で、夏の“最初の一勝”が、静かに胸をあたためていた。
■
グラウンドの片隅、ベンチ裏の小さな影に身を寄せながら、千紗は手帳を開いた。
ページの端には、薄く汗でにじんだ字が並んでいる。試合中は書く余裕なんてなかった。でも今なら、静かに思い出せる。あの瞬間の、風祭くんの背中を。
ゆっくりとペンを走らせる。
――“9回、三振を取ったときの風祭くん、ちょっとだけ笑った”
笑顔なんて、ほんの一瞬。
でも、たしかにそれは“勝った”顔だった。いつもの無表情な背中じゃなくて、ちゃんと誰かに見せていい表情だった。
石原くんがミットを外したとき、一瞬、目が合っていた。きっと、あのときの“笑った”は、ふたりのものだ。
――“整列のとき、ユニフォームの背中をさりげなく伸ばしてた”
「風祭球児」って、背中の文字。あのとき、なんとなく目で追ってしまった。
しゃんと背筋を伸ばして、ちょっと照れくさそうに一歩を踏み出してた。
あれは、野球部のエースじゃなくて、“ひとりの風祭球児”だったと思う。
――“麦茶を飲んだあと、「ちょっと塩、強くない?」って言った声が、やさしかった”
たぶん、気づいてた。わたしがこっそり塩を入れてるの、前から。
でも、あんな言い方をするなんて。風祭くんって、いつからあんなに“柔らかい”声が出せたんだろう。
あの声に、ちょっとだけ、夏の終わりが近づいてきたような気がした。
最後のページに、ゆっくり書き込む。
「今日の風祭くん:やっと、“勝った”ことを、ちゃんと味わえた気がした」
ページを閉じると、淡い夕陽がベンチを照らしていた。
風が吹く。麦茶の余韻と、夏の匂いが混じる。
千紗はそっと呟いた。
「……もう一勝、してもらわなきゃね」
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